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2011年4月21日 (木)

ヒマラヤ 高山病対策

今回のヒマラヤトレッキングで一番の心配は高山病です。ホテル・エベレスト・ビューは富士山(3,776m)より高い標高3,880mにあり、トレッキングで目指す山は4,200mで、私にとっては未知の領域です。今回のトレッキングは、シェルパの里ナムチェ(3,440m)からホテル・エベレスト・ビュー(3,880m)の標高差440mと、ホテル(3,880m)からクンデピーク(4,200m)の標高差320mです。ちょうど富士山の8合目から頂上までの標高差と同じくらいです。富士山に何回登っても8合目から頂上まではいつも辛く苦しい思いをしていますので、不安感解消のために事前の高山病対策をとりました。

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プロスキーヤーの三浦雄一郎さんが三浦ドルフィンズという高山病対策のトレーニングセンターを開設していますので、とりあえず4/6に行ってきました。数多くの登山者をみてきたヒマラヤ観光開発(株)の宮原社長によると“3,600mに高山病の一つのラインがある。経験的にそう思う。あとは4,200mに。3,600mでは死なないが、4,200mでは死亡事故が起きる。”と言っています。また富士山に何回登っても、高地で宿泊するのはまた別物とも言っています。

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いくつかあるメニューの中から、「4,000m海外高所テスト」(140分)を選びました。先ず健康診断をした後、脈拍や血中酸素の量を測定する器具を装着して4,000mと同じ環境の部屋に入り、トレーニング用の自転車を普通の速度でこぎました。この段階では特に以上はありませんでしたが、高地で急傾斜を上るのと同じ状況に自転車に負荷がかかるとあっという間に唇が真っ青になり、頭もクラクラしました。その場合の対処法として呼吸の仕方の指導があり、なるほど指示通りの呼吸を行うと器具の数値は正常になりました。次に30分間睡眠をとりました。私は少し寝てしまいましたが、カミさんは寝れませんでした。睡眠時は呼吸が小さくなり、体内に取りこまれる酸素の量が少なくなるため高地では寝ない方がいいそうです。富士登山でも頂上の茶屋でホッとして眠る人がいると茶屋の人に眠らないようにと注意をされます。三浦雄一郎さんはエベレスト登頂の時は多少うつらうつらしても3日間眠らなかったそうです。以上のようなテストとアドバイスを受け、大変参考になりました。

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出発の前々日(4/20)に、再度三浦ドルフィンズに行き、「低酸素トレーニング」を受けました。室内の高度は4,500mに設定してもらいました。血中酸素・脈拍測定器をセットして室内に入り、先ず10分間イスに座ってリラックス状態で普通の呼吸をした場合どうなるかをみました。普通の呼吸をしていると頭がボーッとしたり、唇が紫色になったり高山病の初期症状が出ました。そのような状態への対応は深呼吸をすることです。更に20分間自分でスピード調整しながら、ウオーキングベルトを歩きました。測定器と睨めっこしながら呼吸法を勉強しました。もう一度10分間安静状態の後、最後に30分間、階段を上り下りしました。呼吸法によって高山病症状が出たり身体が楽になったりし、登山中、休憩中、睡眠時にどのよう対応したらいいかを身体で覚えました。

低酸素トレーニングで、かなり不安感は解消されました。ここ三浦ドルフィンズには、高尾山に行って、富士山に登って次はキリマンジャロ(5,895m)だという60代、70代の強者がかなりくるとのことです。もっともキリマンジャロの登頂率は1割くらいだそうです。それもひどい高山病状態で。今回のヒマラヤ行きでは、ヒマラヤ観光開発(株)のツアー(ゴーキョ20日間)の人達11人と成田からカトマンズまで一緒という連絡が入りました。このグループはテントで寝袋に眠りながら標高5,360m迄登るそうです。この人達も凄い。私には怖くてマネができません。

エベレストを見ることができ、4,200m迄のトレッキングができれば大満足です。5/1早朝成田帰着予定です。自粛を自粛というかけ声に背中を押され、旅行費用の一部の義援金寄付を免罪符として、行ってまいります。

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2011年4月17日 (日)

ヒマラヤ ルート

エベレストを見るには、カトマンズあたりから遊覧飛行で見るか、エベレスト街道を歩くという方法がありますが、遊覧飛行だけでは面白くないし、エベレスト街道トレッキングは大変そうです。

