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2015年7月31日 (金)

奥の細道復刻版09 山刀伐峠~尾花沢

2008年に歩いた奥の細道を、更新しつつご紹介しています。9回目は難所といわれた山刀伐峠を越えて尾花沢に至るルートです。このルートは、今月(7/20)出かけた「車による奥の細道」では日程の都合でパスしたものです。

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 2008.5.16 奥羽山脈を越えて山形県に入りました。昔流にいえば仙台藩から新庄藩に入ったということになります。ここでの最大の見所は堺田という地域にある「封人(ほうじん)の家」といわれる、芭蕉が山形に入って最初に宿泊した宿として有名な家屋でした。

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 NHK「おくのほそみちを歩こう」より転載) 封人の家とは、国境を守る役人の家で、代々の庄屋が務めていたとのことです。土間から囲炉裏のある板間、座敷が3間続いています。この建物は350年を経ていて、芭蕉が宿泊した現存する唯一の建物としても知られています。

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 2008.5.16 芭蕉は1689.5.15にここに泊まり、雨に降られたために2泊したそうです。私は2008.5.16に芭蕉が座った同じ場所に座りました。芭蕉を気取って囲炉裏端に座ったのはいいのですが、管理人のおじさんから俳句でも一句如何ですかといわれたのですが、絶句しました。

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 2008.5.16 土間の手前側には馬小屋がありました。馬は家族同様に大切に扱われ、人馬共一つの家に居住していました。そこで芭蕉は 蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(しと)する枕元 という句を詠みました。ここに泊まれば自分でもこういう句は詠めるかなあというリアルで素直な句でした。

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 2008.5.16 封人の家からほど近くに分水嶺がありました。太平洋側と日本海側にここを分岐として流れが別れていました。一つの流れが二つに分かれるのは人生のようでもあり運命でもあるように思われ、しばらく眺めていました。

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 2008.5.16 奥の細道を歩いて一番困ったのが宿でした。旧東海道や旧中山道、あるいは四国遍路では一日の行程のほどよいところに宿がありましたが、奥の細道ではなかなか大変でした。山形県の山の中、赤倉温泉でようやく見つけた宿は「田代館」という民宿で、「旧農民の家」というのも気に入りました。

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 2008.5.16 この日はかなり歩きましたので、旅館にチェックインする前に酒屋の店先で、ビールでちょっとノドを潤しました。

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 2008.5.16 ノドを潤した後、集落に入ると雑貨屋というか何でも屋というかお店があり、一休みさせてもらいました。おばちゃんが、自家製のタクアンとお土産用の山菜漬けとお茶を振る舞ってくれました。

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 2008.5.16 「田代館」という旅館にチェックインし、風呂で汗を流し、夕食となりました。宿泊客は私1人でした。夕食は食事処でお膳が用意されていました。申し訳程度にお刺身がありましたが、山里ですから、やはり鮎や山菜が美味しかったです。山菜はその日に採ったもので、とても美味しく、次から次へとお膳が出てきました。

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 2008.5.17 温泉にゆっくり入って、熟睡して、翌朝田代さんご夫婦に出発を見送っていただきました。この日はこれから奥の細道最大の難所といわれる山刀伐(なたぎり)峠を越えますが、ご主人には事前に峠の状況を詳しく教えていただきました。奥様は気さくな方でズバズバとものを言う方で、アットホームはお宿でした。ありがとうございました。それにしても、日本はどこに行っても大抵の所に温泉があるのはいいものです。

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 (NHK「おくのほそみちを歩こう」より転載) 2008.5.17 いよいよ奥の細道で最大の難所といわれた「山刀伐峠(なたぎりとうげ)」越となりました。山刀伐峠は、山形県最上町と尾花沢市を結ぶ峠で、標高は390mとそう高くはないのですが、名前からしてちょっと怖そうで怯んでしまいました。

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 2008.5.17 山刀伐峠という名前の由来は、峠の形状が山仕事や狩りの際に使った「なたぎり」に似ているからとのことですが、俗説として、刀を持った山賊が住み着いていて、道行く旅行者を襲撃しては身ぐるみ剥ぐ危険な峠であったことに由来するという説もあるそうです。

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 2008.5.17 腰掛けた姿の芭蕉像と芭蕉が腰掛けたという石があり、何となくホッとしました。弁慶の腰掛けた石とか、いろいろあるものです。

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 2008.5.17 峠を越えて、下りにかかりました。かなり緊張したのですが、越えてみればあっけない気がしました。下りは緑を愛でながら、鼻歌交じりでした。

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 2008.5.17 峠道を抜け、ひたすら尾花沢市街を目指しました。途中芭蕉・清風歴史資料館の芭蕉像に挨拶して、20kmの行程が終了しました。

 

実際に奥の細道を歩いて、最も印象深かったのがこの日歩いたコースでした。赤倉温泉の雑貨屋のおばちゃんや「田代館」のおじちゃんおばちゃん達、8年も経っていますからお元気かどうかわかりませんが、「車で奥の細道」でパスせざるを得なかったことが残念です。またとても緊張した山刀伐峠越、今はどう感じるか行ってみたかった。

 

 

 

 

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2015年7月30日 (木)

奥の細道復刻版08 平泉中尊寺~奥羽山脈越え

前回は、松島と石巻まで車で行ったルートをご紹介しました。芭蕉はこの先平泉・中尊寺へと向かい鳴子温泉や立石寺(山寺)を経由して出羽三山に立ち寄って日本海(酒田市)に出ました。一方私は、そのルートは諦めて出羽三山ルートへと車を走らせましたが、奥の細道旅日記を完結したいと思い、しばらくは以前辿った芭蕉ルートを更新しつつもう一度ご紹介させていただきます。

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 2014.8.5 奥の細道で平泉を訪れたのは2008.5.15のことでした。その後何回となく訪れる機会があり、昨年も東北周遊の折に訪れました。中尊寺に向かう道端に蓮の花が咲いていました。この蓮は「中尊寺ハス」と呼ばれ、奥州藤原氏四代泰衡の首桶から発券された種を、一輪だけ咲かせたもので800年の眠りから覚めたハスとして有名です。現在では「中尊寺ハス」として各地に株分けされているそうです。

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 2008.5.16 08:43中尊寺への参道で。何でこんな写真になっているかといいますと、このときから、現地から携帯で直接ブログを更新しようとしたため、いわば手抜きの結果です。しばしばこの手抜き画像が登場し、お見苦しいと思います。

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 2014.8.5 中尊寺への参道の入り口には弁慶の墓があり、参道の途中には弁慶堂がありました。ここには弁慶の木造が安置されていました。ここでは弁慶が主役のようでもあり、中尊寺境内には義経の堂や墓やゆかりのものが見当たりませんでした。

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 2014.8.5 平泉中尊寺は2011年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。中尊寺金色堂は意外に質素な造りです。

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 2008.5.16 栄華を極め、源頼朝により滅ぼされた藤原氏三代の清衡、基衡、秀衡像。

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 (画像はNHK「奥の細道を歩こう」より転載) 金色堂内部は撮影が禁止されています。金色堂内部に展開されている世界は現世の 極楽浄土 を表現したものといわれています。下部にある須弥壇には初代藤原清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体(ミイラ)と四代泰衡の首級が納められています。

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 2008.5.16 義経終焉の地「高館義経堂」は、平泉中尊寺から15分くらい歩いた高館(たかだち)と呼ばれる高台にあります。この日は暑い日で、中尊寺から歩いて向かった時、大汗をかきました。

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 2014.8.5 義経堂が建つ高館の眼下には北上川が流れていて、義経も西行も芭蕉も見た大河です。芭蕉はここで “夏草や兵どもの夢の後” の句を詠みました。ここからは弁慶が立ち往生したといわれる衣川も望まれます。

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 2014.8.5 義経最期の姿といわれる像が祀られていました。しばしば、その像のリアルな姿や顔を見たとき、こんな人だったのだろうかと思うのは義経に限らないのですが、歴史上の人物の像つくりは難しいのでしょうね。

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 2008.5.16 7年前、芭蕉と同じように鳴子温泉に向かいました。ただ、芭蕉は歩いて(あるいは馬で)ですが、私はJR平泉駅から鳴子温泉駅へと電車で移動しました。駅に降り立ちますと温泉街独特の硫黄の匂いがたちこめていました。

