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2008年3月26日 (水)

奥の細道36 須賀川~郡山

最終日3/21(木)は、須賀川から郡山を目指しました。

48 須賀川駅前の「なかよし」に見送られてAM8:00に出発しました。

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同じような風景の4号線を北上します。雨は止んでいますが、気温は6℃で、おまけに北風が向かい風でしたので非常に寒く感じました。

52 AM10:40に郡山駅前に到着です。 11km(16,500歩)のあっけないゴールでした。ここで、今回の旅程は終了しました。

11:10発の東北新幹線「やまびこ」に乗車し、12:25には東京に、13:30には自宅に戻りました。

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奥の細道35 白河~須賀川

今回の旅程の2日目(3/20)は、白河から須賀川を目指しました。昨日は様々な芭蕉ゆかりの地を広範囲に訪ねましたが、バスやタクシーなどを使いあまり歩きませんでしたので、今日のウオーキングが楽しみです。

39 3/20(水)AM8:00に、雨の新白河駅前を芭蕉に見送られて出発しました。

40 新白河の旧道あたりは川沿いが整備されていて、雨ですが歩いていて快適です。

41 途中「小原庄助」さんのお墓があるというので行ってみました。小原庄助という人は、「朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それでしんしょう潰した」と謳われた人で、まさか実在の人物とは思いませんでした。

43 本名は会津の塗師「久五郎」というそうです。酒好きとあってお墓がお銚子と杯でした。

戒名が「米汁呑了信士」、辞世の言葉が「朝によし昼になほよし晩によし、飯前飯後その間もよし」というもので、こんな言葉を吐いてこの世とおさばらできるなんて羨ましい限りです。

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さて気を取り直して4号線を北上します。阿武隈川を渡りました。改めて福島県内を歩いていることを実感しました。

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須賀川市内に入りました。雨のせいばかりではなく、しっとりと落ち着いた街並みです。

47 須賀川も芭蕉とは縁の深い町でした。市役所脇にある芭蕉記念館を訪れました。

ここで本日の行程は終了しました。ほぼ30km(46,000歩)の行程で、久しぶりに思いっきり歩くことができ、一日中雨でしたが快適でした。

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奥の細道34 鹿の湯

長い一日(3/19)も終わりましたので、那須湯本温泉の宿で疲れを癒すことにしました。

36 那須湯本温泉の発祥の湯「鹿の湯」は、昔、傷を負った鹿がこの湯で傷を癒したところからこの名がついたといわれています。

37 川沿いの共同湯で、芭蕉も旅の疲れを癒したといわれています。

38 「鹿の湯」から湯を引いている宿に泊まり、何回も入浴し、すっかり温泉気分を満喫しました。

始発で自宅を出発してから、黒羽町~雲厳寺~遊行柳~白河の関と巡った、長かった一日が終わりました。

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奥の細道33 那須温泉殺生石

ようやく東北本線黒磯駅に到着したのは夕方でした。ここからはバスで那須湯本温泉に向かいました。

29 バスの終点で下車し、温泉(湯禅)神社にお参りしました。

この神社は、那須与一が屋島の戦いで馬上から船上の扇の的を射た時に願掛けをしたといわれています。

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神社本殿の奥の道を更に進むと下北半島の「恐山」と同じような風景が広がっていました。