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今回の最大の目的は、ホテル・エベレスト・ビューに宿泊してエベレストを見ることと、ホテルをベースにしたトレッキングです。ルートは成田からタイ(バンコック)、ネパール(カトマンズ)を経由し、エベレスト街道拠点のルクラで軽飛行機に乗り換えます。ルクラからエベレスト街道を歩くと何日もかかる道を、今回は一挙に飛行機で飛んで、その日は高山病対策のために飛行場から一度山を下り(標高3,440m)、翌日ホテル(標高3,880m)まで登ります。

ホテルで宿泊した翌日はトレッキング(標高4,200m)に出かけます。ちょうど富士山の本8合目から頂上までの標高差くらいの距離です。帰路はヒマラヤの山岳リゾート地ポカラに寄り、カトマンズ、バンコック経由で戻るという10日間コースです。旅程の作成、チケットやホテルの予約は宮原さんの会社(ヒマラヤ開発・マウントツアーズ社)にお願いしました。

日が近づくにつれ、何回も飛行機に乗り換え、最後は軽飛行機で富士山の8合目くらいの高地にある山間の飛行場まで無事に辿り着けるか、現地のガイドさんやポーターさん達と合流できるか、高山病にはかからないか、寒さに耐えられるかなど不安感も増してきています。おまけに自分一人だけでしたら多少のリスクは覚悟しているのですが、カミさんもついてくるというので、夫婦で事故や災難にあったらまずいなあとも思っていますが、まあいいか。

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ヒマラヤのトレッキングの本によると、高地を歩くという大変さはありますが、たくさんのポーターさんが荷物は持ってくれ、テントも設営してくれて食事もつくってくれるそうで、その点では楽そうです。ヒマラヤトレッキングは魅力的ですが、しかしテントや寝袋で何日間も過ごすというのは山に慣れていないとそれなりに厳しそうです。特に今回同行するカミさんは絶対嫌だと言っていますし、私も大変そうだと思っていますのでエベレスト街道トレッキングはあきらめました。

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ヒマラヤ事情をみると、カトマンズは人口が急増加して排気ガスが充満し、ポカラも環境汚染が進み、ヒマラヤは氷河湖汚染、山村崩壊、森林伐採などが深刻化しているそうです。年間10万人くらいの人がトレッキングに訪れていて、エベレスト街道沿道ではロッジの建設ラッシュ、トレッキングでの炊事には森林が伐採されているとのこと。著者はトレッキングに疑問を呈していますが、そういう著者自身トレッキングにはよく出かけているようです??? 私もヒマラヤの環境破壊に加担する後ろめたさを感じつつ、やはり一度でいいからヒマラヤに行きたい、エベレストを見てみたいという誘惑には勝てません。

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2011年4月14日 (木)

ヒマラヤ ドンキホーテ

一度はヒマラヤにいってみたい、エベレストを見てみたいと思っていました。3月の初めにようやく決心がつき、旅行代理店にツアー予約を入れた矢先、3/11に東日本大震災が発生し、1ヶ月が経過してもなお余震は頻発し、福島第一原発の事故は収束せず、被災地の復興の道先は見えない状況です。旅行代理店からは、震災により参加者が集まらずツアーが不成立になったという連絡が入りました。非常に迷ったのですが、個人旅行というかたちでエベレストを見に出かけることにしました。

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ある一冊の本との出会いによりヒマラヤにいく決心がつきました。「ヒマラヤのドン・キホーテ」という本で、著者の宮原さん(77才)という方は、30代でヒマラヤの山奥の標高3,880mにホテル・エベレスト・ビューを建て、ネパール国籍を得てネパール人になってしまった方です。こんな人がいたということとエベレストを間近に見ることができるホテルがあったことに感激しました。また宮原さんはホテル建設や運営、党首として臨んだ選挙などで大変な苦労をされ、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」という戦国の武将山中鹿之助の言葉を唱えたとか。新年早々(1/2021)京都で、山中鹿之助の碑があることに驚き、お参りしたばかりでしたので、何となく縁を感じました。宮原さんが建てたホテルに泊まり、エベレストを眺めることができたらもう思い残すことはありません。