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 2008.5.16 鳴子温泉からは奥羽山脈を越えるルート出羽街道へと歩きました。

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 2008.5.16 出羽街道中山越えのルートは石積みの階段が延々と続き、上りきってからは比較的平坦な道の連続でホッとしました。

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 2008.5.16 鳴子温泉から歩き始めて奥羽山脈を越えて山形県に入り、この看板を見たときはとても感動したものでした。

 

多分これから、奥の細道はスポット的には歩くことはあっても通しで歩くことはないと思います。7年前に歩いてから所々出かけた場所も何ヵ所かありましたので、こうして更新しているのですが、現地から携帯でブログをアップするという手抜きをした結果お粗末な画像が残ってしまいました。それがかえって生々しくも思える時もあるのですが、当時はこんなに長くブログを継続できるとは思いもしませんでした。

 

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2015年7月29日 (水)

富士山 マイカー規制

今年のマイカー規制は例年通り7/10(金)から始まっています。毎年7月第一週頃に富士登山をしているのですが、今年は天候が悪くその機会を逃がしました。何となく悔しいので、今日(7/29)富士山にトライしてみました。

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 04:56 マイカー規制期間中は、東富士五湖自動車道路の富士吉田ICで降りて、「北麗駐車場」にマイカーを駐めます。この日は、05:30始発のシャトルバスに間に合うように5時頃駐車場に着きました。既に車は満杯状態で、若者たちグループがシャトルバス乗り場へと向かっていました。

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 05:04 切符売り場にはこれから富士山五合目へと向かう人たちが行列をつくっていて、チケット売場の窓口は大体30分くらい前頃にオープンします。この日も5時頃に窓口はオープンしました。

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 0510 チケット購入したらシャトルバスに乗り込みます。バスは大型で、このときは補助椅子も使って満員で、もう一台臨時増発バスが出ました。

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 05:13 北麗駐車場から富士山五合目までの所要時間は40分くらいです。バスに乗り込んですぐに昼食を食べました。

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 06:02 マイカー規制中ですのでバスはスムーズに運行されていて、6時には富士山五合目の駐車場に着きました。皆さんそれぞれ足早に五合目レストハウスへと向かって、登山の準備をしていました。

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 06:16 登山口の手前に小屋があり、ここで入山料1,000円徴収されました。払う意志のある人は小屋の中でバッジと領収書を渡されます。昨年に続いてバッジが二個貯まりました。見ていると結構払わないで通り過ぎる人もいて、何故強制にしないのかと聞いたら、県の役人が決めることだからという答えでした。

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 06:19 ここが実際の五合目登山口です。前をゆく若者達は入山料を払わずにさっさと通り過ぎていきました。

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 06:31 五合目から六合目への道、その半分くらいは下りです。その分帰りは上りになります。少しずつ下っている登山道はすっかり霧に包まれてしまいました。

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 06:35 霧だけではなくて雨もかなり降り始めました。前をゆく父子連れの3人組もしっかり防水着を着ていましたが、これが蒸れて暑くなり、汗びっしょりとなり大変なのです。折角の夏休み、パパと一緒の富士登山です、晴れるといいのですが。

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 07:03 六合目には登山指導センターがあり、この時期は富士吉田派出所ともなります。ここで登山のガイドマップをいただきました。

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 07:07 六合目の登山指導センターの先の道は登山道と下山道が交差しますので、下ってくる人とこれから登る人とが出会います。かなり霧が濃くなり雨が激しくなってきました。

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 07:15 霧が流れて、七合目への登山道がかなりハッキリと見えるようになってきました。

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 07:29 とにかく外国人の数が多く、蓑笠状の笠と日の丸付きの金剛杖がお気に入りのようでした。

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 08:13 七合目手前の岩場にさしかかったとき、霧が濃くなって上の方が見にくくなりました。おまけに雨も激しくなって足下が滑りやすくなりました。

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 08:20 先行していた外人さん達が雨宿りしていました。山小屋の中に一歩でも入ると休憩料をとられますので、仕方なく軒先ともいえない短い庇の下で何となくの休憩をとっていました。

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 08:24 私はといえば、上ろうか下山しようかしばらく思案しました。結局、上の方もあまり状況は良くなさそうで、景色は見えず、八合目へと向かう岩場は滑りやすくなっていると思われ、汗と雨とで身体はビッショリでしたので、ここで撤退することにしました。

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 09:41 五合目に戻ってみると、出発するときは誰もいなかったのに五合目観光の人たちで大変な賑わいでした。この日は富士山は見えず、することといったらお土産を買うことだけで、中国人観光客の凄まじいショッピングはなかなか壮観でした。

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 10:03 10時五合目発のシャトルバスに乗りました。駐車場にはぎっしりと大型観光バスが駐車していました。

 

結局、この日も天候に恵まれず登山断念となりました。残念ながら今年は相性がよくないようで、私にとっては今シーズンの富士登山は終わりました。

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2015年7月28日 (火)

奥の細道復刻版07 松島・石巻

2015.7.20(月)多賀城跡と鹽竃神社を訪ねた後、松島と石巻市へと向かいました。距離的には松島の方が近いのですが、宿泊が松島近辺でしたので、先に石巻市へと向かいました。

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 2015.7.20 東日本大震災(2011.3.11)で大きな打撃を受けた石巻市へと向かいました。市内に入るとその爪痕はみられないものの所々に仮設住宅がありました。市中心部の近郊の高台に「日和山(ひよりやま)公園」があり、芭蕉と弟子の曽良の像があり、7年前と同じ姿で立っていました。

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 2015.7.20 日和山公園から望んだ石巻港は周辺は何となくスッキリというか平地が多く、また盛り土などもみられました。芭蕉はどんな気持ちで大津波に飲み込まれた港町を見つめていたのでしょうか。

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 2015.7.20 河口方向に目を向けると中心部に見える「石ノ森章太郎記念館」の2/3が水中に没してしまったそうで、さらに川上には児童74人と教職員10人が呑み込まれた石川小学校もあります。あまりの痛ましさに言葉もありませんでした。

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 2008.4.6 7年前は、芭蕉と同じように塩竃から松島までは船に乗りました。塩釜港のマリンゲートから松島行きの「島めぐり芭蕉コース」に乗りました。料金は1,400円でした。今回は石巻市から松島へと戻りました。

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 2015.7.20 松島のシンボル五大堂は流されなかったようで、多くの人が橋を渡っていました。

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 2015.7.20 芭蕉が向かった雄島へと行きました。この朱塗りの橋を渡ると108の岩窟があったといわれています。

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 2015.7.20 雄島からみた松島湾の島々。大小280もの島があるといわれています。

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 2015.7.20 雄島は瑞巌寺とゆかりが深く、島内には岩窟が多く、卒塔婆や仏像が多く安置されていて、全国から修行僧や巡礼が訪れ、修行したとのことで、島全体が霊場のようです。

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 2015.7.20 松島の船着き場辺りに戻ると何かのイベントが行われていました。暑い中、ソーラン節やよさこい節のメロディーにのって若い子達が踊っていました。

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 2015.7.20 いくつかのグループが入れ替わり立ち替わりでダンスや踊りを披露して、まわりにはたくさんの観光客が集まっていました。松島は賑やかさを取り戻しているようでした。

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 2015.7.20 瑞巌寺へと向かいました。

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 2015.7.20 瑞巌寺の表参道にはバリアーが張り巡らされていました。参道の両脇にあった大木が東日本大震災の塩水にやられてしまったために大木を切り倒し、土を掘り返しているとのことで、元の姿に戻るのに何十年かかるか男百年かかるかわからないとのこと。無残なものです。

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 2015.7.20 参道の脇には岩窟があり、たくさんの石像が置かれていて、こちらは大きな被害は受けなかったようで、大日如来や千手観音など、石像達は静かに祈りを献げているようでした。

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 2015.7.20 瑞巌寺のご本尊は「聖観音菩薩」で、青銅の立像です。制作年代は不明だそうです。本来は本堂に安置しているご本尊は平成の大修理期間中、仮本堂に移されているために間近に見ることができました。

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 2015.7.20 三代開山木造も大位牌などと一緒に仮本堂で間近に見ることができました。たまたま本堂は東日本大震災の影響もあって修復中でした。

