2020年1月20日 (月)

丹沢登山記 1月 雲と競争

1/10(金)、前回から中4日で今年3回目の丹沢登山に出かけました。

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天気予報は晴れ。予報通り、太陽がグングンと昇っていました。

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すっかり枝葉を落としたスッキリとした樹々に陽が当たって、冬枯れとはまったく違った絵画のような世界となっていました。冷たい空気を胸一杯に吸い込みながらの静かな山歩きはなかなかいいものです。 

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出かけるときに先ず考えるのは、頂上まで登ろうかそれとも途中までにしようかというその日の行程です。午後から用がある場合は何時まで登って、何時の帰りのバスに乗るかを決めればいいのですが、予定がなくフリーの時は、天気次第、体調次第、気分次第となります。 

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この日は平日で、そろそろお正月気分も抜けてきていますので、登山者は少なく、静かな山歩きでした。前にも後に登山者の姿は見えず、まったく自分のペースで歩くことができました。今年に入って珍しく2回続けて山頂まで行きましたので、この日は途中で息切れしてもいいからとペースを上げてみました。 

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07:10分に歩き始めて1時間半(08:44)、富士山が姿を現しました。空は青く、富士山は白く、雲はカケラもありませんでした。朝とても寒かったのですが、気温がどんどん上昇していましたので、こういう日は大気が温められて富士山には雲が湧いてくることが往々にしてあります。 

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最初の岩場(山頂までに岩場は2ヵ所あります)で、先行者に追いつきました。かなりの荷物を背負っていました。

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09:43、ペースを上げたまま花立山荘に着きました。ここまでの目標ペースは1時間30~45分ですので、いいペースでした。富士山を見ると、いつの間にか海の方向から雲が流れてきていてい、裾野から山頂に向かって駆け上がっていました。ここから山頂までは30分で、雲が富士山を隠してしまうか、その前に登頂できるか雲との競争となりました。

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10:15、山頂への最後のステップまで来ました。青空を背景に、緑の葉をすっかり落とした枯れ木のような朽ち木のような枝が伸びていました。これらの木も春になれば青々とした葉をつけます。 

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10:18、登頂しました。風は冷たかったのですが、気温は0℃cと意外に高かったのでした。山頂にも登山者の姿は少なくひっそりとしていました。

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富士山の周りには雲がかなり湧いていました。富士山は完璧な独立峰ですので、太平洋側からの風の影響をまともに受けます。冷えた大気は気温が上昇すると暖められて雲になり、富士山にぶつかるように流れます。

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山頂にしばらくいると、ぼちぼち登ってくる人の姿も見えました。太平洋岸の空には薄い雲がさまざまな形で動いていて、風は強く、大気は不安定でした。

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10:39、下山を始めて10分も経つか経たないかのうちに、富士山を取り巻く雲の量が増えてきました。さらに時間が経つと富士山はすっかり雲の中になりました。途中で出逢った山頂に向かう登山者は、富士山の姿を見ることはできずちょっと気の毒でした。 

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丹沢(塔ノ岳)は、神奈川県では最も人気のある山です。手軽な山と思われているのですが、登山道には「丹沢登山の心得」という看板があります。要は~低山と思って舐めるなよ~ということです。レベルは中級レベルですが、トレーニングの山ともいわれているのです。  

この日は、下山のペースも頑張って、12:22発のバスに間に合いました。07:10にスタートして往復5時間10分の効率的登山となりました。13:30には帰宅して汗を流し、午後はのんびりと過ごすことができました。 

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2020年1月18日 (土)

本の旅 「転生廻廊」聖地カイラス巡礼 08問答修行

著者は高山病の軽い症状が消えませんでした。動脈血中の酸素を測定するパルス・オキシメーターで測ってもらうと75。理想は100で、平常値は90。数値が80を切ると危険です。早速高山病の薬を貰ってのみました。頭痛がなくなったことによって元気になり、カイラスへ向かって出発する前にもっといろいろな所を観ておきたいと思うようになりました。

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出発してしまえば、チベット高原四千キロを横断してカシュガルを経てウルムチ経由で帰国してしまいますので、このラサへは戻らない。少なくともチベットの四大寺院と称せられるセラ寺、デプン寺、ガンデン寺などは観ておきたいと思った。寺ばかりであるが、ここラサでは観るものといえば寺しかない。たとえば京都へ行って観光しようと思えば寺院になってしまうようなものである。

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ウルムチからやってきたランドクルーザーの一行は、寺田さんと雀さんが立てた旅行計画に従って、その準備に忙しい。食料、水、酸素ボンベ、テント、寝袋、ガモウ・バッグ(防水ナイロン製の緊急避難用加圧バッグ)などあらゆる場面を想定しての機材を手配して積み込んでいる。

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一行はゴンボを伴ってセラ寺へ向かった。セラ寺は、二十世紀初頭に河口慧海や青木文教、多田等観などの日本の僧がチベット仏教を学んだゆかりの寺である。ラサの中心地から北へ八キロほど行ったところにセラ寺はある。最盛期には五千五百人の僧侶がいたというが、僧侶を往時の一割に削減する中国当局の政策に則り現在は五百人ほどだという。それら削減された僧の大半はインドへ亡命し、北インドのラダックや南インドのカルナタカ州に寺を建立して、各寺で数千人の僧侶が修行に励んでいる。

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河口慧海がラサのセラ寺に入寺したのは、青木文教や多田等親が入寺する十二年前の一九〇一年。その頃のチベットは完全な鎖国状態であって、そんな国へチベット語をマスターして中国僧と偽りヒマラヤ越えで入国してセラ寺に一年ほど籍を置いた河口慧海は『チベット旅行記』を著した。著者たちは、セラ寺の正面に立った時、百年前にこの寺で学んだ三人の日本人僧のことを感慨深く思い出していた。私はネパールで河口慧海が滞在した宿を訪れたこともあり、その後この寺を訪れたときは、感激したものでした。

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チベット仏教は密教である、と言われる。偉大な宗教家たちが、少年期からの血の惨むような思いで顕教を何十年も学んだ後、その顕教の土台の上にチベット密教があることが案外知られていない。密教というと何かうさんくさい秘密めいた宗教のように思われがちである。セラ寺最大の顕教を学ぶ学堂セラ・チェがあり、そこで修学僧たちによって問答修行が行われていた。見ていると、その仕草が実に面白い。何か大きな声を発すると同時に左の足を高くあげ、左右の手を上下に向かい合わせに拡げて、その手を打つ拍子に足を激しく地面に打ちつける。問う者と問われる者があって、問う者が何かを問うときの動作のようだ。