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宮原さんは、1934年生まれ、日大理工学部出身で山岳部に所属していました。南極地域観測隊やヒマラヤ登山隊などにも参加し、30代でホテル・エベレスト・ビューの建設に取り組みました。この頃は毎日エベレストを目の前にしていたのですが、ホテル建設と運営に忙しく、一度もエベレスト登山にチャレンジしたことはなかったそうです。還暦を迎えたときに、初めて登頂を試みたのですが、頂上まで標高差50~60m、距離にして300mの地点で断念したそうです。残念ながら高山病で片目が見えなくなり、下山したそうです。もし30代、40代の頃ならおそらく何回も登頂できたでしょうし、ましてやネパールに憧れ国籍まで取得し、年中エベレストを目にしていたわけですから、さぞかし悔しかったことと思われます。宮原さんがそこまで憧れた、世界の登山家が憧れるエベレストを見てみたい。(天候次第ですが・・・)

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エベレストで登山家やシェルパなど150人くらいの人が亡くなり、山頂付近では麓に降ろされることなく多くの遺体が残されているそうです。1999年イギリス登山隊のマロリー(1924年登山)の遺体が見つかり、75年間風雪にさらされ白蝋化して大理石のようになって眠っていたそうです。マロリーは登頂前に倒れたのか、頂上に登ったのかいまだに謎のままだそうです。エベレスト初登頂はエドモンド・ヒラリー卿が1953年に成し遂げたといわれていますが、もしマロリーが頂上に登っていたとしたらマロリーが初登頂(1924年)ということになります。なぜ登山家は死を賭してまでエベレストを目指すのでしょうか。

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2011年4月 7日 (木)

屋久島で考えたこと

大震災の自粛モードの中、平常的な行動も経済にとっては大切だという大義名分を言い訳に屋久島に出かけました。予想通り関東以北からの観光客や縄文杉登山客は少なく、おかげで屋久島の自然を独り占め感覚で満喫することができました。それ以上に、ガイドさんや宿泊したホテルの従業員の方々の心のこもったサービスを受け、待っていてくれたことに感謝するとともに、やはり行ってよかったと思いました。

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縄文杉登山や白谷雲水峡ハイキングで太古の自然の雰囲気を味わうとともに、悠久の自然についても考えさせられました。樹齢数千年の樹木の森では、数千年いや数万年前から命の喪失と誕生の循環が綿々と続いています。

屋久島は遙か昔は日本列島と陸続きであり、日本列島もまたアジア大陸と陸続きであり、数億年の歳月をかけて今日の地形となりました。世界一の高峰エベレストでさえ海底が隆起し、氷河に削り取られたものといわれます。

大陸や地底は、私達人類には目に見えなくても生きていて、蠢いていて、エネルギーをため込んでいて、ある日突然暴発したりひずみを生じたりして大災害を引き起こすものだということを、今回の大災害でこっぴどく思い知らされています。

よく“災害は忘れた頃にやってくる”と言われますが、もしかしてそれは我々人間からみたらそうであっても、自然の側からみたら、起こるべき時期が来たから起きたということかもしれません。今回の大災害に対して、防災対策や原子力関係の専門家からは“想定外”という言葉がよく聞かれますが、遺伝学者の中村桂子氏は“自然には想定外はない”と言っていますし、解剖学者の養老孟司氏も“1,000年に一度でも必ず来る”と言っています。

それでは災害には想定外はなく、いつか必ず来るものとすれば、1,000年に一度のその日に、日本人としてそこに居合わせ、災害の地に居合わせ、命を奪われたということは一体何なのでしょうか。浅学非才の身としては“運命”という言葉しか思いつきません。被災された方、また日本人の誰もがそんな言葉で説明されたくないとは思いますが、自然は自然のサイクルで動いていてその動きを予知できず、防御できないとしたらやはり“運命”としか言いようがありません。

私達が日本人として生まれ、今の時代に居合わせていることもまた運命といえるかもしれませんが、宮崎駿監督は次のように言っています。“今も埋葬できないままがれきに埋もれた多くの人を抱える国で、原子力発電所の事故で国土の一部を失いつつある事態の中で、アニメーションを作っている自覚を持っている。・・・私たちの島は繰り返し地震と火山と台風と津波に襲われてきた。それでももう一度、より美しくする努力をする甲斐のある島。絶望する必要はない。”

縄文杉への道を辿りながら、もののけ姫の森(白谷雲水峡)」を歩きながら、屋久島を巡りながら宮崎駿監督の言葉を噛みしめました。

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2011年4月 5日 (火)