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 2015.7.20 お土産屋が軒を連ねる表通りに出ると、名物の牡蠣が売られていて、この生牡蠣は美味しそうでしたが、白ワインが欲しくなりそうで、車の運転に差し支えますので諦めました。

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 2015.7.20 石巻と松島で芭蕉ゆかりの地を訪ねた後、奥松島といわれる地域にある民宿「桜荘」に行きました。大震災ではかなりの打撃を受け、建物は崩壊こそしなかったものの修復大変な費用と時間がかかったとのこと。桜荘の奥様とカミさんとは震災後の様子について長々と話し込んでいました。震災直後には多くの人からの激励の電話やメールがあったとのこと。とにもかくにも仕事が再開できてよかったのです。

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 2015.7.20 何回も目にした民宿の前の海岸は、いつものように静かだったのですが、これが大きな牙をむいたとは。

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 2015.7.20 再会と再興に乾杯。

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 2015.7.20 料理は、いつもいつも食べきれず、今回も食べきれず、その量が多くなることは悲しいことでした。

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 2015.7.20 ご主人がサービスでアワビの踊り焼を調理して下さいました。

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 2015.7.20 日が暮れて空が薄紅色になりました。長~~い 長~~い 一日が終わりました。

 

早朝に自宅を出発し、奥の細道のゆかりの地と東日本大震災の打撃を受けた地域を走り回った一日でした。特に大震災の被災地は一見すると平穏のように見えましたが、遠く離れた私たちには一概にはどうのこうのいえない重さを感じました。

 

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2015年7月26日 (日)

奥の細道復刻版06 多賀城・鹽竃神社

2015.7.20(月) 福島県飯坂温泉近くの医王寺に立ち寄り、芭蕉が見たのと同じ義経・弁慶の遺品を見て、さらに北上しました。

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 2008.4.5 7年前、前夜宿泊した仙台市内出発し、多賀城まで16kmくらいの道を歩いて10:30道しるべを発見しました。多賀城(政庁)跡とは、奈良時代前半に陸奥の国府としておかれ、南の拠点太宰府に対して北の拠点として大和朝廷と蝦夷の人々との争いの場ともなりました。11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった場所です。

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 2015.7.20 今回は、梅雨明けの暑い陽射しの下、汗をかきかき小高い丘を上りました。夏草は思いっきり碧さを増していました。

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 2015.7.20 以前にはみられなかった政庁の模型が展示されていました。

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2015.7.20 何ヵ所かにはボランティアのおじさん(同年代くらい)達がいて、立派なパンフレットもいただきました。なんとパンフレットには英文での説明もあり、この史跡の保存やPRに随分力を入れていることがわかりました。

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 2015.7.20 1300年以上も昔の礎石が今に残されていて、その地に立って当時に思いを馳せる。同じような大気が流れ、同じような風が吹いていたんだろうなあと思いつつ、当時の人はここでどんな暮らしをしていてどんなことを考えていたんだろうと想像することは、今の日本を考えたり、これからの自分の人生を考えたりすることにも通じるような気がするのです。

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 2015.7.20 多賀城には城跡ばかりではなく、「壺碑(つぼのいしぶみ)」といわれる石碑があります。木組みの格子でつくられた「鞘堂(さやどう)」という小屋の中に保存されています。

 

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 2015.7.20 この「壺碑」は762年に建立され、鞘堂の中で西を正面にして建っていました。この碑は高さ196cm、最大幅92cm。碑文の平城京や各国境からの距離などを刻んだ文字は今でも読むことができます。芭蕉は古代の姿をそのまま伝えるこの碑を見て、苦しい旅を続けたからこそ出会えたと涙を流さんばかりに感激したとのことです。

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 2008.4.5 7年前、多賀城からは旧塩竃街道をのんびりと歩きました。時々車が通るものの風情ある街道で、歩くことを楽しめたのですが、今回は車で一挙に走ってしまいました。

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 2015.7.20 鹽竃(しおがま)神社の表参道の202段の石段の脇には祭礼の幕が張られていました。

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 2015.7.20 この日は海の記念日であり、塩竃市では「港祭り」という市民にとっては大きなお祭りが行われていました。お祭りの法被を着た市民達は202段の石段を上りきってハアハアいっていました。

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 2015.7.20 鹽竃神社は奥州一の大社といわれています。ここには芭蕉が感銘したという「文治の燈籠」といわれる鉄製の奉燈が現存しています。

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 2015.7.20 境内には「林子平考案日時計」と称される県内最古の日時計がありました。学友である塩竈神社の神官が、 寛政4年(1792年)奉献したそうです。石盤上にはローマ数字が刻印されていて、「紅毛製大東日」と刻す異国風の珍しい日時計です。

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 2015.7.20港祭りは、鹽竃神社の御神輿が松島湾内を渡るというもので、海の祭典としては全国有数の規模で百隻もの供奉船を従えて巡航する様子は平安絵巻を見るようだといわれています。旅をしていて思いがけず祭りに出会い、地元の人々が楽しそうにしている姿を見るとこちらも元気をいただけます。

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 2008.4.5 前回鹽竃神社を訪れたときには塩竃市のホテルに宿泊しました。街をブラブラしていると小さな市場があり、塩竃は松島に近いせいか牡蠣が美味しくホヤ貝やホッキ貝も並んでいました。1個100円の牡蠣を買いました。

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 2008.4.5 殻付きの牡蠣を食べやすいように造ってもらいました。塩釜は生マグロの水揚げが日本一です。その800円の生マグロを500円にまけてもらって、割り箸や醤油やワサビまでつけてくれて、ホテルで海の幸を満喫しました。港町のおばちゃんやお姉さん達はとても気っぷが良かったのでした。

 

7年ぶりの多賀城跡の復元保存の充実ぶりにびっくりしました。英文の説明入りのパンフレットは訪日観光客への対応の一環で、さらにこの努力を継続してほしいものです。訪日観光客が増え、リピーターも増えるのに伴って日本の魅力は、東京や京都から地方都市へ、食べ物やおもてなしだけではなくて歴史や文化へも向かってゆくものと思われます。私たちが海外に行くことの楽しみは、名所旧跡や食べ物はもちろん、その国の文化や歴史、人々の暮らしであり、来日する外国人にとっても同じことだと思われます。

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2015年7月25日 (土)

奥の細道復刻版05 奥州街道

2015.7.20(月) かつて歩いた奥の細道の中で特に思い出深い地を、今回は車で訪ねました。

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 早朝自宅を出発し、首都高速、東北自動車道を福島県飯坂温泉に向かいました。関東甲信越地方は梅雨明け宣言が出たばかりで天気は良さそうなのでしたが、早朝のせいかあるいは台風が接近しているせいか雲の動きは荒れ模様も予想されるものでした。

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 09:26 飯坂温泉を過ぎて間もなくのところで、7年前歩いた道を発見しました。テクテクと歩いたことを思い出しました。奥の細道は、東海道や中山道のようには道が整備されているわけではなく、正確なルートの情報もありませんので時々思い出したように現れる標識を発見するごとに胸をなで下ろすことしばしばでした。

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 医王寺の参道はまったく変わらず、夏の熱い陽射しを緑濃い樹林が遮っていてシーンとしていました。

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 医王寺の境内には芭蕉の詠んだ句 笈も太刀もさつきにかざれ紙のぼり が彫られた石碑がありました。芭蕉がここを訪れたのは1689年で、このとき詠まれた句の中の言葉「笈」は弁慶の遺品、「太刀」は義経の遺品といわれるものです。

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 医王寺の参道の左手には「瑠璃光殿」という宝物殿があり、入り口に芭蕉が座っていました。

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 頼朝の追っ手を逃れて平泉に行く途中、義経と弁慶はこの地を訪れたとのこと。

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 ここには義経の直垂(ひたたれ)の断片も残されています。芭蕉は義経の太刀も見ていて句に詠み込みました。

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 前回にもご紹介しました弁慶が使ったとされる「笈」(修験者や行脚僧などが仏具・衣類・食器などを入れて背負う足つきの箱)も芭蕉は見たということで。この笈は1180年代のもので、芭蕉は500年後の1689年にこの笈を見て、同じものを芭蕉が見た300年後に私が見た、その時の流れを想うと感慨深いものがありました。

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 医王寺で感慨に耽った後、実際には次の目的地仙台に向かったのですが、7年前に辿った道を振り返ってみますと、2008.4.4 医王寺の後に奥州街道をテクテクと歩き続けました。

