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2015年12月31日 (木)

往く年来る年 11月 ペルー 十景

11月は18日から26日までの9日間、南米ペルーに出かけました。まだ記憶が新しいところですが、印象的な10の景色やモノをピックアップしました。

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 11/20 リマ市内「ラルコ博物館」を訪れました。ここにはプレ・インカ時代の遺跡物が展示されていました。プレ・インカとはインカ帝国以前のアンデス文明の一つで、アンデス山脈の海抜3,700mの高地に広がる1600年前の石造遺跡群で、第2のマチュピチュかともいわれているそうです。特に印象的だったのが、世界で唯一完全な状態で揃っているチムー文化の黄金の装身具でした。ゴールドの国、ゴールド故にスペインに侵略されてしまったアンデスのシンボルにも見えました。

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 「ラルコ博物館」でもう一つ印象的だったのが “キープ” でした。ところどころ結び目がついている “キープ” といわれる細い紐は、結び目が数を表しているとか、十進法を用いているとか、単なる記号以上の複雑な体系をもっていて言語情報を含んでいるとかが明らかになってきています。これはインカ帝国で使われていたとか。反面、高度な文明を持っていたのに文字を持たなかったというのも不思議です。

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 11/21 今回のツアーの目玉の一つ、ナスカの地上絵を見に行きました。曲芸飛行の地上絵遊覧で、上空からどの程度見えるのか期待と不安でしたが、想像以上にハッキリと見えました。これは宇宙人、有名なハチドリは96mもの大きさだそうです。実際に地上絵を目にして、謎は深まるばかりでした。あんな場所に、誰が、何のために(雨乞いの儀式という説もありますが)画いたのか。長さが数十メートルという絵の大きさは空から見ればわかることですが、地上で描く時にはとても難しいように思われますし、ハチドリや猿、宇宙人などと名前がついていますが、画いた人はそういう物を意識できていたのか、意図してそういう絵を描いたのか、謎は深まるばかりでした。

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 11/22 高山都市クスコを観光しました。驚いたのが、標高3,400mといえば富士山よりは低いのですが、北岳、奥穂高岳、槍ヶ岳などのよりは高く、日本では森林限界といわれる世界で樹木はないはずなのですが、緑の芝生や樹木が目にも鮮やかでした。しかもここに集っている人たちの服装や身のこなしが実に洗練されていることで、とても豊かそうに見えたことでした。クスコはインカ帝国時代の中心都市であり、スペインの影響が色濃く残されたようです。

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 唯一、アンデスの先住民の雰囲気をもっていたのはクチュ族の娘さん達でした。観光客相手に、子羊を抱いて写真を撮らせたり手芸品を売ったりと、それが彼女たちの生活でした。今回は首都のリマやクスコの2カ所しか訪れませんでしたので、チチカカ湖やさらに高地、あるいはアンデスの山奥に行けばまた違った景色や姿を見ることができたと思います。

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 伝統芸能というのでしょうか、 “フォルクローレ” の演奏は独特の哀調を帯びた音色とメロディーで、伝わってくるものがあり聴き応えがありました。これも彼らの生活の糧でした。

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 クスコでの最後の観光地、サントドミンゴ教会も印象的でした。ここはもともとはインカ帝国時代に太陽神殿であったところですが、スペインがその太陽神殿の上に建てた教会です。インカ帝国はクスコを中心に1430年代頃からつくられ1533年にスペイン人によって滅ぼされるまで100年という短命で終わりました。神殿の大きな部屋に入ると、インカの世界観を表す金の板がありました。インカ帝国にはこのような黄金がたくさんありましたが、スペイン人によってことごとく持ち去られたとか。

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 11/23 最大のハイライト 神秘の空中都市 といわれるマチュピチュを訪れました。マチュピチュはまるで石の要塞のようでした。岩でできた山そのものを切り崩し、その石を積み上げて神殿や住居が作られました。この 太陽の神殿 は、大きな石はそのままに、細かい部分はカミソリ一枚も入らないくらいぴったりと組み合わされています。多くの石工が集まられたとのこと。この太陽の神殿には、太陽を観測するためといわれている、夏至と冬至が正確にわかる窓が空けられています。

 

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 もう一つ、マチュピチュは段々畑の都市でもありました。3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっています。この段々畑ではインカ農法が行われていて、大変な収穫量を誇ったそうです。とても雨が多いところですので、土砂が流出しないような工夫が施されていたそうです。

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 TVや写真でよく見た標高2,400mの景色そのまま。マチュピチュは先住民族(ケチュア族)の言葉で “古い峰” というそうです。足下に遺跡が広がり、遺跡の向こうに聳える尖った山が “若い峰” で、標高2,720mです。遠くから見ると小さく見えるマチュピチュ遺跡は想像以上にスケールが大きく、またアップダウンの標高差もかなりありました。アンデス文明は文字を持っていませんでしたので、この遺跡が何のために造られたのか謎です。この都市を作った人たちはどこから来てどこへ消えてしまったのかも謎です。

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 印象的だった10枚の写真でしたが、現地ガイドさんも印象的でした。リマ市内でお世話になったミゲルさんは、ペルーの財宝は8割がスペインに持って行かれた、今でも返還を求める運動はあると何回も言っていました。

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 クスコやマチュピチュを案内してくれた現地ガイドのマルセロさんに “ペルー人はスペインのことをどう思っているの?” とちょっと意地悪な質問をしました。答えは、現在は多くの人はペルーの血とスペインの血が混ざっているので、何ともいえないとのことで、マルセロさんのお祖父さんはスペイン人とのこと。逆に “歴史の問題は日本にもいろいろあるでしょう” と言われてしまいました。

 

こうしてこの一年間の旅のアルバムを整理してみると、また見えてくるものがあり、考えさせられたりもします。旅は、目的があろうとなかろうと、その目的が何であれ、気持ちを豊かにしてくれます。もうすぐそこまできている新しい年、また旅をしたいと思っています。

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2015年12月30日 (水)