屋久島 See You Again

4/1(金)、自然を満喫させてもらった屋久島ともお別れです。

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早朝(5:30)にレンタカーでホテルを出発しました。6:00に安房港に到着しました。レンタカーは、管理する人がいないので、港の駐車場にキーを付けたまま放置しておいてくださいといわれました。さすが南の島です。待合室には既に何人かの乗客が待っていました。

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港にはすっかりお馴染みになったトピーが待機していました。種子島経由で鹿児島港まで、船体を浮上させて時速80kmで海面を疾走します。走行中はシートベルト着用とドアを絶対に開けないことなど度々の注意がありました。

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鉄砲伝来の島、今では宇宙ロケット打上基地(宇宙センター)がある種子島に接近しました。

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7:50、種子島西表港に接岸しました。人口は奄美大島に次いで2番目に多く、島の面積は奄美大島、屋久島に次いで3番目に多い島です。

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鹿児島港に向けて種子島西表港を出港しました。港の岸壁には高校生達が手を振っていました。高校の先生(校長先生のようでした)が島を離れるのを見送りにきたようです。高校生達は一生懸命手を振っていました。まるで私達も見送られているようでした。See You Again “南の島”

鹿児島港から鹿児島空港へ、更に羽田空港へ、そして夕方自宅に戻りました。

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屋久島 いわさきホテル

今回お世話になったいわさきホテルは、同系ホテルが指宿にもあり、南国らしく広くて開放的で、食事も美味しかったので、屋久島でも3連泊しました。

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屋久島いわさきホテルは、宮之浦港(ここに上陸)からは1時間弱、もう一つの安房港(ここから離島)から20分のところにあり、モッチョム岳や耳岳など3つの岳(三岳)と対峙するような場所にありました。

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指宿のホテルに比べるとこじんまりとしていて、自然の景観とのバランスが配慮されているようでした。

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ロビーが広く、広大な自然をそのまま眺められるこの空間が気に入りました。

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山側とは反対の側には海も眺めることができました。

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ロビーには縄文杉のオブジェがあり、どっしりとしたその姿はまるでお城を支える御柱のようでした。

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部屋からの眺めも、朝から日が暮れるまで峰々の色合いが刻々と変化して飽きませんでした。

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3回の夕食、1回(他は登山などの弁当に振替)の朝食をいただきました。全て異なるメニューで、山海の美味を楽しませていただきました。魚を獲る漁師さん、農作物を育てる農家さん、地産の食材の旨さを引き出す調理師さん、いろいろな方のおかげで美味しくいただけることに思いを馳せました。

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このホテルにチェックインして、館内とルームへの案内を担当していただき、4日間お世話になりました。早朝出発の弁当の手配やレンタカーの手配など、他の従業員さんには我が儘をきいていただき、ありがとうございました。屋久島に来れてよかった、キャンセルしなくてよかったです。

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屋久島 もののけ姫の森

島一周ドライブの途中、上陸した宮之浦港から先、海岸線の道を離れてもののけ姫の森ともいわれる白谷雲水峡に向かいました。11:30に管理舎に到着し、コースの説明を受けました。1時間コースから4時間コースまであるうち、最ももののけ姫の森らしい「苔むす森」往復2時間コースを選びました。

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スタートして暫くは遊歩道だったのですが、間もなく登山道となりました。かなり気楽に考えていたのですが、手つかずの自然が残されていて、登山道といわれるだけあってなかなか手強い上りが続きました。(11:37

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縄文杉登山で出会ったアメリカ・テキサス州出身の英語の先生と再会しました。はしゃいで合同写真を撮ったのはいいのですが、コンパスの長さの違いを露呈する結果となりました。(12:04

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ここにも大きな杉が待ちかまえていてくれました。(12:12

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もののけ姫の森・苔むす森に薄日がさしていて、鬱蒼としたイメージは影が薄れ、明るいイメージでした。数日間雨が降っていないために苔が含んでいる水の量が少なく、深い緑がやや淡く見えました。雨に濡れた森を期待したのですが、雨の中この山道を歩くのはかなり大変だと思われました。(12:24

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何人かの登山者は更に森の奥深くに登っていきました。この先、太鼓岩というスポットがあり、更にその先には縄文杉登山道のトロッコ軌道にも通じています。もう少し歩きたかったのですが、昨日の登山の疲れも溜まっているようでしたし、早めに戻って温泉にも入りたく思い、ここで昼食をとり引き返しました。