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 2008.4.4 奥州街道の斎川宿はとても風情のある街道でした。福島県から宮城県白石市に入りました。

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 2008.4.4 奥州街道を北上して歩いて行くと坂上田村麻呂を祭神とする田村神社があり、ここの境内に甲冑堂(御影堂)がありました。甲冑堂には、この日の午前中に訪れた医王寺にお墓がある佐藤継信、忠信兄弟の妻を祀ってあります。法隆寺の夢殿のような趣がありましたが、門が閉じられていました。

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 2008.4.4なんとか中を見たいと思い、社務所の人にお願いして門を開けてもらいました。2つの人形は、佐藤兄弟(この地を治めていた佐藤家は義経の庇護者でもあり、現在でも地元の精神的な支えになっています)の妻の甲冑姿でした。佐藤兄弟が戦死し、落胆の姑を励まそうと二人の妻が甲冑を身につけ、凱旋したように見せたという話を体現したものです。この謂われのために、当初は御影堂と呼ばれていましたが、今は甲冑堂と呼ばれています。この話に芭蕉も涙したということでしたので是非来てみたいと思っていたところです。

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 2008.4.4 電車を利用して宮城県名取市に移動し、名取駅から1時間くらいところにある笠島を訪ねました。笠島には、平安時代の歌人「藤原実方」の墓と芭蕉の句碑がありました。どんなところかと思っていたところ、ビニールハウスが並んでいる畑の細い道(農道)の先、なんの変哲もないところでした。

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 2008.4.4 藤原実方は、有名な歌人でしたが、991年に政争に敗れ左遷され、陸奥守に任じられ、陸奥守に任じられ、この地で最期を遂げました。西行は歌人としての藤原実方を敬愛していましたのでこの地を訪れたのですが、あまりにもみすぼらしいお墓に涙し、“笠島やいづこ五月のぬかり道” という句を残しています。確かに、墓石があるわけではなく細木が一本立っているだけでした。歌人として有名を馳せた都人の墓所としては哀れさを誘います。芭蕉もまた、藤原実方と西行を敬愛していましたので憧れの地であったようですが、何らかの事情で訪れることができなく、1696年に門人が訪れたとのことです。

 

今回は、実際には医王寺から車で仙台に向かってしまったのですが、8年前を思い返せばテクテクの醍醐味を味わった行程でした。義経・弁慶、西行、芭蕉の辿った道は観光名所でもなく、それぞれひっそりとした場所で、しかしまぎれもなく800年もの時の流れや今もって語られる歴史を感じる道歩きでした。じっくりと再び奥の細道を歩くほど残された時間は多くないことが残念です。

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2015年7月18日 (土)

車で奥の細道

7/20(月)から奥の細道で特に思い出深いところを車で再訪しようと思っています。

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 奥の細道の行程(グリーンライン)は、日光街道の先松島を経由して平泉にいたり、山形県の山刀伐峠を越えて日本海に出て、日本海を南下して敦賀から琵琶湖のほとりを通って岐阜県大垣市に至るもので総距離数は2,400kmもあります。7/20からの行程では4泊5日という縛りがあり、平泉まで足を延ばすことができませんし、特に独特の風土を持つ庄内地方(酒田市・鶴岡市)に立ち寄れないとか、各地でゆっくりできないとか満足のできるプランではありません。おまけに帰路は琵琶湖畔を通らず、結びの地といわれる大垣にも寄らずに、どういうわけか飛騨高山で一泊という中途半端なものになりました。

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 今回どうしても行きたかったのが松島や石巻市です。2011.3.11の東日本大震災で大打撃を受けた地域です。

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 2006.5.19に石巻市に到着し、石巻湾を見下ろす小高い丘に日和山(ひよりやま)公園があり、そこには芭蕉と弟子の曽良の銅像がありました。私が訪れたときは春の陽射しの下に石巻湾は穏やかに拡がっていました。大震災が発生した3.11、芭蕉達は何を見て何を思ったのか。自宅から一気に走り着くのは微妙なのですが、是非行ってみたい場所です。(画像は携帯画像)

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 2009.7.12 数年前から東北地方を訪れるときは、その拠点として松島にある漁師民宿「桜荘」に宿泊しています。東北周遊の折に訪ねたとき、桜荘のご主人(2009.7.12撮影)は料理の仕込み中でした。桜荘は松島湾の奥に位置し、震災で大打撃を受けようやく民宿を再開したとのことで、ここも是非行ってみたい場所です。仙台地方に訪れたときは、市内のホテルに泊まって居酒屋「一心」で飲むか桜荘で美味しい魚料理を味わうか、いつも迷うのですが、今回は復活した桜荘に立ち寄りたいと思っています。(画像は携帯画像)

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 旅の友として何冊かのガイドブックを持って行きますが、今回は「居酒屋 おくのほそ道」を加えました。今回は、1泊目漁師民宿、2泊目は新潟市内のホテル、3泊目、4泊目は旅館ということで、居酒屋探訪の機会は新潟市だけですが、行きたい居酒屋が何ヵ所かあり悩ましいところです。

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2015年7月17日 (金)

奥の細道復刻版04 郡山~飯坂温泉・医王寺

奥の細道7回目は、郡山から福島県飯坂温泉を目指しました。この日は、全行程歩きたいと思っていたのですが。

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 2008.4.3 始発電車に乗り、東京から東北新幹線「やまびこ」で07:23には郡山に到着しました。早速最初の目的地である安積山(あさかやま)を目指しました。郡山から旧道に入り、8:45に安積山に到着しました。芭蕉は郡山に一泊して安積山を訪ね福島へと向かいました。現在、安積山は公園や運動場になっています。

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 2010.10.12この日は行程が長いので、次の目的地二本松へ急ぎました。二本松までは18kmの距離で、13:00頃に二本松城に到着しました。少年隊といえば会津白虎隊が有名ですが、二本松でも少年隊が組織され、戊辰戦争では多くの若い命が失われたとのことです。二本松城へはこの後何回も行くことになり、この画像は2010年に磐梯山登山の途中立ち寄ったときのものです。

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 2008.4.3 二本松城の隣に「霞ヶ城公園」があり、高村智恵子の碑がありました。遠くに智恵子見たであろう安達太良山を望むことができます。

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 2013.10.29 高村智恵子が見たいといった本当の空。この画像は2013年に安達太良山登山の時のものです。

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 2011.10.11 安達太良山の紅葉は素晴らしく、紅葉の時期には何回も通っている場所です。

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 2008.4.3 13:30に二本松を出発し、福島を目指しました。どこまでも続く国道4号線(奥州街道)をテクテクと北上しました。

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 2008.4.3 国道沿いですが、どういうわけかドライブインや食堂など食事するところがありませんでしたので、用意しておいた草大福で腹拵えしました。

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 2008.4.3 福島への手前10km地点で日が暮れてしまいましたので、歩くのをあきらめJR東北本線の金谷川駅から電車に乗りました。福島駅に着いたときにはすっかり日が暮れ、芭蕉が出迎えてくれました。

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 2008.4.3 水分とエネルギー補給しました。先ず初鰹とタラの芽の天ぷら。この日の歩行は38km59,000歩)でした。郡山から福島までの距離は50km近くあり、どんなに頑張っても歩ききることはできませんでした。まだ先もあることですし無理をしないことにしました。

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 2008.4.4 福島駅前で一泊し07:30に出発ました。信夫(しのぶ)の里にある「文知摺石(もちずりいし)」を目指しました。これは芭蕉がわざわざ歌枕である信夫の里に行き、文知摺石を見に行ったとのことでしたので、私も行ってみることにしました。09:00に文知摺観音に到着しますと芭蕉像が出迎えてくれました。ここまで1時間半かかりました。

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 2008.4.4 「文知摺石」の実体はハッキリしていないようですが、布を模様のある石の上に当て、忍ぶ草などの緑色の葉や茎をそのまま布に摺りこんで染めたもののようです。

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 画像は雑誌「一個人」より転載。 かつてこの地は、綾形石の自然の石紋と綾形、そしてしのぶ草の葉形などを摺りこんだ風雅な模様の「しのぶもちずり絹」の産地でした。芭蕉は、「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」という句を詠みました。観光地でもなく、訪れる人もいない地にぽつんとある石を見るためだけの往復3時間ですが、このような道を歩くことがテクテクの醍醐味で後々印象に残るのではないかと思いました。