31 芭蕉も訪れた「殺生石」周辺には硫黄の匂いが鼻をつきました。この風景も300年前と変わっていないのでしょう。

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大分日も暮れてきて、かなり大気も冷えてきました。

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奥の細道32 白河の関

いよいよ白河の関です。関東と奥州の国境である白河の関は、多くの文人、歌人が歌に詠んだ憧れの場所です。白河の関は場所が定かではなく、古関と新関があります。

芭蕉と同じように遊行柳を経て奥州街道を北上し、先ず境の明神(新関)を訪れました。

27 栃木県と福島県の国境を挟んで2つの神社があります。2つの神社を併せて境の明神と呼ばれています。

栃木県側の神社は思いがけない道路沿いにありました。時々、車が猛スピードで走っていました。

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境内は狭く、本殿は非常に質素で小さなものでした。

28 境の明神の草むらで見つけた野仏は、全ての願いを叶えてくれるという如意輪観音でした。

21 古関と呼ばれる白河の関は、北方の守りを固めるために設けられた関で、大化の改新以後、7~8世紀には存在していたと考えられています。

勿来(なこそ)の関、念珠(ねず)ヶ関とともに、奥州三古関の一つに数えられています。

22 関跡の奥は白河神社でした。

23 白河神社への参道脇には義経が平家追討の祈願をしたといわれる「矢立の松」がありました。

芭蕉は、西行の足跡を追うようにして歩きましたが、それはまた義経の足跡を辿る旅でもありました。

1180年に戦勝祈願した義経も、8年後の1187年には兄頼朝に追われる身となり、再び奥州に逃れてきました。誰もいない神社で、昔を偲びますと人間の運命に哀れを誘います。

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奥の細道31 遊行柳

黒羽町でゆっくりしすぎてしまい、これから遊行柳~白河の関と周り、夕方迄には宿泊先の那須湯本温泉に到着するためにはとても歩くことはできず、やむを得ずタクシーをチャーターしました。

20  遊行柳は、西行法師が和歌を詠んだことで有名な場所です。西行に憧れて奥の細道の旅に出たともいわれている芭蕉にとっては是非とも訪ねたい場所であったことでしょう。

広い田圃が拡がる地に、遊行柳だけが佇んでいました。

19_2 芭蕉はここで「田一枚うえて立ち去る柳かな」という句を詠みました。

冷たい風が広い田圃の中の柳を撫でていました。西行や芭蕉が眺めた同じような風景や同じ柳を私も眺めることができ、風を感じることができました。たった一本の古木ですが、ここに佇むことができたことに満足しました。

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奥の細道30 芭蕉の館

腹ごしらえをした後、黒羽町の芭蕉のゆかりの場所を散策しました。

16_2 芭蕉の館の前には馬に乗った芭蕉像がありました。芭蕉は随分健脚と思っていましたが、馬に乗ることもあったことがわかりました。

17 館内には芭蕉や奥の細道に関する資料が豊富に展示されていました。いかにこの地が芭蕉と関わりが深かったかわかりました。

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2008年3月24日 (月)

奥の細道29 茶店

ちょうど昼時になりましたので、茶店で昼食をとることにしました。

13 黒羽町の中心部を那珂川が流れていて、この川で獲れる天然鮎の匂いに誘われてしまいました。

14 「手打ち蕎麦禅味一笑」と書かれた看板につられてこの茶屋に入りました。

一時は廃屋になったこのお店を2年前に再建したご主人は笑顔の素敵な方でした。

15 「手打ち蕎麦禅味一笑」という看板通りの美味しい蕎麦でした。天然味も絶品でした。このセットで950円はお買い得でした。

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奥の細道28 大雄寺

黒羽町は「芭蕉の里」といわれるほど芭蕉と縁が深い町で、多くの見所があります。藩主をはじめとして厚いもてなしを受けたようです。

05 大雄寺周辺一帯が芭蕉が長逗留し、また散策した場所として知られているところですが、このお寺も名前からイメージされるような勇壮なお寺でした。

07 大雄寺の参道を歩いてゆくと面白い像が迎えてくれました。

10 大雄寺の参道は芭蕉の道にも通じていました。

11 俳句の一句もひねりたくなるような道でしたが、どうにもその方面の才能がないことがわかりました。

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奥の細道27 雲厳寺へ

奥の細道の旅も6回目です。今回は2泊3日の行程で郡山を目指しました。

前回の日光から大田原市黒羽町までの距離はおよそ40kmあります。無理をすれば歩けない距離ではありませんが、途中どのような道か情報が全くなく、また宿泊施設もないためにこの部分はパスしました。

ということで、3/19(水)に始発電車に乗り、東京駅から東北新幹線に乗り、東北本線に乗り換え西那須野駅で下車し、黒羽町行きの東野バスに飛び乗り、先ず那須神社を目指しました。