往く年来る年 10月 琵琶湖ウオーク後半

琵琶湖ウオークの前半は長浜まで歩きました。10/25 琵琶湖ウオークの後半をスタートしました。

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予定では、10/25(日)に彦根市に寄り道して10/29(木)まで歩こうと思いました。彦根市に宿泊するのは、石田三成の居城・佐和山城跡をどうしても訪ねてみたく思ったからで、実際に歩き始めるのは高月の隣の町木之本からで、その先管浦地区、今津地区、琵琶湖大橋の近くへと歩く予定で、どんな風景が見られるか楽しみでした。

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 10/25 米原駅前の北国街道の街並みを散策した後、彦根に向かいました。彦根でとても気になっていた佐和山城跡に上りました。新幹線やJR東海道線から「佐和山城跡」という大きな看板が出ていましたので、その正体を突き詰めるような気持ちでした。本丸まで上ると、眼下には彦根城とその先に琵琶湖、琵琶湖に浮かんだ竹生島が小さく見えました。城主石田三成が見た景色です。

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 佐和山城跡に上った後、気になっていた大洞弁財天に寄り道をしました。 緩やかな竹林の道を上っていくととても雰囲気のある “経蔵” があり、特別公開中となっていました。何回も通ったネパールやチベットで見た大小たくさんの「マニ車」に比べて、この経蔵の納経箱の立派さや装飾の見事さは傑出しています。こんな所にこんな素晴らしいものがあったとは驚きでした。

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 高月町に移動し、前回訪れた向源寺と前回見ることができなかった「観音の里資料館」に向かいました。湖北といわれるこの地域には驚くほどたくさんの仏像、特に十一面観音が保存されています。 十一面観音とは、その名の通り頭上に11面の観音が乗っています。この11という数は、衆生の十一品類の無明煩悩の数で、その煩悩を断ち功徳をもたらすというものです。

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 10/26 寄り道をした後、木之本宿から歩き始め、古戦場賤ヶ岳山頂を目指しました。登山道を上るのは大変そうでしたのでリフトに乗りました。山頂からは今年行った北欧のフィヨルドのような光景が広がっていましたが、この湖岸を歩くかと思うとちょっと緊張してしまいました。

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 賤ヶ岳古戦場から湖畔に出るまでの道が地図でははっきりわからず、、峠があったり旧道のトンネルがあったり、難所を覚悟していたのですが、それほどの苦労をすることもなく湖岸の道に出ました。

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 途中、地蔵菩薩が湖を背にして一人の幼児を抱いて、二人の幼児に足にまとわりつかれながら立っていました。他にも、道端で座っているお地蔵様とか、随分たくさんの地蔵菩薩を目にしました。 “祈りの道” といわれる所以で、巡礼をしている気分になりました。

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 かなり長かった湖岸の道を抜けて、塩津街道に入りました。近江(滋賀県)と越前(福井県)を結ぶ街道で古くから使われてきたのが琵琶湖最北の湊塩津と日本海の敦賀湊を結ぶこの塩津街道でした。古い家並みが続く街道はゆったりとした気分になれますのでさらに楽しく歩くことができました。

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 今回のウオークで最も興味深かった「管浦集落」に着きました。 菅浦の地には、奈良時代恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で道鏡や孝謙上皇に負け、廃位になった淳仁(じゅんにん)天皇が住んでいたという伝説が残っています。中世以来の強固な共同体によって維持されてきた歴史的景観が残されています。集落の入口まで来て、先ず目についたのが “これより先は、生活区域に付き、駐車はご遠慮下さい” という立て札でした。

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 集落の入口二ヶ所には「四足門」があります。別名「要害の門」ともいわれ、結界(地区の内外を区別する境界)ともいわれていて、門の中は独自の法体制がひかれていたということで、ある意味大和朝廷から独立した国家でもあったわけです。かつて村人はこの「四足門」で村に入ってくる外来者の監視にあたったともいわれています。

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 この日(10/26)は、「管浦集落」の近くの「つづらお荘」に宿泊しました。秘境といわれるこの周辺2030kmには宿泊施設がありませんので、琵琶湖ウオークやサイクリングの人はほとんどここに宿泊するようでした。部屋からは、日が暮れつつある琵琶湖に浮かんでいる竹生島が見えました。

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 10/27 この日の予定は近江今津まで歩くつもりでしたが、途中「腹帯観音堂」で腹帯をした十一面観音を拝観させていただけるということになり、「つづらお荘」の送迎車でそこまで送ってもらうことになりました。お堂の中に入って、しばらく堂守の方にお話をお聞きしました。お腹に腹帯を着けた珍しい十一面観音で、子宝・安産祈願のご利益があるそうで、この腹帯は、皇后・美智子様、皇太子妃・雅子様ご懐妊の際にも献納されたそうです。

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 歩いていて最も苦手なのがトンネルです。海津大崎という場所の手前で次から次に現れるトンネルにいささかウンザリしました。地図ではわかりませんでしたし、全く情報がありませんでしたので、このトンネル道がどこまで続くのか不安になりました。

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 いくつかのトンネルをくぐった先に、 “これから先140mは浜辺を歩いて下さい。滋賀県” という標識にホッとしました。なるほど、トンネルを通らずにすむ道が湖岸にありました。

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 あまり車も通らない湖岸の道は快適に歩くことができました。5km間隔で見かけた「琵琶湖サイクルライン」の標識によると瀬田唐橋からの距離は113kmでした。この標識を頼りに歩く速度や所要時間を計算したりしていたのですが、まったく見かけなかった場所もありました。

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 野猿が二匹、水中に手を突っ込んで何かをしていました。何をしているのか、これもいい退屈しのぎになりました。

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 10/28 前日は、近江今津で “サンブリッジホテル” という思いもかけない豪華ホテルに宿泊し、優雅な一時を過ごし、すっかり疲れがとれ、この日の最終目的地琵琶湖大橋を目指しました。4時に起床して早朝出発し、湖岸の道を歩き始めました。小さな祠の後ろでは朝陽が顔を出し、湖面が輝いていました。厳かな雰囲気でした。

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 歩いて行く先の右手には琵琶湖を背にして市街地に向かって真っ直ぐの並木道が延びていました。遮るものが何もない平らな田畑を吹き抜ける風は強くなり、道端のススキのような草が風に靡いていました。まだ追い風だからいいのですが。