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 2008.4.4 飯坂温泉を通り抜け、「おくのほそ道・芭蕉坂」という標識がある細い道の入り口に着きました。

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 2008.4.4 医王寺に着きました。杉の古木が200mも続く参道です。医王寺は義経・弁慶とゆかりの深いお寺です。福島県も北に上りにつれて、芭蕉の影よりも義経の影が色濃くなるようです。ある人から義経を訪ね歩いているのですか、芭蕉ですかと聞かれました。

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 2008.4.4 宝物殿の瑠璃光殿には、今から800年ほど前の甲冑などが保存されていました。弁慶が背負ったといわれる笈(おい)です。細かい細工や装飾が施されていました。逃亡にこれを背負ったらきっと目立ったことと思いました。各地で義経や弁慶(特に多いのが腰掛け石)の遺品やゆかりの物などを見かけます。どこまで本当なのかと思うこともありますが、展示されているあれやこれやとその説明を見ているとこれは本物だろうなあと思えるのでした。

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 2014.11.7 信長や秀吉、家康など戦国武将や歴史上の人物の遺品は全国各地で見ることができます。東海道五十三次では丸子宿の先、宇津ノ谷という集落で秀吉の陣羽織をみたことがありました。昨年奈良県吉野山に行ったとき見た吉永神社にある「静御前の衣装」は最も印象が深いものでした。いろいろな衣を継ぎ足したその衣装は生々しいというか痛々しいというか。

 

2006.2.16に東京深川を出発して、7回の奥の細道歩き(一部交通機関利用)で福島県飯坂温泉医王寺まで到達しました。この7/20(月)から車による奥の細道行に出発します。その行程では、1日目は松島まで走らなければならず、途中、芭蕉が最も気に入っていた地である黒羽町(現大田原市)などに立ち寄ることができません。しかしもう一カ所強い印象が残っている医王寺にはなんとか立ち寄ってみたいと思っています。もう一度弁慶の遺品を見てみたいものです。

 

 

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2015年7月15日 (水)

奥の細道復刻版03 白河の関~郡山

この日(2006.3.19)は、今は大田原市となった「芭蕉の里」といわれる黒羽町から「白河関跡」へと移動し、那須湯本へと向かいました。とても歩いては無理な行程でしたので電車やバスを利用しましたが地方の公共交通機関のダイヤが少なく、結構苦労しました。翌日は思いっきり歩くことができました。

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 2008.3.19 夕方東北本線黒磯駅に到着し、黒磯駅からはバスで那須湯本温泉に向かいました。バスの終点で下車し、温泉(湯禅)神社にお参りしました。この神社は、那須与一が屋島の戦いで馬上から船上の扇の的を射た時に願掛けをしたといわれています。

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 2008.3.19 神社本殿の奥の道を更に進むと下北半島の「恐山」と同じような風景が広がっていました。芭蕉も訪れた「殺生石」周辺には硫黄の匂いが鼻をつきました。この風景も300年前と変わっていないのでしょう。だいぶ日も暮れてきて大気も冷えてきて寒く感じました。

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2008.3.19 那須湯本温泉の発祥の湯「鹿の湯」は、昔、傷を負った鹿がこの湯で傷を癒したところからこの名がついたといわれています。

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 川沿いには共同湯があり、芭蕉も旅の疲れを癒やしたといわれています。

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 2008.3.19 「鹿の湯」から湯を引いている宿に泊まり、何回も入浴し、すっかり温泉気分を満喫しました。始発で自宅を出発してから、黒羽町~雲厳寺~遊行柳~白河の関と巡った、長かった一日が終わりました。

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 2008.3.20 奥の細道6回目の旅程の2日目(3/20)は、白河から須賀川を目指しました。前日は様々な芭蕉ゆかりの地を広範囲に訪ねましたが、バスやタクシーなどを使いあまり歩きませんでしたので、この日のウオーキングが楽しみでした。08:00雨の新白河駅前を芭蕉に見送られて出発しました。

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 2008.3.20 途中白河市内の皇徳寺に「小原庄助」さんのお墓があるというので行ってみました。小原庄助という人は、「朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それでしんしょう潰した」と謳われた人で、まさか実在の人物とは思いませんでした。

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 2008.3.20 小原庄助さんの本名は会津の塗師「久五郎」というそうです。酒好きとあってお墓がお銚子と杯でした。戒名が「米汁呑了信士」、辞世の言葉が「朝によし昼になほよし晩によし、飯前飯後その間もよし」というもので、こんな言葉を吐いてこの世とおさばらできるなんて羨ましい限りです。

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 2010.7.31 後日、とても気に入って何回となく通っている「庄助の宿」は、小原庄助が贔屓にしていてよく利用していたことにちなんでつけられたそうです。渓流沿いにあり、見事な瀧に面していて「瀧の湯」ともいわれています。

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 2010.7.31小原庄助さんが浸かった湯船だそうです。小原庄助さんといえば「朝寝、朝酒、朝湯が大好き」で知られています。実際には名字・帯刀を許された郷頭(庄屋さんのようなものでしょうか)で、性格は豪放磊落だったそうです。これも何かの縁かもしれません。

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 2008.3.20雨の中4号線を北上しました。阿武隈川を越え、須賀川市内に入りました。雨のせいばかりではなく、しっとりと落ち着いた街並みでした。

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 2008.3.20 須賀川も芭蕉とは縁の深い町でした。市役所脇にある芭蕉記念館を訪れました。ここで本日の行程は終了しました。ほぼ30km46,000歩)の行程で、久しぶりに思いっきり歩くことができ、一日中雨でしたが快適でした。

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 2008.3.21 前日は須賀川市内に宿泊し、須賀川駅前の「なかよし」に見送られて08:00 郡山に向けて歩き始めました。

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 2008.3.21 10:40に郡山駅に到着しました。あっけないテクテクで、2泊3日の旅程は終了しました。11:10発の東北新幹線「やまびこ」で自宅に戻りました。

 

6回目の奥の細道は、退屈な日光までの日光街道歩きに比べて、黒羽町、白河関跡、那須湯本温泉など見所がたくさんあって楽しく、次回以降へ向けてのモチベーションが上がりました。

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2015年7月14日 (火)

奥の細道復刻版02 日光~白河の関

2006.2.16に日光に到着し、日光見物をした後一度自宅に戻り、奥の細道を再開したのは2年後でした。このブログは7/20(月)から出かける、車による奥の細道でパスせざるを得ないスポットのご紹介をさせていただきます。

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 2006.2.16 日光で一泊することにしてあれやこれや宿探しをしたのですが、ちょっと名の知れた旅館ですと宿泊費が高かったり一人宿泊を断られたりで、結局普段あまり泊まることのないペンションにしました。

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 オーナーご夫妻は横浜から20年前にここに移り住んだそうです。ご主人は釣りがしたくてここにペンションを開いたそうです。お二人のおもてなしは、まるで自分の故郷に帰ったような気になりました。

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 最期にデザートが出された時にはお腹が一杯でした。1泊夕食付き7,000円のコースにオードブルと赤ワイン(フルボトル)を追加オーダーして10,500円でした。お腹は一杯になるしとてもリーズナブルな料金でした。

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 2006.2.17 ペンションで一泊し、翌日は場所が訪れたという「含満ヶ淵」に出かけました。前夜の雪で白くなってしまった世界はとても幻想的でした。

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 このお地蔵さん達は、慈眼大師天海という人の弟子約100人が「過去方霊」「自己菩薩」を祈願して作ったそうです。参詣者がお地蔵の数を数えたら何回数えてもその度に数が合わないために「化け地蔵」ともいわれているということでしたので私も数えてみたのですが途中でわからなくなりました。

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 「含満ヶ淵」は日光東照宮の近くでしたので、東照宮にも寄りました。派手ではなく、重みがありそれでいて重苦しくなく、存在感のある素晴らしい色彩でした。雪景色だから更に映えていたのかもしれません。

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 帰りはJR日光駅から宇都宮駅に出て東北新幹線に乗りました。宇都宮駅でちょうど昼となりましたので名物「宇都宮餃子」で昼食をとりました。