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2011年4月 4日 (月)

屋久島 一周ドライブ

縄文杉登山から一夜明けた3日目(3/31(木))は、レンタカーを借りて島を一周しました。前日の登山によって筋肉に多少張りを感じましたが、筋肉痛はなく、ガイドの大橋さんのペース配分とストレッチ指導、温泉効果などによるものだと思います。

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大橋さんのアドバイスによって、島を時計回りに廻ることにし、先ず平内海中温泉に立ち寄りました。入口にいくつかの注意書きがあり、水着は着用しないでタオルを使ってくださいとのことでした。(8:40

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干潮時の2~3時間前後しか入れないそうです。ちょうど干潮のようで入浴可能状態でした。手を浸すと温く、さぞかし気持ちがいいだろうと思われましたが、ホテルの温泉に入ってきたばかりでしたのでパスしました。屋久島には島中に多くの温泉があり、温泉の島でもあります。(8:40

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次に大川の滝に向かいました。滝は大量の水が天空から降ってくるようで、どこにそんなにたくさんの水があるのだろうかと思いました。他に千尋の滝、ホテルの敷地内にも滝がありました。滝のビューポイントからちょっと外れた小道に石仏がありました。お顔は聖徳太子の幼少時の顔に似ていました。何を祈ってくれているのでしょうか。こういう仏像を気の向くままに彫れたらいいのですが。(9:22

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道路は島の端を縁取るように続いていて、進行方向右手には樹林帯があり、左手には海原が広がっていました。走っていて気持ちのいい道でした。(9:30

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道の真ん中に屋久猿が寛いでいました。鹿と同様に小ぶりです。道は島の窪みに沿ってカーブが連続していますので、対向車がきたら轢かれてしまうのではないかと心配になりました。(9:36

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道端でも鹿と猿が日向ぼっこしていました。この日の気温は20℃を超えていました。(9:36

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道はカーブの連続で、更に場所によっては対向車が来たらどちらかがバックしなければならない程細くなり、その上鹿や猿がのんびりと道を横切りますので油断ができませんでした。(9:55

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間近に見る屋久島の海です。島を縦横に走る渓流が海に注ぎ込んでいるためでしょうか、やはり森のエキス色をしていました。(10:17

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永田浜は、北太平洋最大・日本一のウミガメの産卵地で、ラムサール条約登録湿地となっています。ここに上陸するアカウミガメ、アオウミガメは環境省のレッドデータブック(絶滅危惧種)やワシントン条約に指定されていて絶滅の危機に瀕しているそうです。(10:24

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美しい砂浜が800m続いていました。ウミガメたちは5月下旬~7月に産卵のために上陸し、8~9月には新たな命が誕生するそうです。(10:26

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海は遠くから見ると穏やかで静かでしたが、波打ち際まで出てみますと、思いの外波は高くまた白い飛沫となって砕ける音が大きく、怖くなる程でした。誕生した小さな命はこの波に向かって旅立っていく姿を思い描くと、生き延びることの過酷さと生命力の強さを感じてしまいました。この穏やかな海が牙をむいたらいとも簡単に私の身体は持っていかれてしまうわけで、とてつもない恐怖を感じ、それとともに今回の大震災で亡くなられた方達が瞬間どのようなことが頭をよぎったかを考えてしまいました。恐怖も痛みも意識しないうちに、頭が真っ白になった状態で天に昇り、土に還ったであろうことを祈りました。(10:27

しばらく感傷に浸り、気を取り直して、白谷雲水峡で小登山を行い、ホテルに戻りました。

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2011年4月 3日 (日)

屋久島 縄文杉登山~下山

念願だった縄文杉に会うことができホッとしました。この日は入山者が少ないためか、太古の森の雰囲気を味わうこともできました。昼食をとった後、登山口へと折り返しました。

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低地での気温は20℃以上と暖かでしたが、大株歩道あたりから標高は1,000mを超え、縄文杉あたりは1,300mですのでかなり涼しく感じました。この日は天気快晴で、雲一つない宮之浦岳の白い残雪の模様もはっきりと見えました。これだけはっきりと見えることは年に数回しかないとのことでした。宮之浦岳は日本100名山の100番目の山で、九州一を誇り、屋久島は山の島でもあります。(12:46