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 かなりハイピッチで歩き続け、前方には比叡山に連なる山が見えてきましたが、追い風だった風向きが向かい風になり始め、まともに向かい合うかたちとなり苦しいテクテクとなりました。

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 11:04 強風と戦いながら、高島市高島町に入りました。高島市の面積は、長浜市に次ぐ県下第二ですが、湖を含めた場合は県下一です。 “琵琶湖源流の里” ともいわれています。百貨店高島屋の名前の由来(創業者が高島出身)となっているそうで知りませんでした。古い街並みが大切に保存されていてとても趣のある道でした。

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 13:08 高島町を過ぎて途中昼食をとりながら琵琶湖大橋に近づくにつれ、国道歩きとなりました。バイパスに沿った道は最悪で、さらに強い向かい風と霧雨にも祟られ、今回のウオーキングで最も辛い時間でした。

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 14:06 国道から離れて近江舞子に近づいたあたり、 “白砂青松の景勝地” という地図に記載されて通りの景色が見られました。琵琶湖の美しい景色のうち、最後の景色となりました。

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 最後の宿泊先は、琵琶湖大橋近くの国民宿舎 “ビューロッジ琵琶” でした。夜、窓を開けると満月に近い月が湖面に光を映していました。見ようと思っていた琵琶湖の月でした。

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 10/29 琵琶湖大橋の袂から雄琴温泉を通過して比叡山に上がりました。比叡山延暦寺は30年くらい前に訪れて以来2回目です。根本中堂の中から、若いお坊さん達がゾロゾロと出てきました。出家に憧れた時期があり、今でも時々考えることがありますので、この若い僧達のことがとても興味がありました。

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 比叡山からは琵琶湖大橋がハッキリ見え、大橋の先には歩き始めて2日目に宿泊した “ラフォーレ琵琶湖” の白い建物が見えました。湖の向こうは霞んで見えませんでしたが、このでかい湖の周りをよくもまあ飽きずに歩いたものです。

 

 琵琶湖一周240kmと聞いていたのですが、 “びわ湖サイクルライン” では193mとなっていました。まあどちらでもいいのですが、910日のウオークでした。びわ湖サイクルラインのようにできるだけ湖岸に沿っての道を歩けばそういう距離だと思いますが、実際にはあちこちで寄り道をしました。長命山の808の石段や安土城址の405の石段、佐和山城跡にも登り、近江八幡市や長浜市の町歩きをしたり随分寄り道をしました。

 

琵琶湖は滋賀県の面積の1/6を占めていて、また琵琶湖を取り囲む東西南北の地域はそれぞれ歴史・文化と特色を持っていて、地域の特徴を一口では言い表せません。一周200kmと、東海道や中山道などに比べると距離は短いのですが、とても密度が濃かったテクテクのように思います。

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2015年12月29日 (火)

往く年来る年 10月 立山合宿

10/6(火)~10/9(金)の4日間の立山合宿が始まりました。2010年から続いている恒例行事で今年で6回目になりました。合宿と名付けているのは、自分の中では半分はトレーニングをしたいという気持ちがあり、自分に言い聞かせるためのものです。

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 10/6 この駅舎は、関西電力が経営する関電トロリーバスの扇沢駅です。駐車場に車を置いてこの駅舎目指して歩く時、いつもながらちょっとした上りで息苦しくなりました。空を見上げて紅葉と天気の具合を見るのもいつものこと。紅葉はゼロ、しかし青空が広がっていました。

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 臨時のトロリーバスが出ましたので、予定より30分早く9時に室堂に着きました。観光客は未だ少なく、空気はヒンヤリとしていました。前方に立山(雄山3003m)が朝の光を浴びていました。予定では、次の日にあの山に登り稜線歩きの縦走をしてみたく、天気がこのまま続いてくれればいいのですが。

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 みくりが池と地獄谷に挟まれた位置に「みくりが池温泉」はあります。この建物の裏側が地獄谷で、「みくりが池温泉」の名物となっている温泉は地獄谷から直接引かれています。居心地がよく、6年間通っていますので常宿となっています。

 

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 「みくりが池温泉」に大きなリュック預けて身軽になって、足慣らしを兼ねて浄土山(2,831m)登山をすることにしました。手軽な山ではあるのですが、急傾斜の岩場が続く山ですので下山者や登山者の姿を見るとホッとします。

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 10/7 立山縦走にチャレンジしました。 08:12 いよいよ立山(雄山)登山を開始しました。上空は青空でしたが、日本海側からはかなり強い風が吹いていて、白と赤の吹き流しが水平に流れていました。

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 頂上近くまで1時間半かかりました。ちょっと目が腫れぼったく、昨晩寝過ぎたか高山病の症状が出たかもしれません。

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 09:32 立山(雄山)の山頂(3,003m)です。

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  09:56 山頂で参拝をすませて縦走路へと向かうと早速の下りと登りが始まり、立山連峰で最も高い大汝山(3,015m)が立ちはだかりました。

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 10:46 縦走路はアップダウンの繰り返しです。富士ノ折立からは一挙の下りとなりました。この下りも怖いところで、先行していた何人かが慎重に下っていました。

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 12:08 下ったと思うと目に前にまた急斜面が立ちはだかりました。途中でハーハーいいながら身体を折り曲げている人もいて、かなり休み休み登らなければならないくらいキツいところでした。

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 12:25 目の前に剱岳が姿を現しました。辛い思いをしてここまで登ってきたのはこの勇姿を見るためで、一瞬疲れを忘れました。日本海側の斜面にはだいぶ霧が発生していました。

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 12:58 ようやく剱岳登山の前線基地、剱御前小屋の屋根が見えてきて、後は下るだけでホッと一息つきました。

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 13:32 剱御前小屋前で小休止して雷鳥坂を下り始めました。この雷鳥坂は室堂平から見ると屏風のように見え、直登に近い登り道で、下る時も結構大変なのです。コースタイムは登り1時間50分、下り1時間10分の登山道です。