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 2008.3.19 前回は日光まで歩き、奥の細道6回目は2泊3日の行程で郡山を目指しました。前回から2年間のブランクがありました。仕事が立て込んだこともありましたが、奥の細道を続けようかどうか迷っていました。結局、ウジウジしているうちに時間的な余裕ができ、再会することにしました。最初に立ち寄ったのが那須神社でした。那須神社は那須与一ゆかりの神社です。早朝のせいばかりではなく、バスの便が1日に4本しかない場所にあるために誰もいませんでしたが、とても立派な神社でした。

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 2008.3.19奥の細道の東北ルートで最も印象が深かったのが「黒羽町」でした。失礼ながら「黒羽町」という町の存在を知りませんでしたが、初めてこの町に入って、ここは「奥の細道の聖域」ではないかという強烈は印象を受けました。芭蕉が13日間も滞在したというのもわかりますし、「芭蕉の里」といわれていることも肯けました。ここ「芭蕉の館」の館内には芭蕉や奥の細道に関する資料が豊富に展示されていました。

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 2008.3.19芭蕉の館の前には馬に乗った芭蕉像がありました。芭蕉は随分健脚と思っていましたが、馬に乗ることもあったことがわかりました。

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 2008.3.19 「雲厳寺」は「芭蕉の里」のシンボルといえるようなお寺でした。西那須野駅から少ないバスを乗り継いで1時間もかかる山奥ですが、どうしても行きたかった場所でした。このお寺は、芭蕉の座禅の師匠といわれる仏頂和尚が庵をむすんでいたところでもあります。

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 画像は、雑誌「一個人」から転載させていただきました。芭蕉は「啄木(きつつき)も庵(仏頂和尚の住居)はやぶらず夏木立」という句を詠みました。7/20から車で出かける奥の細道ではどうしても立ち寄りたかった場所ですが、日程的、時間的に無理でとても残念です。

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 2008.3.19 黒羽町は「芭蕉の里」といわれるほど芭蕉と縁が深い町で、多くの見所があります。藩主をはじめとして厚いもてなしを受けたようです。大雄寺周辺一帯が芭蕉が長逗留し、また散策した場所として知られているところですが、このお寺も名前からイメージされるような勇壮なお寺でした。

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 2008.3.19 大雄寺の参道は芭蕉の道にも通じていました。俳句の一句もひねりたくなるような道でしたが、どうにもその方面の才能がないことがわかりました。

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 2008.3.19 「遊行柳」は、西行法師が和歌を詠んだことで有名な場所です。西行に憧れて奥の細道の旅に出たともいわれている芭蕉にとっては是非とも訪ねたい場所であった場所です。実際に行ってみると広い田圃が拡がる地に、「遊行柳」だけが佇んでいました。

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 2008.3.19 芭蕉は、ここで「田一枚うえて立ち去る柳かな」という句を詠みました。冷たい風が広い田圃の中の柳を撫でていました。西行や芭蕉が眺めたと同じような風景や同じ柳を私も眺めることができ、風を感じることができました。たった一本の古木ですが、ここに佇むことができたことに満足しました。

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 2008.3.19 芭蕉と同じように遊行柳を経て奥州街道を北上し、先ず境の明神(新関)を訪れました。栃木県と福島県の国境を挟んで2つの神社があります。2つの神社を併せて境の明神と呼ばれています。

  

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 2008.3.19 いよいよ白河の関です。関東と奥州の国境である白河の関は、多くの文人、歌人が歌に詠んだ憧れの場所です。白河の関は場所が定かではなく、古関と新関があります。古関と呼ばれる白河の関は、北方の守りを固めるために設けられた関で、大化の改新以後、7~8世紀には存在していたと考えられています。勿来(なこそ)の関、念珠(ねず)ヶ関とともに、奥州三古関の一つに数えられています。

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 2008.3.19 白河神社への参道脇には義経が平家追討の祈願をしたといわれる「矢立の松」がありました。芭蕉は、西行の足跡を追うようにして歩きましたが、それはまた義経の足跡を辿る旅でもありました。180年に戦勝祈願した義経も、8年後の1187年には兄頼朝に追われる身となり、再び奥州に逃れてきました。誰もいない神社で、昔を偲びますと人間の運命に哀れを誘いました。

今こうして思い返してもよく出かけたもんだと思います。

 

 

 

 

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2015年7月13日 (月)

奥の細道復刻版01 深川~日光

2005年の12月から20089月にかけて奥の細道を歩きました。奥の細道は2,400kmという長い行程で、印象深い場所が何ヵ所かありもう一度訪れて見たい場所もたくさんあります。急に思い立って、7/20(月)から4泊5日の日程で、車ではありますがいくつかの思い出の場所を訪れてみようと思います。

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芭蕉が奥の細道として歩いたのは、江戸の深川を出発して全行程600里(2,400km)、日数約150日といわれています。その足跡は日光街道を平泉中尊寺まで北上し、秋田県の日本海側に出て日本海を南下し、北陸を経由して琵琶湖湖畔を通り、岐阜県大垣市に至るというものです。今回の「車で奥の細道」の行程は1日目に仙台を目指そうという強行軍です。途中寄りたいところがたくさんありますが、時間的に福島県飯坂温泉近くの医王寺まで一気に突っ走ります。ということで途中日光を経由して医王寺に着くまでの行程を以前の奥の細道行を振り返ってみようと思います。

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 東海道五十三次や中山道歩き、あるいは四国巡礼などについてはガイドブックがかなり出ているのですが、奥の細道のガイドブックは少なく、この本が唯一のガイドブックとなりました。

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 奥の細道温泉紀行という楽しげな本もありましたが、タイトル通り主な温泉地のつまみ食いで実際に歩くときの参考にはなりませんでした。

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 2007年の9月~10月にかけて「NHKの趣味悠々」という番組が放送され、そのテキストも出版されました。また雑誌での特集も組まれたりもしましたが、こういう本は名所中心ですので、名所から名所へのルートがどうなっているのかという一番知りたいところがかけているために実際に歩くときにはあまり参考になりませんでした。

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 2005.12.19 10:49暮れも押しつまりつつある忙しいときに出発しました。芭蕉が出立した深川にある「菜茶庵(さいとあん)跡」に出かけると、まるでそこで待ち合わせしたかのように芭蕉さんが座って待っていました。

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 2005.12.19 12:19 深川から歩き出して、すぐに両国の国技館通りに出ました。後ろには霧島親方のちゃんこ料理店がありました。

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 2005.12.19 13:06 地下鉄東西線門前仲町から深川~両国~浅草へと歩きました。

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 暮れも近いせいか何となく慌ただしく、それでなくても活気のある浅草界隈は賑やかで、羽子板市も華を添えていました。奥の細道1日目は江東区、墨田区、台東区、荒川区、南千住まで10:30から14:00迄の4時間弱のテクテクでした。まあ小手調べの一日でした。

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 2006.1.2 11:56 奥の細道2日目は、千住大橋を渡ることから始まりました。年明け早々でしたが、まだ奥の細道というとんでもない長距離の道を歩けるのかどうかおっかなびっくりでした。

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 2006.1.2 12:02 千住大橋で隅田川を渡ると、橋の袂に「矢立初の碑」がありました。芭蕉は、元禄2年(1689年)、46歳の時に深川を出発し、船でこの地に渡りここで見送りに来た弟子達と別れを惜しみました。その時 “行春や鳥啼き魚の目は涙(ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)” という句を残しました。

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 2006.1.2 12:10 奥の細道の最初のルートは日光街道でひたすら北上する道でした。歩き通せるかどうか不安を抱えながらも、「矢立初の碑」で芭蕉と弟子達との別れの気持ちに触れ、少しずつ背中を押される気分でした。この日は南千住から草加まで12kmくらい歩きました。

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 2006.1.13 9:59 奥の細道3日目は、草加から歩き始めました。ここは越谷あたりで、旧街道の雰囲気が見られ、シャッター通りのようなさびれた感じはしないで、人々の生活が静かに息づいているような印象でした。天気は快晴でしたが風が強く、北風に逆らって北上しました。草加周辺以外には芭蕉の句碑などはなく、奥の細道を歩く多くの人は日光からスタートするというのも肯けました。この日は草加から杉戸という町(東武動物公園駅)まで6時間の行程でした。