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どんなことを問答しているのかは、このセラ寺に籍を置いて問答を体験した河口慧海の『チベット旅行記』にも描かれている。問答を手を叩き足を地に打ち付けて口から泡を飛ばして続ける。しまいにけんか腰となる。若い憎も何年も在籍する僧も混じっていて、次々と相手にするわけで、仏典を勉強していないと次の言葉に窮する。窮すると悔しいから必死に経典を学んで次回はやり込めてやろうとする。この問答修行は、論理的思考を鍛えるには有効といわれている。今日の日本では、若者がこうした侃々諤々(かんかんがくがく)の論争をしなくなったような気がする。

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補足説明 【比叡山】 京都と滋賀の境にそびえる比叡山は、伝教大師最澄によって国家を鎮護する道場として。以来比叡山は日本仏教の総合仏教修行道場として、多くの高僧・名僧を育てた。とくに鎌倉時代にかけて、比叡山で修行してやがて新仏教の開祖となった法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などを輩出した。ちなみに比叡山で伝えられる天台宗の密教は「台密(たいみつ)」と称して、空海の伝えた真言宗の密教と区別されている。

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セラ寺を出ると楊柳の並木が途切れ、青い空が開けた。頭上を何羽もの禿鷲が飛んでゆく。著者はあわててゴンボに駆け寄った。 「禿鷲が飛んでゆくけど、近くに鳥葬場があるの?」 「アリマス、イキマスカ」 「行こう」

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禿鷲が向かった鳥葬場は、セラ寺から二キロほどの裏山の斜面にあるという。一行はゴンボを先頭に先を急いだ。著者はなぜか異常に興奮していた。世界にはいろんな葬送の方法がみられる。著者は、葬式に二十数年も携わっていて、火葬、土葬、風葬は沖縄で、水葬はインド・ベナレスで見てきましたが、鳥葬だけは実際に見たことがなかった。折角チベットへ旅するのだから、なんとしても鳥葬の現場を見たいと思っていた。息切れが激しい。やっとの思いで峠を越え、立ち止まって前方を見ると、その向こうに巨大な岩が見えている。

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川辺を北へ廻り細い獣道のような山道を急いだのですが、残念ながらどうも終わったらしい。 「ザンネンデス、オワリマシタ」 ゴンボはふり返って言った。 「デモイキマスカ」  もちろん折角来たのだから、近くまで行こうと歩を進めた。近づくにつれ、あちこちで激しく羽ばたいている禿鷹に圧倒された。

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最近は、観光客が興味半分以上のマナーの悪さで見物に来るため、管理人が厳しく目を光らせているとか。著者たち一行は、どいうわけか真摯な態度が伝わったようで、特に注意させることもなく、じっくりとチベットのこの風習について考えることができました。 

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鳥葬場を見下ろす小高いところで、赤い喪服に身を包んだ遺族と思われる数人の人たちが、経を唱えていました。

この地へ来て三日間しか経っていないのですが、著者はなんとなくチベットがわかったような気がしてきて、次のように言っています。

わかったといっても、象の耳に触れて、それが象だと思った程度かもしれないが。ラサを中心にあちこちの寺院を見て回り、僧や巡礼者や、そして雪ちゃんやゴンボなどに会って、そして鳥葬場を見ているうちに、チベットの人たちが何を思い、どのように生きてきたのかわかったような気がしたのでした。

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2020年1月15日 (水)

本の旅 「転生廻廊」聖地カイラス巡礼 07悲しみと再生

ジョカンを後にして振り返った時、白い壁に囲まれた石碑に気づいた。「あれは、唐蕃會盟碑(とうばんかいめいひ)でないの?」 「ハイ、ソウデス」 私は再び戻って、塀の小さな風穴のような窓から中を覗いた。中は薄暗く、石碑の文字は見えなかった。 「文化大革命ノトキ、ケズラレタノデス」 ゴンボは怒ったような顔をして言った。

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この石碑は、吐蕃(チベット)が全盛の頃、何十年にわたる唐との戦争の果ての八二二年、中国とチベットとの国境線に石柱を立て、不可侵条約を結んだ時の記念碑である。同様の石柱が、長安の宮殿の前にも立てられ、これら三本の石柱にはチベットも中国も、この定められた境界線を越えて不法侵入はしないという相互誓約が漢字とチベット文字で刻まれてあったという。

「チベットハ誓約ヲマモッテキタノニ、中国ガヤブッタ」 ゴンボの怒ったような顔におびえがある。最初に出会ったチベット人ガイドの雪ちゃんにもおびえがあった。

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「ダライ・ラマ十四世は、非暴力の原則を堅持して平和的チベット独立を訴えているけど、ゴンボはどう思う?」 「ダライ・ラマハ尊敬シティマスガ、独立ハダレモシンジティマセン」 「どうして?」 「毎日トラックデ漢人ガチベットニハイッテキマス。チベット人六百万デ、漢人七百万デス。コノラサノ漢人ノ半分ハ軍隊卜公安デス。チベット人に仕事アリマセン」

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ラサの朝は、七時になってもまだ暗い。北京時間に時計を合わせているからである。こんな中国のような広大な国で統一時間とする方に無理がある。著者は、高地のせいなのか、息苦しくほとんど眠られないまま朝を迎えました。手帳を見たとき、字がかすんで見えなかったことも気にかかっていました。

同行の企業役員の小林さんはじめ午後に到着するカメラマンの寺田さんも救急看護隊員の黒田知子さんも登山経験は豊富である。今回のメンバーで登山経験のないのは著者だけというのも気になっていました。ホテルの階段をやっとの思いで上り下りしている有様では先が思いやられるのでした。

この息苦しさはとてもよくわかります。何回か宿泊したヒマラヤのエベレストビューホテル(3880m)でちょっと移動するだけで目眩がしたものでした。

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しばらくすると寺田さんと黒田さんが、今回の旅を仕切る中国旅行社の崔(さい)さんと共に到着した。ほとんど同時に、ウルムチからランドクルーザー三台が到着した。車を運転して来た三人は、ウルムチを出発して、ハミ、敦煌、ゴルムド、アムド、ラサと三千キロ以上の道のりを八日間かけてやって来たのだという。三人の運転手は、全員新彊ウイグル自治区の出身で、馬さん、雷さん、史さんといい、いかにも騎馬民族の末裔のような精悼な顔をしている。