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 15:00 雷鳥平から雷鳥荘までの登りは、疲れ切った身体や足にはこたえました。立山縦走をしてきた人は誰もがここで苦しい登りを強いられ、それでも一歩一歩前進していきました。振り返って下を見れば、ここまでかなり登ってきたことがわかりました。陽は徐々に傾きつつあり、自分の影が登ってきた石段に長く映っていました。

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 15:54 地獄谷の刺激臭を避けるためにタオルをマスク代わりにして「みくりが池温泉」に生還しました。剱御前小屋を1時15分に下り始めて3時間近くもかかりました。朝06:45に出発して9時間の縦走で、完全な失速状態となりました。疲れすぎて夕食もノドを通りませんでした。

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 10/8 立山合宿も3日目、前日に立山連峰を縦走した結果、この日は疲れがたまっていましたので、無理のないコースを選びました。天狗平へと向かい、剱岳を見に行くことにしました。

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 だらだらとした下りをノンビリと歩いて行くと、なんと剱岳が姿を現しました。剱岳の全貌と前剱まで間近に見ることができ、こんなビューポイントがあるとは驚きました。

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 だらだらとした下りをノンビリと歩いて行くと、なんと剱岳が姿を現しました。剱岳の全貌と前剱まで間近に見ることができ、こんなビューポイントがあるとは驚きました。

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 朝食バイキングもメニューの種類が多く好評ですが、夕食のメニューも山小屋とは思えないほど充実していて、三連泊でも毎日メニューは変わります。富山からのアクセスがよく、富山湾の海の幸や豊富な食材が調達できるという地の利があります。

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 日本酒も富山の地酒が揃っていますし、赤白のワインも。ボトルでキープしておくこともできますので、日本酒と白ワインを1本ずつキープしておくと4日間でちょうどいいのです。

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 テラスや部屋からも、富山湾に沈むこんな夕陽を見ることもできます。

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 10/9 帰路につきました。黒部平から見上げた立山連峰。楽しく苦しかった、でも楽しかったのでした。

 

4日間、実質3日間の室堂歩きは、1日目は浄土山登山、2日目は立山縦走、3日目は天狗平往復ハイキングと歩き回る事ができました。標高が2,450mと富士山五合目に近い高所で、どこを歩いてもアップダウンのあるコースはトレーニングにはもってこいでした。この標高2,450mはそれ程苦しくはなく、しかし油断をすると高山病の症状も現れるという微妙な高さで、そういう点では室堂はその標高とコースの多様性からトレーニング適地です。しかし、辛いだけではやっていられません。素晴らしい自然と天国のような「みくりが池温泉」があるからこそ多少苦しくてもと思えるのです。体力の続く限りと思っているのですが、来年はどうなることやら。

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2015年12月28日 (月)

往く年来る年 9月 琵琶湖ウオーク・前半

9/7 琵琶湖ウオークへと出発しました。琵琶湖は滋賀県の1/6の面積を占め、一周すると240kmだそうです。何回かにかけて歩いてみたいと思いました。どのくらいかかるのか見当もつきませんでしたが、それも一興でした。

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 9/7 スタートは、今まで訪ねたことのない三井寺に参拝し「琵琶湖疏水」を見てから歩き始めました。琵琶湖には大小460本もの川が注ぎ込んでいて、その水はここで取水されて京都鴨川の送られています。

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 9/8 瀬田の唐橋の近くに宿泊し、早朝琵琶湖畔を歩き始めました。この橋は今でも琵琶湖の象徴となっている橋で京都防衛上の要衝とされ、壬申の乱(671年)では大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となりました。

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 9/14 草津駅から歩き始めて湖岸の道「さざなみ街道」に出て、琵琶湖大橋を目指しました。時々現れる「さざなみ街道」の表示板に距離が書いてあるのですが、前に見たものは “草津市 新浜町 25.5km” とありましたので、歩くほどにカウントダウンされているということがわかりました。

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 琵琶湖大橋がかなり近くに見えるようになってきました。この日の宿泊は琵琶湖大橋の先でした。

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 15:05 この日の最終目的地に到着しました。草津駅から4時間半、およそ20km近くの行程でした。好天に恵まれ、まあまあのペースのウオーキングでした。

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 琵琶湖の湖岸をぐるっと歩くべきなのかもしれませんが、折角ですのでできるだけ寄り道をして楽しもうと思いました。長命寺山も寄り道の一つで、本堂まで808段の石段があると聞いていましたのでちょっとした闘争本能に火がつきました。なかなかこういう機会はなく挑戦してみました。

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 9/15 近江八幡市も魅力的な町でしたので寄り道しました。古い街並みや水路、モダンな建築群、酒も魚も美味しかった小さな居酒屋、是非再訪したい町でした。

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 安土城址も見過ごすことはできませんでした。1579年に信長の命によって建築された安土城は、日本で最初に天守閣を備えた城で、その高さは46mでした。しかし1582年の本能寺の変後半月たらずで炎上し、 “幻の名城” といわれています。

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  安土城址への上り口には “頂上天守閣迄 登り石段四百五段あります” という表示がありました。天守閣址から眺めた景色。琵琶湖が目の前にあり、琵琶湖一周ウオークの湖岸の道「さざなみ街道」を眺めながら、随分寄り道をしているんだなあと反省したり、いつゴールできるんだろうかと思ったりもしました。

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 9/16 この日は、近江八幡市から彦根市へ向かいました。“サイクルライン” という道路標識があり、 “瀬田唐橋から左回りで53km” となっていました。私のように寄り道をしないで湖岸の道をひたすら歩くあるいは自転車で走ると53kmです。

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 彦根市に入り彦根城を見物しました。彦根城は、井伊氏の拠点として江戸時代の初期に築かれたもので、多くの大老を輩出しました。城内を一回りしてから、もう一つ行ってみたかった「埋木舎」へと向かいました。彦根城を出てお濠に沿って歩きました。目には見えないほどの霧雨が降っていて、雨のお濠もいいものでした。

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 9/17 前日は彦根市に宿泊し、小雨の中を早朝出発して長浜市の港から10:15発の竹生島行き定期船に乗りました。大体30分くらいで竹生島に着きました。