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 2006.2.2. 10:01 奥の細道4日目は、東武動物公園駅から歩き始めて栃木県小山市を目指しました。利根川を越えると茨城県から栃木県に入ります。天気予報は下り坂でしたが時々薄日が射して、歩くには最適な天候でした。

 

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 2006.2.2 12:20 ようやく栃木県に入りました。昔はきっと渺々たる道で、芭蕉はどういう気持ちで歩いたのでしょうか。私は、車が走り抜ける傍をテクテクと、一歩でも日光に近づきたいと思って歩きましたが、今でもよく気持ちがめげなかったものだと思います。

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 2006.2.2 14:47 日光までの道はあまり見所がなく、少し賑やかな町が現れ、閑散とした町が現れの繰り返しでした。そういうなかでも、思いがけない店を発見するのも楽しみです。この店は「若盛(わかさかり)」という蔵本の店でした。

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 思い切って蔵本の店に入ると、3年連続して金賞を受賞した「門外不出」の純米吟醸のワンカップと「生酒・しぼりたて・あらばしり」を勧められ、晩の楽しみとしました。

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 2006.2.3 06:54 前夜は小山市内のホテルに宿泊し、朝目覚めましたら雪がこんこんと降っていました。この日は名所の「室の八嶋」に行く予定でしたが、雪の奥の細道もいいと思ったのですが、帰りの交通機関がストップするおそれがあるとのことで、いったん自宅に戻ることにしました。結局歩いたのは一日だけでしたが9時間半で54,000歩歩きました。

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 2006.2.16 08:35 始発電車で奥の細道5日目に出発しました。東京駅から東北新幹線に乗り換え、小山駅に到着し、小山駅から両毛線、東武日光線、東武宇都宮線と乗り換え、野州大塚駅に到着し、歩いて15分の大神(おおみわ)神社に到着しました。ここ大神神社は今から1800年前に創建されたといわれ、奈良の大神神社の分霊で天照大神をはじめ6祭神が祀られています。

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 大神神社の境内には「室の八嶋」といわれる景勝地があります。日光までの行程のハイライトともいえるスポットで小ぶりの赤い欄干の橋を渡って実際に島巡りをすることができました。

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 2006.2.16 11:09 例幣使街道を今市市目指して歩きました。そして日光杉並木の前半が始まりました。この杉並木は、場所によっては歩道がなくて車がすぐ脇をビュンビュン走っていたり、あるいは歩道がきちんと設置されていたりとかさまざまでもう少し整備してほしいなあと思いました。

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 2006.2.16 14:04 日光への最期の行程、日光まで7kmの地点まで来ました。

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 2006.2.16 14:28 長い長い杉並木の終盤は、ようやく歩道だけのきちんとした道となり、うっすらと雪化粧していました。車が走っていませんでしたのでのんびりと旅を味わいながら歩くことができました。

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 2006.2.16 15:37 JR日光駅に着きました。日光駅はJRの駅と東武日光駅と二つあり、二つの路線は競争状態となりましたが、現在は東武日光駅が賑やかでJR日光駅はひっそりとしています。ひっそりと佇む趣のある駅舎は見ている限りではノスタルジックを感じさせ、白い駅舎と美しい青い空が悲しいほどでした。

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 日光駅前の目抜き通りから男体山を眺めることができました。深川から日光まで約140km、5回に分けての日光街道歩きはあまり見所がないテクテクでした。よく気持ちがめげなかったなあと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2015年7月 6日 (月)

富士登山 断念 続き

前日は夜間登山による登頂についてご紹介しましたが、今回は念願叶って登頂してからのことをご紹介します。頂上に着いてホッとして、普通の山であれば鼻歌でも歌いながらというところですが、下山が大変なのです。また富士山の場合は登頂後いくつかのパターンがあります。一つめは一休みしてさっさと下山するケース、二つめは本物の山頂(剣が峰:3,776m)までもう一頑張りするケース、三つめはお鉢巡り(富士山頂の火口一周:1時間半)をするケースです。

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 2008.07.18 03:52) 登頂して何をするにしても先ずは一休みとエネルギーや水分の補給です。このときは日の出前に登頂してご来光を待つ間に豚汁で身体を温めました。気温はほぼ氷点下ですので、じっとしているととても寒く感じました。

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 2011.07.13 10:47) 最近は山頂ではおでんを食べることが多いのです。この時間帯はかなり日射しが強く、半袖の人も多く見かけました。山頂では、天気がいいときと悪天候の時の温度差はかなりのものがあります。

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 2011.07.13 12:24) 一般的には各登山道の終点を頂上と呼んでいますが、富士山の実際の山頂はさらに上にあり「剣が峰(3,776m)」といわれる地点です。かつては測候所があった地点で、かなりの急坂です。山頂までにかなりの体力を使っていますので、剣が峰まで登るにはかなりの気力と体力が必要とされます。

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 2009.08.03 10:56) 私もお鉢巡りはほんの数回しかしたことがありません。最も高い「剣が峰」を経由してお鉢状の火口の周りを一周するのに1時間半かかりますし、また好天気でなければ無理ということもあって、多くの人がお鉢巡りをしないようですが、一度は覗いてみたい世界です。

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 2012.07.09 06:32) 一番多くの人が登っている吉田ルートは、登山道と下山道が別になっていますが、下山道が使えないときには登山道を下るということもあります。ご来光の時間帯は混雑しますが、その時間帯を過ぎると登ってくる人は少ないために混雑はしません。

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 2009.08.28 06:42) 吉田ルートの下山道は豪快です。はるか彼方まで続く下界や雲海を下に眺めながらの下山は富士山ならではのものです。

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 2012.08.29 10:45) 登りの苦しさから解放されてルンルン気分で下るのですが、滑りやすい砂礫の道が延々とさらに延々と続くとさすがにうんざりとしてきます。そのうち足や膝がガクガクになったりもします。初めて登ったカミさんの友達(女性)は六合目まで戻ったときにはフラフラになっていましたし、私の友人(男性)は、駅の階段を上がれないというので私の家に泊めたこともあります。富士登山はしたいが下山が嫌だという人も結構います。

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 2014.07.23 13:31) 吉田ルートでは登山道と下山道は別ですが、六合目で合流しますのでこれから登る人と下山してきた人が行き交います。こちらが長く続いた砂礫の下山道にフラフラになっているのに対して、これから頂上を目指そうという人たちは元気一杯です。最近特に目立つのはツアー会社主催の登山で、数十人の団体で登りますので、頂上付近の渋滞の大きな原因になっています。

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 2014.07.23 14:08) 下山の最大の楽しみはなんといってもソフトクリームです。

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 2012.07.24 10:23) 富士スバルラインの五合目は、一大観光スポットです。ここから間近に仰ぎ見える富士山や下に見える雲海などを楽しむことができます。

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 2012.0724 10:28) 夏のシーズンになりマイカー規制がない日は富士スバルラインの五合目の駐車場は満杯となります。この駐車場確保が大変です。ここが満杯ですと、駐車場の手前1kmや2kmあるいは4km手前の臨時駐車場に駐めることになり、そこから歩き始めるということになります。

 

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 2014.07.23 14:37) 五合目には、観光客や登山客を満載して大型観光バスも大挙してやってきます。観光バスやタクシーなどはマイカー規制の対象になっています。

富士山が2013.6.26にユネスコ世界遺産に登録されてから2年が経過して、ユネスコから入山規制やゴミ、トイレなどについての改善勧告がなされました。ゴミ問題は麓の不法投棄を別にすれば登山道についてはボランティア団体の努力によって問題はないと思います。またトイレについてもバイオトイレなどが普及してこれも問題はないと思います。ただ、最も登山者が多い山梨県側の吉田口の山開きは7/1からで、静岡県側は7/10からとなっていて、山頂の公衆トイレは静岡県管轄ですので7/10からしか使えないという変なことになっているのは何とかならないものかと思います。役所仕事・縄張りの典型です。

入山規制は必要だと思いますし、そのためには先ずツアーの人数制限、例えば一グループ20人を上限とするとかすればいいと思います。であれば大型観光バスではなくて電動マイクロバスでもいいと思いますし、また五合目までの観光客も電動マイクロシャトルバスに乗り換えてもらえばいいと思います。入山料1,000円が徴収されていて任意となっていますが、2,000円くらいにして強制にしてもいいと思います。但し、ファミリー登山にとっては負担が大きくなりますので、子どもは無料にするとか。まあいろいろ考えられますが、今年はどうなるか様子見です。