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太古の大自然や風景を見ながら、下りの山道を膝を痛めないように大橋さんの指導を受けながら慎重に下山しました。ようやく大株歩道の入口に到着し、トロッコ軌道と合流しました。トイレ休憩、水分補給で小休止し、ホッとしました。この日は入山者は少ないからいいのですが、この地点は必ずトイレ休憩が必要(縄文杉まで往復4時間くらいの我慢)ですので、最盛期にはトイレの順番待ちで1時間以上かかったり、登山道も登りと下山が一緒ですので自ずと行列行進となりますので、マイペースで歩くことができなくなります。(13:49

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大株歩道入口周辺では昼食をとっている人もいました。この日は快晴ですが、屋久杉恒例の雨が降りますと、食事も休憩も雨の中で、足下も滑りますし、何よりも防水着を着ての登山・下山は身体が蒸れてしまい、かなり辛いものとなったかもしれません。好天に感謝です。(13:51

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縄文杉登山の7割以上を占めるトロッコ軌道は、まだ現役で使われているものだそうです。上りはジーゼルエンジンで、下りは惰性で走るそうです。途中岩をくり抜き、方向転換する場所がありました。(14:09

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ポイント切り替え器もありました。大橋さんの話では、なだらかに下るトロッコ軌道を気持ちよく歩いていると眠気を催す人もいるとのことでした。要注意です。(14:09

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下山道と並行して走る安房川は混じりっけのない屋久島の雨が、樹林によって浄化され集まったもので、透明でありながら森のエキス色していました。屋久島の渓流は澄みすぎて魚がほとんど生息していないそうです。大橋さんが下山道を外れて河原に連れて行ってくれました。(14:58

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大橋さんが、ほてってむくんでいる足を冷やしたらと足浴を勧めてくれました。あまりに冷たく3秒も浸けていることができませんでしたが、おかげでこの後も足取りも軽く歩くことができました。(15:01

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荒川登山口から50分くらいの所に、小杉谷小・中学校跡地があります。かつて屋久杉を切り出していた頃、100世帯程の集落があったそうですが、昭和45年に廃校になったそうです。(15:26

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今から40年前まで、ここに校舎があり、小学生・中学生が走り回っていました。小・中学校を擁する集落ができるほどの人が住み、たくさんの屋久杉が切り出され、私達が使っていたということです。(15:26

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荒川登山道を5:45に出発し、16:12に戻りました。往復10時間半の登山・ハイキングでした。ガイドの大橋さんにはすっかりお世話になりました。途中必ず休憩をとり、休憩の前後にはストレッチをすることの大切さを実感させていただきました。そのおかげで数日前から少し痛みを感じていた膝痛もひどくならずにすみました。また屋久杉の丁寧な説明や見所スポットの寄り道を案内していただき、安心してゆっくりと屋久島を味わうことができた上に、16:30発のシャトルバスに乗ることもできました。カミさんが辿り着けるかどうかが一番心配でしたが、上り下りの足の運び方、体重移動の仕方、こと細かに目配りしていただいたおかげで、念願を果たすことができました。ガイドさんにお願いしてよかった、大感謝です。(16:12

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2011年4月 2日 (土)

屋久島 縄文杉登山~大株歩道

トロッコ軌道の終着大株歩道でトイレ休憩でした。ここから先はトイレがなく、往復4時間~4時間半くらいは我慢しなければなりませんでしたが、トイレどころではなく急な登りの連続でかなり大汗をかきました。

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大株歩道入口に入ってすぐ急な登山道となりました。(9:05

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登山道では大きな杉が私達を見下ろしていました。(9:08

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太い切株には、苔と共棲するようにオオゴカヨウオウレンという白い可憐な花が咲いていて目を楽しませてくれました。(9:25

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日本に訪れたアメリカの学者ウィルソン博士が1914年に紹介されたことによりウィルソン株と名付けられました。1586年(天正14年)、豊臣秀吉の命令により大坂城築城(京都の方広寺建立とも)のために切られたといわれています。内部には祠があります。(9:33

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内部に入ってみますと10畳くらいの広さがあり、上を見上げると天空がハート型に見えました。大橋さん撮影。(9:34

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1966年(昭和41年)に縄文杉が発見されるまでは最大の屋久杉で、屋久杉のシンボルであった「大王杉」です。樹高24.7m、周囲11.1m、樹齢3,000年だそうです。(10:38