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 竹生島弁才天の本尊は、江ノ島・宮島と並ぶ江ノ島・宮島と並ぶ日本三弁財天の一つもいう説もあります。ここの本尊は、聖武天皇の勅命を受けて724年に行基が開眼したそうですので、古い歴史をもっています。竹生島は初上陸でした。

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 今回、どうしても会いたかったのが長浜市から少し先の高月町にいる向源寺の十一面観音でした。高月町は “観音の里” であり、高月駅には仏像のポスターや幟があり、十一面観音がいる向源寺までの道は 観音の道” となっていました。数十年ぶりの再会を果たしました。

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 9/17 午前中に竹生島に上陸し、午後は市内を散策した後「黒壁スクエア」あたりをブラリブラリと歩きました。この黒壁スクエアを歩くのも2回目となりました。

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 長浜の町は秀吉がつくったといわれていて、昔ながらの街並みが保存されていてとても風情のある町です。曳山祭や子供歌舞伎が行われています。

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 9/7に琵琶湖疏水をスタートして、途中一時帰宅したり寄り道をしながら9/17長浜市に着き、前半戦は終了しました。

 

琵琶湖周辺にはとても魅力的な町がありあっちこっち寄り道しましたので、琵琶湖ウオークというよりも周遊という状態になってしまいました。15時間前後、距離では20km前後歩き、観光に23時間、居酒屋で12時間で一日が終わりました。5日間で100kmくらい歩いたのではないかと思います。宿泊した近江八幡市、彦根市、長浜市でそれぞれ美味しい居酒屋に出会ったのが何よりの収穫でした。

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2015年12月27日 (日)

往く年来る年 8月 ちょっと台湾

8/4(火)~8/6(木)の3日間、台湾(中華民国)に出かけました。日中の間で複雑な歴史をもち、比較的親日的であり、そんな国に行ってみようということでした。旅物語「てんこもり台湾北部3日間」という激安ツアーにのり、カミさんは訳のわからないような顔をしてついてきました。

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 14:15発のフライトに合わせて搭乗口へ向かうと、ハローキティが表示されていて、そういえばエバー航空は飛行機会社としては初めてサンリオと提携したということを思い出しました。

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 あちこちキティちゃんがいて、ハローキティ一色でした。機内食についてきたフォークやスプーンはカミさんが孫娘にあげるんだといって食後ゲットしていました。

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 成田をお昼過ぎに出発して4時間のフライトで16:50(現地時間 時差-1時間)台北市に着きました。台北市の中心部の光景はまるで銀座4丁目の交差点のようでもありました。

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 台北市の繁華街のレストランで夕食となりました。何はともあれビールで、麒麟やアサヒもありましたが台湾の国民的ブランド “台湾ビール” をオーダーしました。値段は麒麟やアサヒは180元(元=新台湾ドル)で日本円で720円、台湾ビールは150元(日本円で600円)で、5月に出かけた北欧に比べると半値という印象でしたので、安心してこの台湾ビールを飲み続けました。味はさっぱりしていて、ノドの渇きを癒やすにはよかったです。

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 宿泊したのは台湾で最も有名な温泉地の「北投温泉」というところでした。この温泉地には、日本の温泉地と同様大小さまざまのホテルや旅館が建ち並んでいました。宿泊した部屋にはなんと24時間源泉掛け流しの個室風呂付きでした。ロビーに降りると日本の「道後温泉」と提携しているという展示がありました。また別の場所では日本のある温泉の泉質と同じという表示もあって、日本と関わりをもつことが一種のステイタスであるかのようでした。

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 最初の観光は故宮博物院、今から90年前1925に清朝が紫禁城に持っていたものを一般公開したのが始まりでした。当寺の所蔵品の数は117万件あり、1930年代には国民政府の蒋介石は進駐してきた日本軍から所蔵品を守るために転々と所蔵場所を変えました。第二次世界大戦後、国共内戦(簡単にいえば今の台湾と中国の内戦)が激しくなると中華民国政府(台湾)は約3割の所蔵品を精選して台北に運び、それによって誕生したのが台北市の国立故宮博物院なのです。

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 (館内は撮影禁止でしたのでインターネットから転載) 最も知られている所蔵品は「翠玉白菜」といわれる彫刻物で虫がとまった白菜と「肉形石」といわれる豚の角煮です。実際には小さなこの “ヒスイの白菜” は門外不出といわれていたのですが、昨年日本にも来ました。中国政府からも要請があるそうですが、きっと戻ってこないだろうということで台湾政府は拒否しているそうです。カミさんが台湾で最も見たいといっていた物です。

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 ちょうど衛兵の交代式が行われていました。先に観た故宮博物院でこの国の歴史をしみじみと考えさせられましたので、最近は観光化されている衛兵の交代式も、ここではとても切実なものに思えました。

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 十份老街へ出かける途中に昼食の時間になりました。台湾でまあまあのブランド力をもっている「金品茶楼」のレストランで小籠包をいただきました。できたてホヤホヤの小籠包は口に含めばジューシーな旨味汁が広がって美味しかったです。

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 台北市内から1時間半くらいで着いたのが「十份老街」という観光地でした。この街は、街のメインストリートのど真ん中を鉄道が通っていることで有名です。なるほど、レールの上に観光客が溢れかえっていました。ここ十份老街の名物は「天燈上げ」という儀式です。4人一組になってビニールと紙を合成したようなものの四面に願い事を書きました。なんとなく子供だましのような気がして躊躇したりしていたのですが、筆を持つと結構真剣になって願い事をたくさん書いてしまいました。

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 ビニール・紙状風船の内部に灯油をしみこませた固形燃料のようなものがセットされ、点火されるとあっという間にミニミニバルーンは上空へと舞い上がりました。ガイドさんによると、燃え尽きたバルーンの回収を仕事としている人たちがいるから大丈夫とのことでした。

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 十份老街散策の後、台鉄平渓線の満員電車に揺られて、専用バスに乗り換えて次の観光地「九份」(きゅうぶんともきゅうふんとも)に向かいました。高台の見晴らしのいいところに出ると初めて海を見ることができました。天気がよくて気温が高いため靄がかかって遠くの島は霞んで見えました。