02 那須神社は那須与一ゆかりの神社です。早朝のせいばかりではなく、バスの便が1日に4本しかない場所にあるために誰もいませんが、とても立派な神社です。

04 黒羽町は芭蕉が13日間も滞在し「芭蕉の里」といわれるところで見所もたくさんあるのですが、今回どうしても行きたかった雲厳寺へは更に大田原市営バスに乗り換えて行きますが、このバスも1日に4本しかありませんので、先に雲厳寺に向かいました。

このお寺は、芭蕉の座禅の師匠といわれる仏頂和尚が庵をむすんでいたところでので芭蕉も遠く山奥に脚を伸ばしたようです。

西那須野駅から少ないバスを乗り継いで1時間もかかる山奥ですが、このお寺も立派で、名前から思い浮かぶイメージぴったりのお寺でした。

芭蕉は「啄木(きつつき)も庵(仏頂和尚の住居)はやぶらず夏木立」という句を詠みました。

09_2 再び少ないバスの便を利用して黒羽町に戻りました。芭蕉は黒羽藩の殿様の館に2週間近くも長逗留しました。

西那須野駅から雲厳寺まで往復しますと40kmくらいですが、やはり宿泊施設がないためにバスを利用しました。

芭蕉は当時有名人でしたから泊めてくれる場所には事欠かなかったようです。

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2008年3月 9日 (日)

義経~満福寺へ 05 襖絵

お寺の内部には、義経、静御前、弁慶の襖絵がありました。これらの襖絵は近世になって描かれたものですが、ほぼ1千年前に歴史を彩った人達の息遣いが感じられます。

例えば、坂本龍馬が創立した日本で最初の商社である亀山社中でも同じような息遣いを感じました。

自宅を朝7時にスタートし、6時間、38,000歩の歴史探訪の1日でした。

Photo_13 義経

Photo_14 静御前の御前の舞

Photo_15 弁慶の最期

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義経~満福寺へ 04 弁慶

満福寺の狭い境内には、義経の碑や弁慶が筆を取るのに水を汲んだとされる硯の池、弁慶の腰掛け石などの遺跡がありました。

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Photo_11 弁慶がこの石に腰をかけていたのを誰が見ていたのかと思ってしまいましたが、それはともかくとして、義経や弁慶がこの地で、生きるか死ぬかの瀬戸際の時間を過ごしたことは間違いのないことで、どのような気持ちでいたのか思い耽ってしまいました。

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義経~満福寺へ 03 腰越状

「腰越状」は、京都で暴れていた木曽義仲を討伐し、壇ノ浦で平家を討伐した義経が、朝廷から褒賞を受け意気揚々と引き上げてきたのですが、嫉妬深い頼朝の怒りを買い、許しを請うた嘆願書です。

宮尾登美子が書いた「義経」によれば、義経は武将としては傑出していたが、人の心理を読む事は苦手なお人好しであった。人を疑うことを知らず、ましてや人一倍嫉妬深い兄頼朝に対して、兄弟だからという甘えの気持ちが自らを滅ぼしてしまったとのことです。

もう少し政治家であれば、朝廷から報償を受ける時、先ず兄頼朝に相談するのでしょうが・・・。そのような純な義経故に人々に愛されるのかもしれないと思いました。

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義経~満福寺へ 02 満福寺

源氏山のハイキングコースを佐助神社、大仏、長谷観音、極楽寺を経由して腰越の満福寺に到着しました。

このお寺は、義経が腰越状といわれる兄頼朝への詫び状を書き、ひたすら許しを待ち続け、結局許されず逃避行の出発点となったお寺です。

Photo_5 非常に小さなお寺です。

Photo_6 簡単な説明の立て札がありました。

Photo_7 京都から意気揚々と凱旋したにもかかわらず足止めをくったお寺にしては侘びしいお寺です。

義経はここで何を考えていたのでしょう。

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義経~満福寺へ 01 花

先月奥の細道を辿って日光まで歩いたのですが、その後仕事に追われてほとんど歩くことができませんでした。3月中は遠出ができませんので、北鎌倉から江ノ島近くの満福寺まで歩いてみました。

自宅を朝7時に出発し、11時近くに源氏山に到着しました。葛が原神社では白梅や紅梅などを見ました。

Photo 白梅

Photo_2 紅梅

Photo_3 河津桜で一足早いお花見でした。

Photo_4 「みつまた」も咲き誇っていました。

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