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これでチベット高原を横断してカイラスへ向かう総勢九人全員が揃いました。一行は早速ポタラ宮内部の見学にでかけました。私が訪れてたときも、ポタラ宮の入口には多くの観光客が列をなしていました。入場料がかなり高いことや見学時間は1時間くらいと決められていて時間オーバーすると現地ガイドさんにとっては大変なことになることなど、入場するだけで大変です。

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チェックインをすませていよいよ見学となしましたが、高山病気味の著者にとっては苦行になりました。石段が延々と続き、ラサ市の標高自体が3,650mと高く、富士山の9合目から頂上を目指すようなものなのです。階段を上るのにも心臓がパクパクいいました。

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世界の屋根といわれるチベット高原に住む人々は、自国のことを「蓮華の国」と言ったりする。ヒマラヤ山脈や崑崙山脈の山々を蓮の花びらに誓えて、自分たちは蓮華台に住む人間だと思っている。蓮華台に上るには仏にならなければならない。今生では無理だとしても、再度人間に生まれ変わって、今度こそ功徳を積んで仏になって蓮華台の上に座りたいと願っている。チベット人の多くはそう思っているし、実際そう願って今日まで生きてきたのです。

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ポタラ宮は、そうした願いを実現するための政教一致の拠点であって、聖俗一如の即身成仏即ちダライ・ラマの居城であった。その中でダライ・ラマ五世(一六一七-八二年)の霊廟は金や宝石がふんだんに使われた見事なもので一見に値するといわれ覗いたが、著者にはまったく興味のないものでした。ゴンボは金が五トンも使われていて、ダイヤやトルコ石などの宝石が何千個も使われているなどとさかんに説明していたが、その声が耳に届く度に不快になった。私も、ポタラ宮は宝物殿のように感じたものです。

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著者がチベットに来る前に読んだ書物に、歴代ダライ・ラマのミイラが霊廟に安置されていると書かれてあったので、それを見たいばかりに長い階段を息切れしながら上ってきたのでした。まさかミイラまでもが金で覆われてあるとは想像もしていなかった。著者のミイラのイメージは、干からびた干物に似た感じのものである。そうしたイメージが脳に焼きついたのは、ミイラのある東北の寺に二晩泊まったことによるものでした。

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山形県鶴岡市の月山の近くにある湯殿山・注連寺に行った時、住職に「あのミイラは本物ですか」と聞いて攣壁を買いました。当時著者は、わが国では数少なくなった現存するミイラの中でも有名な鉄門海上人の即身仏であることを知らなかったのでした。

私自身は、 20157月に東北周遊のさい、湯殿山・注連寺(833年弘法大師が開基)を訪れました。ミシュラン・ガイドで「訪れる価値あり」としてこのお寺と即身仏が二つ星に選ばれたのです。こちらに安置されている即身仏は「鉄門海上人」で62歳で即身仏になったそうで、間近でご対面しました。今まで4体の即身仏に対面しました。

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ダライ・ラマ自身が入定即身仏になろうと思ったわけでもないのに、なぜミイラにされ金箔を貼られているのか著者には疑問に思えました。日ごろ人々に、死ねば肉体は抜け殻だから利他の精神で死体は鳥か魚に与えよと仏教の真髄ともいうべき教えを説いていながら、法王の死体だけは永久保存をするのもおかしな話と感じたのです。チベットの人々はけなげにも、その教えに従って鳥葬や水葬を行っているのです。

上人(即身仏)たちの名に「海」の字が入っているのは空海の一字をとってのことです。空海が入唐して中国から密教を伝えたのですが、今日まで生きた宗教として密教が残っているのは日本とチベットだけとなっています。著者は、なぜ密教がチベットと日本に残ったのか、そのこともこの旅で学べたらとも思っていました。

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2020年1月12日 (日)

本の旅 「転生廻廊」聖地カイラス巡礼 06チベットの悲劇

一九五四年に北京を訪問したダライ・ラマ十四世に毛沢東は耳打ちしたという。「ダライ・ラマよ、宗教は毒だ。宗教には二つの欠点がある。一つは民族を次第に衰えさせる。第二に国家の進歩を妨げる。チベットとモンゴルは宗教によって毒されてきたのだ」(ダライ・ラマ著『チベットわが祖国』中公文庫)

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著者は、チベットの悲劇へと思いを馳せました。チベットの悲劇はこの「毛沢東の言葉か」ら始まったと言ってもいい。今日の人間社会は、科学と経済こそが人々を幸せにすると信じる集団が、宗教と固有の文化こそが人々を幸せにすると信じて疑わない人々を追い詰めている。無為とも思える行為を繰り返す僧の姿を見ながら、あの僧は追い詰められれば追い詰められるほど来世への想いが強固になるだろうなと思った。そう思うと著者は悲しい気持ちになりました。

チベットを旅したり、書物を読むとチベット人の信心深さは半端ではないことがわかります。今まで何でだろうと思ってきたのですが、著者が言う 追い詰められて という言葉がストンと腑に落ちました。

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気がつくとゴンボがまだ行かないのかという顔をして立っていた。私は、横に座ってニコニコしながらマニ車を回していた老婆に小銭を渡して立ち上がった。石畳にじかに座っていた私に、自分が敷いていた小さな座布団を貸してくれていたからである。

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ジョカンの正面入り口から左へ向かって歩き始めたら、ゴンボが右へ来るよう促した。巡礼のことをチベットではコルラといって、コルラする場合は必ず時計回りに進むのだそうである。それは決められた巡礼者だけでなく、カイラス山やマナサロワール湖といった聖地を巡るときも、寺院などの堂内の安置仏を巡るときも等しく右回りをするのだそうである。

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コルラの際には右手にマニ車を持ち、左手に数珠を持ち、口に真言を唱えながら歩く。中には草の前掛けをし、板に草を張った手袋をはめ五体投地をしながら進む巡礼者もいる。そんな巡礼者の真撃な姿勢を見ていると、今日の日本人が描く巡礼のイメージとは本質的に違うような気がしてくる。著者が気がついたように信仰には温度差があります。どこの聖地でも、私を含めて物見遊山の人はたくさんいます。

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著者一行は多種多様な店をあれこれ見ながら歩いているうちにバルコルを一周しました。高地ですのでちょっと歩いただけで疲れます。 「ゴンボは日本語どこで習ったの?」 「日本デナライマシタ」 「日本に居たの?」 「ハイ、新宿ノラーメン店デハタライテ日本語ノ学校へイキマンタ」 「日本に何年居たの?」 「ハイ、三年イマシタ。ソシテカエッテキテカラ……」 ゴンボは口ごもった。