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トロッコ軌道でも大株歩道でも度々見かけた屋久鹿です。日本鹿の一種で、日本鹿より小ぶりです。人が近づいても逃げませんでした。(11:09

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スタートして5時間半、カミさんがどうしても見たいといっていた縄文杉にご対面です。圧倒的な存在感です。1966年(昭和41年)屋久島町役場の職員によって紹介され、現在確認されている屋久杉の中では最大で、縄文時代からの生きた化石であるということからこの名がついたといわれています。樹高25.3m、周囲16.4mで、樹齢は2,000年代~7,200年といわれています。年間1万人以上の人が訪れているそうです。(11:15

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屋久島 縄文杉登山~トロッコ軌道

屋久島に到着して2日目(3/30(水))は、今回の旅行の最大の目的の縄文杉登山です。ガイドをお願いした「屋久島ネイチャー企画フィールド」のガイドさんが4:30にホテルに迎えにきてくれました。

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ガイドさんの車でシャトルバス乗り場に向かい、5:00発のシャトルバスに乗り換え、荒川登山口に向かいました。車内は登山者の眠気と緊張感とでシーンとしていました。大橋さんの話しではこの日の入山者は例年の半分以下だそうで、特に関東以北のお客さんは皆無とのことでした。

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5:30に荒川登山口に到着し、ガイドの大橋さんの指導でストレッチを行い、トイレを済ませて、5:45、往復距離19.5km、標高差710m、ゆっくりで1012時間、ハイペースで9時間の登山に出発しました。最終シャトルバスの18:00迄に戻らないと下山できないということでしたのでちょっとプレッシャーを感じました。(5:45

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片道10km弱の道程のうちトロッコ軌道が8kmくらい続きます。ガイドの大橋さんの後をヘッドランプを頼りに歩いているうちに、夜が明けてきました。(5:58

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夜が完全に明けた頃、欄干のない橋を渡りました。(6:12

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橋の下にはきれいな渓流が流れていましたが、景色を楽しんでいるゆとりはなく、眠気が残っていた身体がシャキッとしました。(6:12

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“ひと月に35日雨が降る」といわれる屋久島ですから雨を覚悟にしっかりと雨対策をしたのですが、朝靄をついて陽がさしこんできました。(7:32

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ところどころ大きな空洞が開いた切り株が見られました。長い年月をかけて空洞化が進んだ切り株に苔が生え、苔に杉の種子がついて、種子はやがて芽吹いて二世杉の誕生となります。中には三世杉も見られました。気の遠くなるような歳月をかけて生命の消滅と誕生のサイクルが営まれています。(7:33

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山口県周防大島の中学校で英語の先生をしているカップルと後になり先になりを繰り返すうちに仲がよくなりました。ガイドの大橋さんの話ですと、屋久島は外人の姿は少ないそうです。日本に来て、また日本に来るくらい時間とお金がかかるためで、よほどリッチか自然が好きな人でないと来ないそうです。屋久島の自然と静けさを守ためにはその方がいいかもしれません。中国人や韓国人などの東洋人は少ないそうです(7:56)。しばらく歩いて9:00頃、トロッコ軌道終点の大株歩道入口に着きました。

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屋久島 屋久島へ

東日本大震災の前に予約をしてから、震災後さんざん迷いましたが屋久島に行ってきました。自宅でじっとしていても支援できるわけではなく、かえって自宅を留守にした方が関東地方の節電に協力できますし、自粛による経済停滞の方が心配ですし、屋久島に英気と元気を貰いたいとでかけました。

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3/29(火)、羽田発8:05のJALで鹿児島空港に、空港からバスで鹿児島港に到着しました。噴煙を上げる桜島を背景に屋久島、種子島、奄美大島などを結ぶトピー(地元のトビウオの愛称)という時速80kmというスピードの高速艇が行き交っていました。私達も13:10発のトピーで屋久島に向かいました。

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屋久島の島影が見えてきました。島を包み込むように雲がかかり、雲の切れ目から陽が射していました。島の反対側は雨だったそうです。

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14:55、宮之浦港に入港しました。港を見下ろすような高い峰が間近に聳え、さらに背後に山々が連なっていました。ここから路線バスに1時間揺られてホテルに16:00に到着しました。自宅を出発して10時間かかりました。

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