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2015年7月 5日 (日)

富士登山 断念

7/1(水)に例年のように富士山は山開きしましたが大荒れでした。毎年、山開きの後の晴れ間を縫って富士登山を続けてきたのですが、今年は梅雨前線が居座って一向に天候は回復せず、残念ながら富士登山を断念しました。富士山が世界遺産に登録されてから、それ故の問題や従来からの問題は解決されないままで放置されていますので、今まで富士登山を振り返ってみました。

 

先ず、下のお天気マークは富士山頂の天気予報です。これは専門家と契約(有料)して、富士山やよく登る丹沢山などの山頂の気象状況を送ってもらっています。

時系列天気(富士山山頂)

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5日:日本の南の前線が北上し活発化する見込み。この影響で、次第に雨が降りやすい天気に。上部では降り始めは雪が混じる可能性も。静岡県側を中心に南西風が強まり、荒れ模様になる恐れ。最新の気象情報に注意。 担当予報士:小林

 

以上のように、7/1の山開き以降とても登れる状況ではないのです。

 

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2009.07.03 07:50) 頂上直下の雪

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 2012.07.09 06:53) 八合目の雪。ここ数年のうち、雪のために7/1の山開きが危惧されて山小屋人たちなどの関係者が一生懸命雪かきをしたことが何回かありましたが、これほど雨にたたられているということは記憶にないくらいです。今年の梅雨は長引くという予報も出たばかりです。

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 2014.07.02 21:06) 富士登山でよく問題にされるのが夜間に登って一泊しない「弾丸登山」ですが、私のスタイルはほとんど夜間に登り、一泊しませんので「弾丸登山」ということになります。昨年遠方(山口県と広島県)の友が初登頂するサポートしたときのものです。お二人は7/2に自宅を出発し、お昼頃私の自宅に着きました。昼食方々初登頂の前祝いで乾杯(夕方までにはアルコールが抜けるくらいの適量)し、そのまま夕方まで睡眠をとりました。夕方自宅を車で出発し、日が暮れる頃富士スバルライン五合目に到着し、高度順応のためにできるだけゆっくりと夕食の弁当を食べ、身支度をして、21:06に当山開始となりました。

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 2009.8.27 21:53) この画像はだいぶ前のものですが、夜間登山でも外人の数は多く見かけ、その数は年々増えているようです。このとき登った吉田コースには山小屋がたくさんありますので、いざというときには駆け込み寺的に宿泊や休憩をとることができます。ただ、山小屋宿泊は見知らぬ男女が頭と足を交互に向きを変えて寝るというすし詰め状態ですのであまり泊まりたくはないのです。かえって疲労してしまうこともあります。

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 2014.07.03 03.42) 広島から来たMさんにとって初めて、標高3,000mを超えた元祖室という山小屋に着きました。登山開始から6時間かかっていますので随分ゆっくりとしたペースですが、このゆったりペースが高山病の予防には最も大事なことです。深呼吸と水分補給を怠らずという注意を守ることも高山病予防には大事なことです。この夜間登山のメリットは、直射日光を避けることができるということで、むしろ寒いくらいです。一方、デメリットはどんな道を登っているかがわからないことで、見えるのは自分のヘッドランプの範囲だけです。

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 2013.07.09 04:41) 富士登山の醍醐味は、もちろん日本一高い場所に立つということですが、ご来光を拝むということも楽しみの一つです。富士山の登山ルートは吉田ルート、富士宮ルート、須走ルート、御殿場ルートの4ルートあり、私は御殿場ルート以外の3つのルートを登りました。このうち最も多く登る吉田ルート(富士スバルラインルート)のいいところは、このご来光を五合目から上のどこからでも拝むことができることです。よく話題になる山頂直下の大行列は、多くの人がご来光を山頂から拝みたいという願望によるものです。しかし歴史をひもとくとかつて信仰登山の色が濃かった時代にはご来光は山頂から見下ろすものではなく、下から仰ぐものだったそうです。山頂からご来光というのは観光登山になってからだそうです。暗い夜間の登山道を喘ぎながら登っていくと次第に辺りが明るくなり、東の空に明るくなりご来光が姿を現す瞬間は何ともいえません。このルートであれば、ご来光の時間を気にしないでマイペースで登ってもどこでも新しい一日が始まる瞬間を目にすることができることです。

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 2011.08.24 05:55 七合目の岩場) 夜間登山では登山道を見ることができませんが、夜が明ければヘッドランプも必要がなくなります。五合目から六合目にかけては砂礫の道ですが、七合目からは岩場の道となります。もし夜明け前にこの岩場を登るとするとヘッドランプだけが頼りですので十分注意が必要です。

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 2014.07.23 10:05 八合目の岩場) 昨年初挑戦したお二人と登ったときはこの岩場も夜間登山でしたが、ヘッドランプに導かれてゆっくり登りましたのでまったく問題ありませんでした。むしろ陽が高くなりつつあると直射日光でスタミナを奪われますのでその方が大敵です。

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 2014.07.03 06:46 九合目に向かう砂礫の道) 岩場を登り切ると砂礫の道となります。標高は3,500mくらいですのでかなり空気は薄く、呼吸も苦しくなり、かなり辛い道です。誰もがゆっくりゆっくりと一歩ずつ足を上げて歩きます。すっかり夜が明けて見晴らしがよくなるのはいいのですが、上を見ると目指す山頂はまだまだ上で、かえって気持ちがめげてしまうこともあります。なるべく上を見ないように歩いている人もいます。

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 2014.07.03 06:26) そしてようやく九合目です。ここの標高は3,600mですが、距離は400mで平坦な道であればどうということもないのですが、息苦しさは増しますし、疲れはピークとなりところですので、なかなか厳しいのです。しかし一方では、もうひと頑張りという気持ちにもなれるのです。

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 2011.08.24 11:15) 頂上まで10m手前の白い鳥居までくればもう頂上です。急に元気が出たりもします。カミさんとカミさんの友達は普段はよくあちこちウオーキングしている仲良しです。友達の方はこれが初めての富士山で、山登りはほとんどしていない人ですが、ゆっくり登ればこうして頂上に立つことができます。もっとも下山で足を痛めてしまい大変辛い経験をしてしまいました。

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 2012.07.09 06:00) ご来光を頂上でという人たちの混雑ぶりはマスコミでもよく取り上げられますが、3年前にその渋滞にぶつかってしまいました。この年は大雪で下山道の除雪が間に合わなくて登山道しか使えず、登る人と下山する人が交錯して大変な思いをしました。この時の体験から、時間差登頂のための夜間登山を心がけるようにしました。

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 2014.07.03 07:35) 登り初めてから10時間半で登頂しました。随分かかりましたが元気で登頂できればそれでいいのです。前日山口県・岩国市を出発し、その日の夜から登り始めて翌朝登頂ということで、夜間登山の弾丸登山でしたが元気でした。初登頂の日が誕生日とあって二重の喜びでした。もうお一人の広島からのMさんはちょっとしたトラブルで、このツーショットには間に合いませんでした。いずれにしてもお二人とも初登頂できてよかった。

 

昨年は遠方からの友をサポートして初登頂できました。今まで何人かの初挑戦をサポートしてきましたが全員登頂に成功しています。そして全てが弾丸登山でした。マスコミなどで言われている弾丸登山は、夕方仕事を終えて五合目に直行し、休憩をとらずに徹夜で登山するということで、確かにそれはかなりしんどいだろうなとは思います。私の弾丸登山はむしろ夜間登山・納涼登山です。登山前に十分な休憩をとり、直射日光を避けて夕涼みがてらの登山です。そしてご来光は頂上でということにこだわらなければ山頂付近での渋滞(ペースが乱れます)も避けられます。もう一つ山小屋には宿泊しないことにしています。急の雷雨や体調の悪化などの緊急時以外は宿泊したくないのです。山小屋ですので雑魚寝はやむを得ないのですが、限度を超えていて、少しも休憩にはならずかえってストレスが溜まります。それくらいなら休み休み、たっぷりと休養をとりながら夜間登山してしまった方が楽だというのがここ数年間登り続けて得た結論です。ゆったりと登るため、山頂付近の渋滞や飽和状態の山小屋宿泊を解決するためには入山規制や適正な入山料徴収も必要かなと思います。

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