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私は、ゴンボが話の途中で口ごもり声を低くしたことで、出発前に覗いたダライ・ラマ法王日本代表部事務所のホームページを思い出していた。そこにはチベットを旅する人への注意事項が次のように載っていた。 「中国当局は、ラサのポタラ宮やガンデン寺院やジョカンなどの有名寺院には監視カメラを設置し、常に私服の公安を配置して警備している。ゆえに政治的な話をするときは注意を要する。特にダライ・ラマ十四世の写真を持っているだけで逮捕されることがあるから注意すること」 (画像は、20139月にチベットを訪れたときに撮影。大きな寺では中国・公安に後をつけられていたようでした。)

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著者は小声で聞いてみた。「ここに住むチベットの人たちは、亡命したダライ・ラマをどう思っているの?」 「先生ハドゥオモッテイルノデスカ」 「私は心から尊敬しているよ、立派な方だと思っている」 「ソウデスカ」と近くにいた客が立ち去ったのを見届けて「チベット人ハミンナ今デモ尊敬シティマス」と言った。

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「さっき途中で話を止めたね、日本から帰ってきてからどうしたの?」 「………」 ゴンボは私の目を直視した。会ったばかりだから無理もないが、まだ信用されていないようだ。私は成田から成都へ向かう機内で読んできた文春文庫の『ダライ・ラマ自伝』がザックにあるのを思い出し、ファスナーを開けてゴンボに見せた。表紙はダライ・ラマの写真であった。

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ゴンボは、わかったという顔をして語り始めた。ゴンボは日本から帰国すると、就職活動をしたが職に就けず、同じような仲間と亡命政府のあるインドのグラムサラヘ行こうと冬のヒマラヤ越えをしたそうだ。四十日かかったという。しかしダラムサラでも職に就けず、しまいに中国のスパイではないかとの容疑をかけられる羽目となり、失望して再びヒマラヤ越えでチベットヘ戻ったのだという。

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「どうしてスパイ容疑をかけられたの?」 「ワタシ学校デ中国語シカナラツティナカッタカラ、チベット語カケナカッタカラ」 ゴンボは話の途中で涙顔になった。それは彼の父や兄や親族六人がチベット動乱や文化大革命のとき殺されたり獄死したりしたことを話したときだった。

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私自身はチベットには一回しか行っていませんが、四回行ったネパール側のヒマラヤでチベット仏教に触れる機会はたくさんありました。チベット人の信心深さがチベットを滅ぼし、信心深さがさらに来世へと追い詰めているとしたらとても哀しいことです。

補足:【ダライ・ラマ十四世】 名はテンズィン・ギャツォ。一九三五年七月六日、中国青海省で生まれる。家は貧しい農家で、二歳のとき、十四人目のダライ・ラマと認定された。ダライ・ラマという称号は「知恵の海」を意味し、その称号を持つ者は慈悲の菩薩である 観音菩薩の生まれ変わりであると考えられている。五九年、チベット動乱の際、インドに亡命。以後亡命政府を樹立し、チベットの平和的独立を目指す運動を続け、八九年にノーベル平和賞を受賞した。現在もなおチベット人の心の支えとなっている。インドのダラムサラ在住。

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2020年1月 9日 (木)

本の旅 「転生廻廊」聖地カイラス巡礼 05有意と無為

著者はジョカン(大昭寺)とその周辺の光景からさまざまなことを想起しました。

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「ダイジョウブデスカ」 耳元で声がした。ゴンボは私の顔さえ見れば 「ダイジョウプデスカ」と言うようになった。 私は、僧らしい男が、何か米粒のようなものを何十粒か手に握り、眼の高さほどのところから膝に置いた掌へ流すように落としていた。その動作を、右手から左手、左手から右手と何十回と繰り返していた。そして時々経典を手にしてブツブツと唱え、再びその動作を繰り返すのだった。

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「さっきからあのようにずーつと同じことを繰り返しているけど何をしているの?」 「シュギョウデス」 「えっ?」 ゴンボはそう答えたが自信がなかったのか、その僧に近づいて何か話しかけた。僧は私の方を見ながら笑顔で答えている。ゴンボは戻って来ると、言った。 「一粒ノ麦ガ世界ダトイッティマス」 そうか、一粒の麦が世界か、私は言い知れぬ感動を覚えた。

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一粒の麦のいのちが、宇宙のいのち即ち大日如来のいのちと知るのが密教の教えである。一粒の麦が世界であるなら掌にある数十粒の麦は三千大千世界(全宇宙)を表しているわけだ。あの行為もチベット密教の観想法の一つのようだ。(大麦の一種のチンコー麦(裸麦)は、チベット人の主食ツァンパ(麦こがし)の原料で、炒ってから粉にして練って食べます。)

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僧の単調な繰り返しを見ているうちに著者は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を思い出しました。この僧の心の眼には、一粒一粒の麦が星となって光っていて、掌から掌へ移される麦粒が天の川のように輝いて流れているのではないだろうかと。そして信仰という名の切符を持って三次元から四次元への旅をしているのではないだろうか。「一粒の麦が世界」といった言葉が、そんな連想を生みました。

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しかしこうした行為も、来世や四次元世界を信じない人から見れば、なにをくだらないことをやっているのだと思うことだろう。くだらないとまで思わなくとも、無為な行為と映るに違いない。無為といえば、ただ座っていればいいとした道元の「只管打座(しかんだざ)」も無為そのものである。

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著者の連想は良寛にまで及びました。良寛が手まりをついてひねもす過ごすのも無為であろう。だが、そんな無為と思われる行為も、人によっては、賞賛の的となる。たとえば、良寛が手まりをついて遊んでいると聞いた貞心尼は、庵まで訪ねたが、あいにく良寛は不在だったので手まりに添えて歌を託す。(これぞこの 仏の道に遊びつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ) 良寛さんは手まりをついて遊んでおられると聞きますが、私には尽きせぬ仏道への精進とお見受けしますと賞賛するのである。それに対して良寛は返歌する。

(つきて見よ一二三四五六七八九十を 十とおさめて また始まるを) 手まりを無心についてみなさい、十までついたらまた繰り返して無心についてゆくと仏の世界が開けるのですと良寛は応えた。一八二七年、良寛七十歳、貞心尼三十歳の時。

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しかし実際に良寛のような人間が近くにいたら、汗して働く人々の眼にはどう映っただろうかと思ってしまう。きっと目障りに思ったに違いない。比叡山や永平寺の奥でいくら無為の行為を続けようとむしろ精進しているということになろうが、有為を是とする婆婆(しゃば)世界にあっては無為の行為は社会悪とされてしまう。