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 小さな広場のようなところに出ました。ここが九份という街一つの中心部のようでした。九份は日本統治時代に金鉱山として栄華を極めました。しかし、その後金と石炭の生産量が減り続け、1971年に閉山。一時衰退の時代を迎えました。馴染みのあるような懐かしいような、それでいてちょっと違う世界のような不思議な雰囲気でした。

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 小さな広場で最も存在感があった「九份茶館」は、いかにも “なんとか楼” という雰囲気でした。夜になって提灯に明かりが灯ると幻想的な雰囲気になりそうでした。

 

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 夕食後時間がありましたので、台湾名物の「夜市」見物に行きました。タクシー(タクシー代540円)に乗って、「饒河街観光夜市(ラオホーがいかんこうやし)」という夜市に行きました。台湾では日中は暑いので涼しくなる夕方から夜中の1時くらいまで夜市が開かれ、台北市には数カ所の夜市があるそうです。

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 直線の道に交差するように細い路地があり、テーブルや椅子が置いてあってここで食事ができるようでした。

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 8/6 ツアー3日目、最初に向かったのは「龍山寺」という台北市最古のお寺でした。国家古蹟であると共に、台北101、故宮博物院、中正記念堂と並んで台北市の「四大外国人観光地」とされているとのことでした。現地ガイドの李さんの説明によると台湾で最も信者が多くて金持ちのお寺だそうです。台湾ではお賽銭をあげる習慣がなくて願いが叶ったときに献金するそうで、その方がお金が集まるとのこと、成果主義というか合理的で面白いと思いました。

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 「中正記念堂」を訪れました。ここは中華民国の初代総統である蒋介石を顕彰したものです。

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 1931年の満州事変から1945年の終戦まで日本と戦った蒋介石は敗戦後に日本をどうするかというときに、戦勝賠償金の権利の放棄や日本の分割占領の阻止など寛大な処置をとった人で、日本にとっては恩人ともいえる人です。中正記念堂の「中正」は蒋介石の本名だそうで、ここでも衛兵の儀仗式が行われているそうです。

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 台湾で先ず感じたのは “緩やか感” でした。空気が馴染むというか、落ち着けるような感じでした。街並みは例えば5月に行った北欧に比べれば整然としているわけではなくむしろ雑然としているのですが、街は清潔ですし騒音も少ないのです。

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 食べ物も「夜市」での食事は慣れない間は禁止されましたが、胃を慣らせば口に合うものはいくらでもあると思いますし、何より温泉があるのがいいです。

 

住んでみなければわからないことや住んでもわからないこともありますが、一日でもその国の空気を吸えば見えてくることもあります。何回も観光に訪れたいとは思いませんが、もし日本にいられない事情が発生してどこかの国に移住するとしたら台湾(もう一つ挙げるとすればベトナム)がいいと思いました。しかし日本ほどいい国はないと思っていますから、ありえないことではありますが。

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2015年12月26日 (土)

往く年来る年 7月 東北・北陸・飛騨

7/20から45日の行程で、奥の細道東北ルート~北陸~飛騨高山というあまり意味のないドライブに出かけました。

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 最初は車で奥の細道を辿ろうと思っていたのですが、ついでにあっちもこっちもと思っているうちに5日間で巡るにはちょっと乱暴かなと思えるような行程になってしまいました。欲張りすぎたようでした。

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 7/20 東北自動車道を走り、飯坂温泉を過ぎて間もなくのところで、7年前歩いた道を発見しました。テクテクと歩いたことを思い出しました。奥の細道は、東海道や中山道のようには道が整備されているわけではなく、正確なルートの情報もありませんので時々思い出したように現れる標識を発見するごとに胸をなで下ろすことしばしばでした。

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 7/20仙台の先にある多賀城(政庁)跡を訪ねました。奈良時代前半に陸奥の国府としておかれ、南の拠点太宰府に対して北の拠点として大和朝廷と蝦夷の人々との争いの場ともなりました。11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった場所です。

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 多賀城跡と鹽竃神社を訪ねた後、松島と石巻市へと向かいました東日本大震災(2011.3.11)で大きな打撃を受けた石巻市へと向かいました。市内に入るとその爪痕はみられないものの所々に仮設住宅がありました。市中心部の近郊の高台に「日和山(ひよりやま)公園」があり、芭蕉と弟子の曽良の像があり、7年前と同じ姿で立っていました。

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 河口方向に目を向けると、大きな建物でさえ2/3が水中に没してしまったそうで、さらに川上には児童74人と教職員10人が呑み込まれた石川小学校もあります。芭蕉はどんな気持ちで大津波に飲み込まれたこの町を見つめていたのでしょうか。

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 松島の名刹瑞巌寺も東日本大震災の影響を受けました。参道の大木は津波に流され、本堂も修復中でした。そのため三代開山木造も大位牌などと一緒に仮本堂で間近に見ることができました。

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 7/21 前日奥松島の漁師民宿「桜荘」に宿泊し、車は仙台から山形自動車道へと向かいました。天気は快晴で、山形自動車道を走ってしばらくすると月山などの山々が前方に見えてきました。

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 山形自動車道を走って、どうしても立ち寄りたかった場所が即身仏がいるという二つのお寺でした。最初に訪れたのが「湯殿山総本寺 大日坊瀧水寺」でした。お堂に上がって、即身仏は入定すると同時に漆を少しずつ体内に入れたそうで、その結果内蔵を抱いたままで永年経っても腐敗しないとのこと、それが内臓を取り出して保存するミイラと異なるなどの説明を受け、即身仏と対面しました。

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 山形自動車道から日本海に出て新潟県に入り、右手に海を見ながら南下しました。どうしても走りたかったのが「笹川流れ」という名所でした。

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 「笹川の流れ」とは、新潟県村上市の笹川村(1889年まで存在)の沖合の岩場まで潮流が見られたことから名付けられたものだそうですが、現在はその景観の美しさから観光スポット名となっています。

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 7/22 前日は新潟市内に宿泊し、やがて出雲崎に入ると、そこは良寛さん(17581831)の里です。海沿いに「良寛堂」があり、境内裏には良寛さんが母の国佐渡ヶ島を見つめるように座っていました。