納棺師の仕事を通した著者の死生観はとても興味深く、教えられることも多い旅となっています。

 

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2020年1月 7日 (火)

丹沢登山記 1月 初富士リベンジ

初めて元旦登山にトライしたのですが、寒い(これは当然)し、霧でまったく景色は見えず散々でした。新年の富士山を見たいと機をうかがっていたのですが、1/5(日)の丹沢山の天気予報は快晴となっていましたので出かけました。新年会だなんだかんだとアルコール漬けになった身体でしたが、アルコールを抜くにはちょうどいいタイミングでした。

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登山客が乗った始発バスはほぼ満杯でしたが、臨時増発バスが出るほどではありませんでした。登山口のレストハウスには朝陽が気持ちよくあたっていました。身支度を整えて、07:10に出発しました。 

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歩き始めてほぼ1時間ほどにある最初の山小屋・見晴茶屋では、宿泊客とおぼしきグループが朝陽に向かって整列して記念写真を撮っていました。新年会でもしたのでしょうか。

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08:08、この日もとても寒かったのですが、1時間も歩くと汗をかき、急登になると汗びっしょりになりアルコールも抜けていくようでした。気をつけないと、歩みを止めるとすぐに身体が冷えますので、山頂までできるだけ休まないようにしています。

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09:01、スタートして2時間、富士山の頭が見えてきました。空は真っ青、富士山の白い頂が眩しいようです。このまま雲が湧いてこなければいいのですが、油断するとたった30分くらいでもすっかり姿が見えなくなることがあります。山頂まであと1時間ちょっとです。

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長々と続く急傾斜の道を振り返って見ると、下山者がへっぴり腰で恐る恐る下って行きました。登るのに夢中になっていたのですが、気温の上昇とともに凍っていたアイスバーンの表面が溶けてきて滑りやすくなっていました。

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雪はそれほど深くはないのですが、5~10センチくらいの積雪は逆に滑りやすく、岩場手前にさしかかって、登山者も恐る恐るになってきました。

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岩場は陽当たりが良く、積雪がどんどん溶けてゆくのですが、それだけ滑りやすくなりました。

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滑りやすいのと、階段と違って段差が大きくまちまちすので、あごも息も上がってきて、ゼイゼイ喘ぎながら登る人が目立ちました。

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09:35、山頂まで40分くらいの地点で、空には雲一つありませんでした。このままでいけば、山頂から雲一つない富士山を拝めそうでした。

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花立山荘手前の急登の階段を越えたあとの開けた場所では、ヒマラヤの空のような青空が広がっていました。日当たりがいいこの場所で積雪がだいぶ残っていましたので、随分雪が降ったようでした。アイゼンを使うほどではないのですが、下山の時は要注意です。

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山頂が近くなると、小さなアップダウンがある場所では滑りやすく、おっかなびっくりでした。

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雲一つない真っ青な空は、頂上への最後のステップで見上げてもそのままでした。 

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とても気持ちのいい山頂だったのですが、気温は-5で風もありましたので寒く、じっとしていることも長く景色を楽しむこともできず、写真を撮るとさっさと下山する人が多くいました。 

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07:10にスタートして10:15、無事に登頂しました。途中で休憩していると身体が冷えますのでノンストップ(いつもですが)で登りましたので、3時間ちょっとで山頂に着きました。寒いので、シャッターを押してもらい、仏様たちに手を合わせて早々に下山しました。 

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初富士。元旦登山のリベンジができました。美しい姿ですが、積雪が少ないのがちょっと残念! 富士山に積もった雪は、やがては地下水となり湧水となってさまざまな形で私たちの生活を潤してくれるのです。 

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相模湾から真鶴半島、熱海沖に浮かぶ初島までスッキリと眺めることができました。

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下山は、細心の注意を払って恐る恐るでした。  

この日は、年に何回かあるかないかの好天でした。元旦登山で出逢った埼玉県から来ていた若いカップルや、大晦日からご来光を目指して登っていた皆さんに見てもらいたいような富士山でした。今年何回登れるかはわかりませんが、こんな日もあれば霧で何も見えない日もあると思いますが、自然相手ですから覚悟の上です。

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2020年1月 4日 (土)

本の旅 「転生廻廊」聖地カイラス巡礼 04「観自在」の光

著者たちはポタラ宮内部の見学を諦めて市街地にあるジョカン(大昭寺)へと向かいました。

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「観光」という字句を広辞林でみると、名所史跡・風物・景色などを見物することとある。しかし著者にとっては字句通りに光を観に行く旅のことだと思っている。そのように思うようになったのは、ある不思議な体験をしてからでした。毎日死者に接しているうちに、死者の顔が安らかで美しく見えるようになった。時には死者の顔に微光が漂っているように感じることさえあった。

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そんな微光に導かれるように著者は宗教書を読むようになっていた。その中で親鸞の『教行信証』に出遇って驚きました。親鸞は釈尊が光顔巍巍(こうげんぎぎ)と光り輝いた場面を教行信証の中心に据えている。浄土門の宗旨からいってアミターバ(光)即ち阿弥陀如来を中心に据えるのは当然だろうが、宗教に関心もなかった著者には鮮烈な驚きでした。

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親鸞は、この光のことを不可思議光と言っている。著者は、そんな光に導かれるように『納棺天日記』を一気に書き上げました。  しかし、いつの間にかあの美しい光を見ることがなくなっていた著者は、もう一度あの光に出遇いたいと思い、聖地カイラスを巡礼すれば、あの光に遇えるかもしれないと出かけてきたのでした。

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著者は次のように書いています。チベット人は、カイラス山のことを観音菩薩の化身だと信じている。観音とは、サンスクリット語で光または観と自在の合成語で「観自在」と漢訳されたり「光世音」と訳されたりしていたが、やがて「観世音」となり省略されて観音となったという。「光」と「観」の語源が同根であることが大変重要な意味をもつ。それが観自在菩薩の眼であり光なのだ。その光は影を作らない。影を作らない無碍の光。それが宗教のいう光である。古来そんな光に出遇うことを人々は夢見てきた、と。(カイラスの姿は、観音菩薩が光背をまとった姿に見えます。)

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著者はさらに続けます。影が深まって心の闇となったとき、人は巡礼に出たりする。四国巡礼をするお遍路さんが「観自在菩薩、行深般若波羅密多時・・・」と般若心経を唱えながら歩くのも、観自在の光に出逢って心の闇を消し去り、生死を超えた安心を願う行為に他ならないとも考えています。

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著者たち一行はジョカン(大昭寺)へと行きました。ジョカン寺の広場は人であふれていました。

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本殿入口では多くの巡礼者が五体投地をしている。著者はしばらく立ったまま見ていたが、やがて磨り減った石畳の上に座り込んだ。 「ダイジョウブデスカ」 ゴンボが近づいてきて言った。著者は耐えきれなくなって座ったわけではなかった。次々にやって来て五体投地をする巡礼者の様子を見ていたいと思って座ったのでした。

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五体投地は全身を使う。まず両方の手を合わせ、はじめは額、次に口、次は胸に当てて、手を離したら腰を折りうつぶせになって地面に額をつけ手を前方へ伸ばす。それを何十回と繰り返す。著者はそんな様子を見ながら、なんと激しい礼拝方法だろうかと思った。わが国では南無阿弥陀仏と言ったり、南無妙法蓮華経と言ったり口で唱えているが、本来、南無とは帰命のことで帰命とは信仰の対象にわが身を投げ出すことである。そうした意味では五体投地ほど明確に信仰を表現している礼拝方法はない。

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イスラム教徒の礼拝も体で表現する。法華信者や念仏信者が声を出すのも信仰の証である。ところが今日の先進国といわれる国々にあっては、声も体も使わなくなって経典や聖典を解釈するだけの宗教となってしまっている。そんな風潮を懸念してか、ダライ・ラマ十四世は「経典を語るな、あなたの体験を語れ」と自著で呼びかけている。著者は、まさに至言だなと思いながら五体投地をする巡礼者をいつまでも見ていました。

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ジョカンは大昭寺(だいしょうじ)とも称される七世紀中期に創建された吐蕃時代の寺院です。吐蕃(チベット)のソンツェン・ガムポ王の死後、ネパール人王妃が亡き王のために建てたというのが定説。現在その王妃がネパールより持参した十一面観音と唐より嫁いだ文成公主が持参した釈迦牟尼像が祀られている。ゆえに二人の王妃が協力して建てたという説もある。ラサでは最も聖な寺院とされ、チベット全土からラサを目指す巡礼者は、このジョカンに詣でることを目的としています。

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またジョカンの周囲を巡る巡礼道があって、バルコル(八角街)と呼ばれ多くの屋台店が立ち並び、巨大な門前市と化しています。

私も、20139月にチベットを縦断し、ジョカンも見学し五体投地も目にしました。そのときは著者のように深く考えることはありませんでしたが、改めて「転生回廊」を読んで著者の考え方にとても納得しました。

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2020年1月 1日 (水)

丹沢登山記 1月 初詣登山

新しい年がやってきました。毎年元旦は、カミさんと二人で日本酒で乾杯して、そのあと近場の神社に初詣をしていたのですが、気分を変えて丹沢山(塔ノ岳)山頂に鎮座している仏様たちを参拝してみたくなりました。

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元旦の丹沢登山は初めての体験でしたので、どんな人たちが集まり、どんな登山になるのか興味津々でした。バス亭には始発バスを待つ先客が、寒さをじっと我慢していました。時刻は00:38で、始発バス(06:48)まであと10分の我慢でした。私はこの間に、駅前のコンビニで昼食用の稲荷寿司を仕入れたりブラブラしたりして時間を過ごしています。そしてお腹にはホッカイロをこっそり貼り付けていました。 

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06:43、電車が着くたびに登山客の列は延びるのですが、始発バスの出発5分前でこの人数は通常の半分以下というところでしょうか。バスが出発する頃には、登山客は20人くらいに増えていましたが、それでも普段よりは少なく、やはり元旦から登山というもの好きは少ないようです。

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07:11、バスが登山口に着くと、ここでも普段見慣れない光景がありました。海の方向、東の方向を見つめてじっと佇んでいる人や諦めて戻ってくる人たちの姿があり、ここから初日の出が拝めるようでしたが、残念ながらご来光は雲に阻まれたようです。

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初日の出を期待した人とは別に、バスから降りた登山客は準備や準備体操に余念がありませんでした。いつもは挨拶を交わすような人や見知った顔の人たちが何人かいるのですが、この日はまったく知らない人たちばかりで、逆に新鮮な感じがしました。この人たちはどんなペースで登るのか、それも興味がありました。

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07:16、歩きだして5分くらい経ったとき、一瞬空が明るくなりました。陽が随分昇ってきて、雲の隙間から顔を出しましたが、その上には厚い雲があって、すぐに雲に隠れてしまいました。

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07:38、登り始めて30分くらい経過したあたりで、ゆっくりとしたペースで登って行く熟年のご夫婦に追いついて、挨拶を交わして追い越しました。物静かで、他の登山客とはまったく異なる雰囲気で、まるで巡礼の旅に出ているお遍路さんのようでした。結局このご夫婦は、私が登頂して下山している途中で出逢いましたので、かなりゆっくりしたペースで、多分4時間くらいかけて登頂するものと思われました。なにか願掛けに向かうような雰囲気で、心の中で頑張れ!とつぶやきました。 

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08:02、登り始めて50分くらいで最初の急傾斜の階段にさしかかりました。前を登っている人たちは40代前後の元気そうな壮年グループの人たちで、順調なペースで登っていました。ここまで1時間近くでほぼ同じようなペースでしたので、このままどこまで壮年グループについて行けるか、トライしてみました。上から、カラフルなウエアの軽装の若い人が降りてきました。山頂でご来光を仰ごうと、大晦日の深夜に登った人たちが下山してきました。残念ながら、ご来光は仰げなかったとのこと。それにしても元気だなあと感心したのですが、このあと次から次へと下山してくる人たちがいてびっくりしました。かなりヘビーなもの好きです。

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08:31、二つめの急傾斜の登り地点です。ここまで壮年グループに何とかついていけてました。 

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09:04、さらに30分経過したあたりの第三の急傾斜の登り地点。ここの登りはカーブしながら、傾斜を増していく登りがかなり続きます。大晦日に山小屋に泊まった人たちもかなりいたようで、登山客の5倍くらいの人たちがたくさん、猛スピードで下山してきました。普段見ることのない光景でした。壮年グループにはちょっと水をあけられました。

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09:39、さらに30分くらい登ると、最も傾斜がきつくバカ尾根と称される登りにさしかかりました。依然として壮年グループの姿は先の方に見えています。若い女性が、駆け上がるように登っていたのですが、急によろけて、一瞬倒れるかと思ったのですが、体勢を立て直して、駆け上がって行きました。いい根性しています。見上げた空は、ずっと霧なのか、薄い雲がかかっていました。