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 (良寛記念館資料より転載) 筍が顔を覗かせれば居間を譲り、子供にせがまれれば、日が落ちるまで鞠付きに興じました。良寛は歌に「この子らと 手鞠付きつつ遊ぶ春 日はくれずともよし」と残しています。書は良寛にとって己の心情の吐露だったようで、良寛独特の書法も編み出したそうです。ここへ来ると気持ちが和みます。

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 新潟県・出雲崎から富山県・親不知を通過して高岡市に入りました。奥の細道とは別れをつげて、北陸・飛騨紀行へとハンドルをきりました。 最初に訪れたのが曹洞宗の瑞龍寺(1614年創建)でした。仏殿をくぐると、芝生が敷き詰められた広い敷地があって法殿がどんと構えていました。

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 高岡市内にはたくさんの見所があり、最後に「雨晴(あまはらし)海岸」を訪れました。「雨晴海岸」は日本の渚百選の一つに選ばれている景勝の地です万葉の歌人、大伴家持は、この雨晴の風景をこよなく愛して、多くの歌を詠んだとのこと。また2014年には「世界で最も美しい湾クラブ」に日本で松島の次に選ばれたとのこと。残念ながら空には厚い雲がかかっていましたが、富山湾越しに立山連峰を眺めることができました。この日は、部屋からも立山連峰が見渡せる「磯はなび」というホテルに宿泊しました。

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 7/23 富山県高岡市の「雨晴海岸」の宿から飛騨方向へと向かう途中、合掌造りの集落に寄りました。五箇山地区(相倉地区、菅沼地区)は、国指定史跡であり、世界文化遺産として登録された文化財保護地域で、地域住民約80人が現在も生活しています。

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 日本の里山、とてもいいです。この日は雨でしたがそのおかげで緑は濃く、晴れた日にはきっと爽やかな風が緑を撫でて吹きそよぐことでしょうし、それもいいかも。秋は紅葉と収穫と、厳しい冬はひっそりと。

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 最も気に入った景色です。緑と花と水があって桃源郷のようでした。絵心があればスケッチするのですが、まったく無芸大酒(最近は小食の上、酒量も減っています)なのです。

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 五箇山の後白川郷に寄り、2ヶ所の合掌造り集落を見学した後、飛騨高山へと向かいました。飛騨高山は初めてでした。 どこの街並み、どこの道、どこの路地を歩いても風情があり、多少の人混みがあっても落ち着いて散策することができました。ここにいるだけで気持ちが豊かになるような雰囲気が感じられました。

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  「高山陣屋」は、江戸時代の役所で、全国に唯一現存する郡代・代官所です。街道歩きでたくさんの陣屋を見てきましたが、この高山陣屋ほどたくさんの情報が詰まった建物は初めてでした。1692年に徳川幕府の直轄領となった歴史と風格を感じました。入場料がかかりますが、必見です。

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 高山ラーメンを食べた食堂に貼ってあった小学生が画いた 棚田の絵“ には 僕たちが手入れしている棚田を是非見に来て下さい” というメッセージがありましたので、行ってみました。おばちゃんに教えてもらった棚田は、走ること15分くらいでしたが、山奥のまた山奥でした。狭い傾斜地を利用して、丹精込めて苗を植え、緑は順調に実りに向かっているようでした。

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 7/23は長い一日でした。「雨晴海岸」を出発して、合掌造り集落、飛騨高山と “日本風土記” を巡るような土地を訪ね、最終目的地の「新穂高温泉」へと向かい、「雪紫」というこじんまりとした宿にチェックインし、早速4日間の汗を流しました。この宿は14室限定で、露天風呂とは別に全室に檜造りの24時間源泉掛け流しの温泉があり、いつでも入れるというのはとても贅沢な気分でした。

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 7/24 始発に間に合うように「新穂高ロープウェイ」の乗り場に着いたのですが、雲はますます低く垂れ込めてきました。ここからロープウェイに乗って、西穂高岳にできるだけ近いところまで登り、穂高連峰や北アルプスの景観を楽しもうと思っていたのですが、見晴らしは期待できそうもありませんでしたので撤退しました。一路自宅へと車を走らせました。

 

7/20から45日の旅は、最初は「車で奥の細道」でしたが、富山県の高岡市からは「北陸・飛騨紀行」と中途半端なものとなってしまいました。芭蕉の足跡を辿ったり、山深い里山を訪ねたり、温泉に入って緑を眺め、日本食と日本酒に舌鼓をうつ度に日本はいいなあ、日本に生まれてよかったと思ったのでした。

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2015年12月25日 (金)

往く年来る年 5月 北欧・クルージング

5/28 オスロ市内の観光を終え、デンマーク・コペンハーゲンへ向けてのクルージングとなりました。

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 クルージングの航路は、オスロを16:30に出発し、スウェーデンを左舷に眺めながらデンマーク・コペンハーゲンに向けて南下し、コペンハーゲンには翌日の09:45に到着するという17時間の航海でした。

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 15:21 乗船開始しました。何隻かの船が就航していて、定員は2,000人前後で、船によっては500台の車を積めるものもあるそうです。

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 7階に全員集合して、各自割り当てられた部屋へと移動しました。私たちは9階で、ここまでとてもスムースな乗船でした。母親のYukikoさんと娘のSakiさんはとても仲がいい一卵性親子! 今回のツアーは、この母娘さんの他は8人の一人参加(女性6名、男性2名)と3人グループ(女性2人、男性1名)、女性2人グループ、そして残りは夫婦参加の計35名で、圧倒的に女性が多かったのでした。母親のYukikoさんには成田で私の落とし物を拾っていただき、娘のSakiさんには素晴らしい写真を送っていただき、とてもお世話になりました。

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 室内には、左右2段ベッドになっていて定員4人ですが、上段のベッドは折りたたまれていました。シャワールーム、洗面台、トイレもありました。

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 私の部屋は、右舷の海側でした。オスロの港は雨に濡れて、ひっそりとしていました。出航(16:30)までまだ1時間もあり余裕でした。私はといえば、港の景色を眺めながら日本から持ち込んだ冷酒で、無事の航海を祈って一人乾杯しました。