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10:14、山頂への最後のステップで、壮年グループに追いつきました。さすがの彼らも苦しそうに登っていました。霧が濃くなり、空気がとても冷たく感じ、冷えた汗で身体はさらに冷やされるという悪循環になっていました。霧が枯木の小枝にまとわりついて、よく見ると小さな樹氷が咲いていました。 

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10:16、最後のステップを登るにつれ、空も周りも樹氷も、寒々しい光景でした。とんでもない元旦登山となりました。

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10:19、山頂は霧に包まれ、-4の気温に身体はさらに冷え、期待した元旦登山とはまったく異なるものでしたが、3時間10分で登ることができ、大満足でした。前回(12/29)から中二日でしたので、体力がどのくらい回復しているか、膝への負担は大丈夫かなど不安を抱えてはいたのですが、順調に登ることができました。

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お互いに、カメラのシャッターを押し合った埼玉から来たカップル。晴れていれば後には白い富士山が移っているはずなのですが。大晦日の日に、埼玉からマイカーで来て、車は登山口の駐車場に預け、鍋割山ルートから丹沢山系の最高峰蛭ヶ岳の山小屋に宿泊し、この日は蛭ヶ岳から塔ノ岳に来たとのこと。晴れていれば、豪快な尾根歩きが楽しめた筈なのに、とても残念です。遠方(車で2時間半)から来ていますので、富士山の姿を見せてあげたかった。

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下山する前に仏様たちに手を合わせました。今年もよろしくお願いします。

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11:17、埼玉県からのお二人とは同じルートで下山でしたので、途中まで一緒に下りました。下山開始から50分くらいの堀山の家地点から富士山の中腹がチラリと見えました。山裾と山頂は雲が覆っていました。これでは何の山かわからず写真になりませんでした。   

今年初めての登山は、悪天候で初富士にはお目にかかれませんでしたが、富士山を見ることができるのは3回に1回くらいの確率ですからあまりガッカリはしなかったのですが、埼玉からのお二人には申し訳ないような気がしました。とはいえ、初登頂のおかげで美味しくお酒が飲めそうでした。

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2019年12月30日 (月)

丹沢登山記 12月 登り納め

12月も中旬になり、今年もいつまで登れるかなと思う時期になりました。12月の後半は、12/18、25、29の3回丹沢に出かけました。12月は6回、今年通算56回となりました。

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12/18(水)、前回(12/13のバースデイ登山)から中四日の山歩きに出かけました。登山口のバス亭でバスを降りると、眩しいくらいの朝陽が建物にあたっていて、清々しい登山日和の予感がしました。

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登り始めの杉並木は、吉野の山を歩いている気分になり、日が射しているさらに気分がよくなりました。冷たい空気の中、冷えていた体も少しずつ暖まってきました。

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登山道脇のちょっとした景色もすでに晩秋から初冬に向かうようでした。

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紅葉の廊下あたりは、木の葉が落ちてしまって、冬を迎える準備をしていました。季節の移り変わりの速さと確実さに、驚かされると同時に、これから迎える年末・年始に思いを馳せたりもしました。そして、いつもながら今年もあっという間だったなあと思うのでした。

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身体はかなり暖まり、着ていたジャケットを脱いだりしながら山頂までの行程の2/3あたりにくると富士山が現れました。富士山にはかなりダイナミックな雲がぶつかっていて山頂は隠れていました。

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八合目(勝手にそう思っているのですが)くらいの花立山荘の急登を登っていると、御婦人が苦しみながら確実な足取りで登っていました。この急登を登りきると汗びっしょりになります。

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汗びっしょりになって花立山荘の急登を登りきった後は、風通しが良くなり標高も高くなりますので気をつけないと身体を冷やしてしまいます。山頂までは緩やかな登りが何ヵ所かありますので、身体の熱さと大気や風の冷たさの調整には気を遣います。最後の登りにかかる頃には身体は再び汗ばんできます。見上げた空は青く澄んでいましたが、ちぎり雲にもならない薄い雲は飛んでるようなスピードで流れていました。 

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山頂は風も強く寒く感じました。かつては3時間くらいで登れたのですが、最近は3時間15分くらいかかります。まだ標準時間(3時間30分)ないですが、やがて標準時間になり、そして4時間くらいかかるようになると覚悟はしています。

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青空が広がり、雲も少ないのですが、富士山の山頂付近には雲がぶつかっています。まるで眠っていた富士山が息を吹き返し噴火したような景色になっていました。もし富士山が噴火したら膨大な火山灰が降り積もり、数日間は太陽の光は届かず、大地や田畑は数十センチの火山灰の覆われると予測されています。静かにしていてほしいものです。

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丹沢山塊から南アルプス方向にかけては山々の連なりがはっきりと見えていて気持ちいいのですが、白い絨毯のような雲が西から東に向かってもの凄い勢いで流れていました。あまり山頂にいると体も冷えますし、帰りのバスの時間(平日は12:53)に間に合うように下山しました。下山にかかる時間(標準時間は2時間30分)は大体2時間くらいです。 

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12/25(水)、前回の登山から一週間後にクリスマス登山に出かけました。登山口でバスを降りると、南の海の方角が火事が発生しているように赤く燃えていました。上空には暑い鉛色の雲が覆っているのですが、昇ってきたばかりの朝陽がその雲に押さえ込まれるようにして、地平線が赤く燃えていました。

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この日の天気予報はあまり良くなく、おまけに朝はとても寒かったのでした。それでも歩いて30分くらいの見晴らし小屋あたりまでくると汗ばんできました。雲の色は墨色だったり濃紺だったり、クリスマスなのにこの先どうなるんだろうと思ってしまうような不吉な色をしていました。

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山道は木の葉や小枝を落としてすっかり淋しくなった樹々がまばらに並んでいて、寒々しい光景でした。登るにつれて汗はかくのですが、とても冷たい大気と風に汗はたちまちヒンヤリと身体を冷やし、しかし防寒具を着るとすぐに汗はかくし、うまく体温調節できませんでした。おまけに高齢者特有の鼻水は出るし、まいりました。

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山頂までの中間地点にくると、表尾根には霧だか雲だかが重たく垂れ込めていて、尾根から下る山筋には積雪が見られました。表尾根には雪が降っているように思われました。 

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山頂まで2/3の行程あたりまで登ってゆくと、うっすらと雪が残っていました。年輩のおじさんがこの先登ろうかどうしようか迷っているようでした。きけば80歳になったばかりとか。やはりこの歳になっての登山はキツいよと言いながらまんざらではないような顔をしていました。ひとごとではありませんでした。この日は、一週間も間が空きましたので足慣らしと、今月末に予定している登り納めの準備体操のつもりでしたので、この階段を登り切ったところから引き返しました。ちょっと物足りないホワイトクリスマスでした。

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12/29(日)、登り納めに出かけました。始発のバスは臨時便は出ませんでしたが、超満員でした。終点の登山口で降りると、朝陽を浴びながら張り切って一斉に登山支度をする登山者の姿は誰もがやる気満々に見えました。

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この日は、どんな天気でも、どんなに体調が悪くても、どんなに時間がかかっても登頂したいと思いましたので、途中のカメラ撮影はやめました。一気に花立山荘まで登ると、遠くに小さく白く富士山が見えていて、誰もが富士山が見えることに喜んで歓声をあげていて、とても華やいだ雰囲気でした。ここから山頂までは30分で、あと一踏ん張りです。

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山頂に向かう途中、富士山に襲いかかるように雲が湧いてきて、山頂にまとわりつくように接近していました。登頂する頃には富士山の姿が消えてしまうおそれがあり、保険をかけるつもりでシャッターを押しました。時間は09:55、登り始めてから2時間45分が経過していました。

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さらに登ったところで、富士山とツーショットでもう一枚保険をかけました。

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頂上が近くなると道端の雪が目立つようになりました。聞くところによると、前日は、山頂にかけて10~20センチの積雪があったとか。しかし太陽の光と登山者の雪踏みで雪は溶けていました。ところどころアイスバーンになっていたりシャーベット状になっている場所もありましたが、たくさんの人が登ったようで、ほとんど問題はありませんでした。

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10:24、登頂しましたが、危惧したとおり富士山は雲に隠れていました。途中で富士山の写真を保険のつもりで撮ってから30分で、富士山はアッという間に雲に包まれてしまいました。

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山頂の気温は-2で、ちょっと寒く感じましたがバースデイ登山のときの-6に比べると陽が出ている分暖かく感じました。今年最後の丹沢登山は3時間15分で、最近は大体このペースのようです。クリスマス登山の予備トレーニングの効果があったようで、快適なペースで登ることができました。  

回数を競っているわけではないですが、今年通算56回の登山になりました。登頂した回数は数えていませんが、半分にも満たないかもしれません。近所に適当な散歩コースがないために、少しハードですが散歩の延長と思っていますので、このペースで気分次第、天気次第の気ままな山歩きができればいいと思っています。  

最近ちょっと淋しく思っているのは、親しく口をきいてくれていた10歳年上の地元の常連さんが、寒さが厳しいのでスタート時間を一時間遅らせて山頂まで2/3の地点から引き返すという時差登山を始めましたのでめったに顔を合わすことがなくなりました。しかし、いずれは私もそうしたいと思えますし、とても参考になっています。

来年も、無理をしないで山歩きを楽しみたいと思っています。

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2019年12月28日 (土)

丹沢登山記 12月 バースデイ登山

12/13(金)、天気予報は薄曇り、山の天気予報では霧というあまり状況は良くなかったのですが、前回(12/8)から中四日で出かけました。気がつけばバースデイで、後期高齢者の仲間入りの日でした。 

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天気予報はあまり良くなかったのですが、天気はあまり気にしない地元の常連さんが、バス亭でじっと始発バスを待っていました。このバス亭で待っている間の時間はとても寒いのです。後ろから見るとお地蔵さんのようでした。

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山道には落葉がみっしりと敷き詰められていました。季節は確実に冬に向かっていきます。枯葉は足に優しく、枯葉を踏む音も優しく耳に響きました。

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不揃いの小さな石が転がっている道は歩きにくいのですが、枯葉がその段差を埋めてくれますので歩きやすいのです。緑がすっかりなくなり、褐色一色になった景色は、季節の移ろいによって、同じ景色がこんなにも違うのかと驚かされます。 

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登山口から1時間くらい登ったところにある見晴らし茶屋からは、その名のとおり見晴らしがよく、相模湾を望むことができます。まだらになった雲が低く垂れ込め、その先には朝陽が薄いオレンジ色に輝いていました。雲の隙間からは細い 天使の梯子 がところどころに見られました。この雲が、これから登るにつれてどの様に変わるのか心配ではありました。

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紅葉の廊下は、紅葉も黄葉も葉を落とし裸の樹が剥き出しになっていました。春の青葉は紅葉や黄葉や褐葉(かつよう)になり、枯葉になって、最後は落ち葉になって登山道を少しずつ埋めていきます。この日は、登山者は少なく静かな登山でした。この辺りから霧雨が降り始めましたが、まだ雨具を身につけるほどではありませんでした。

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途中から霧雨が小雨になり、写真は諦めました。山頂に近づくにつれて小雨はまばらな粉雪になりました。雨が降ってきましたので、途中で引き返そうと思ったのですが、バースデイであることを思いだし、体調もペースも良かったので、思い切って山頂までトライしました。何とか標準タイム以内の3時間15分で登ることができました。 

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富士山方向は分厚い雲がかなり下まで降りてきていて、先日の日本晴れの下の富士山は影もかたちもありませんでした。たまにはこんな景色もおつなものです。

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気温は氷点下4。山頂には誰もいませんでした。

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ようやく登ってくる人がいて、シャッターを押してもらいました。それにしても寒かったです。手が冷たくて痺れていました。 

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下山する前に、仏様たちに手を合わせました。晴れの日も雨の日も風の日も、じっと立っている姿を記憶にとどめられるようにじっくりと眺めて下山しました。

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下山しながら眺めた相模湾。鉛色の雲は濃さを増しているのですが、地平線方向は明るく不思議な空模様でした。静かな湖面のような相模湾には光が乱反射していて、あまり見たことのない光景でした。 

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登ってきたときとは反対方向から眺めた紅葉の廊下は、樹々そのものが間引きされたかのようにまばらで、落ち葉は木道を埋めてしまいそうに積もっていました。僅かに残っている紅葉・黄葉は、次回登ってくる時には落ち葉になっていることでしょう。  

この日は、地上は最高気温が10℃を下回って肌寒かったとのこと。登り始めはそれほど寒くは感じなかったのですが、登るにつれて気温は下がりました。それでも登っていると汗をかきますので、上着を脱いだり着たり忙しい思いをしました。あまり天気は良くなかったのですが、バースデイ登山もいいかなと、途中から俄然やる気が出ました。天気が良くない分、達成感は大きかったのですが、身体が温まったり冷えたりで鼻水には悩まされ、やはり後期高齢者であることを自覚したのでした。  

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