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 16:40 ドラマチックな銅鑼がなるでもなく、汽笛がなるでもなく(聞こえなかったのかも)、船は滑るように出発しました。豊かな自然のノルウェー、強い印象が残ったオスロ市が遠ざかりました。

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  18:45 食事の時間となりました。メニューは豊富で満足。久しぶりのデザートもありました。

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 多分、クルージングで最も楽しい時間だと思います。レストランはほぼ満席でした。

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 ぐっすり眠って朝の散歩に上甲板に出ました。船尾の方に移動すると、海面が白く泡立ち航跡ができていました。かなりのスピードで進んでいました。

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 5/29 09:08 到着時間に近くなり、多くの人が部屋から通路に出てきました。17時間の船旅でした。

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 デンマークに上陸した後、コペンハーゲンの市内観光に出かけました。先ず向かったのは「人魚姫」の像でした。シンガポールのマーライオン、ベルギー・ブリュッセルの小便小僧とともに「世界三大がっかり」といわれる「人魚姫」ですが、今やこれを見なければデンマーク観光は始まらないというくらいメジャーになっています。

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 コペンハーゲン市(自治市)はデンマークの首都で、世界的に名が知られている市でもあり、北欧のローマといわれています。人口は52万人で杉並区(55万人)と同じくらい、全国で最も人口が多い世田谷区は90万人ですから意外に小さい都市なのです。このくらいの規模が都市としては適正規模なのかもしれません。

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  (同行したSakiさん撮影) Sakiさんから素晴らしい写真を送っていただきました。 コペンハーゲン市を取り囲むように開かれた運河、その運河沿いに街並みができていました。ここはニューハウンといい、あの童話作家のアンデルセンが愛した港です。

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 コペンハーゲン観光で誰もが訪れるといわれる歩行者天国の「ストロイエ」の広場。私たちもここで1時間ほどの自由散策をしました。 この「ストロイエ」は、世界初の歩行者天国だそうです。ちょっと上を見るとここも街灯は通りの真ん中の上にぶらさがっていました。もちろん電信柱はありませんでした。

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 透明の椅子に座っている不思議な人、仮に衣装の中に支えるものが入っているとしても、座っている姿勢を力学的に見ると後ろにひっくり返るはずで不思議です。カミさんはきっと背筋だとかが強いのだろうと言っていましたが、私は全く納得できず、帰国した今でも頭を悩ませています。どなたか秘密がわかったら教えてほしいものです。未だにわかりません。

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 デンマークは人口が561万人で、「世界一幸せな国」と呼ばれています。医療や福祉の充実、政治の透明度などを総合した国連の「幸福度」調査で20122013年と2年連続で首位になりました。広場やオープンスペースにはたくさんの人たちが寛いでいて、その豊かさを実感できるシーンでした。

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 1600年代の初めに建てられたこの「フレデリクスボー城」は、お城というより宮殿です。現在は国立歴史博物館となっています。スカンディナビアで最も大きなルネサンス様式の宮殿といわれています。大雑把にいって、この建造物は日本の江戸城とほぼ同じ時期に建てられたもの。

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 壁や柱にはたくさんの勲章が飾られていました。ここを訪れたVIPの方々の勲章があり、中に菊のご紋の周りに「AKIHITO(明仁)」と刻まれたものがありました。今上天皇(平成天皇)がここを訪れた時のものだそうです。日本の皇室は世界最古の歴史を持っていて、デンマーク皇室は2番目に古いそうですので、親交の歴史は長いようです。

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  (同行したSakiさん撮影) お城見物を終えたとき、YukikoさんとSakiさんの母娘さんはバスに乗らずに別行動をとりました。「クロンボー城」と同じ敷地内にあるこの庭園を見に行ったとのことで、素晴らしい写真を送っていただきました。私には撮れない写真です。

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 5/30 帰国の日になりました。出発までの一時、早朝散歩でチボリ公園に行ってみました。 ディズニーランドができる前は世界最大規模だったそうです。

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 チボリ公園からホテルへ歩いた道を振り返って見ると、まるで中世のお城のような市庁舎の建物が見え、空中に吊らされた街灯が鈴なりになっていました。

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 5/30 13:20発ヘルシンキ行AY0666便に乗りました。離陸して間もなく眼下には深い碧を湛えた北欧の海が広がっていました。多分もう見ることがない北欧の海と空でした。ヘルシンキからは17:15AY0073便に搭乗し、10時間弱のフライトで5/30 08:55無事に成田に着きました。

 

カミさんが言い出した10日間の北欧の旅、本当に行ってよかったと帰国してからも思い出話に花が咲いています。お供のつもりの私も4ヵ国を回って楽しい思い出とともにいろいろ考えさせられました。ん十年?前の大学のゼミでの研究テーマが北欧の福祉政策でしたので、興味もありました。

 

写真を撮っていただいたAさん、写真を送っていただいたYukikoさんSakiさんの母娘さんをはじめいい方達とも知り合うことができて感謝しています。

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2015年12月24日 (木)

往く年来る年 5月 北欧・フィヨルドv

ツアーで最も楽しみにしていたフィヨルドの奥深くへとスカンジナビア半島を北上しました。

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 ツアー4日目(5/25)は、北欧で乗れると思わなかった列車旅を経験しました。ヴォス駅は、世界4大フィヨルドの一つソグネフィヨルド観光の拠点駅となっています。観光地の駅らしく瀟洒なホテルのようでした。駅の上の空は濃い霧が立ちこめていました。 

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 09:54 ベルゲン鉄道のミュルダール行きの列車に乗り、ミュルダール駅からはフロム鉄道に乗り換えて終着フロム駅へと向かいました。ミュルダール~フロム間は標高差860mと世界有数の傾斜度をもっていて、列車はゆっくりゆっくりと景色を楽しませてくれるように走りました。

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 定刻の11:50にフロム駅に着くと、目の前にはどでかいクルージング用の客船が立ち塞がるように停泊していてびっくりしました。プラットホームにはこの列車に乗り込もうという観光客がたくさん集まっていました。

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 不思議なものを見るような気分で巨大客船を横目に、駅近くのレストランへと向かいました。

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 (同行したSakiさん撮影)展望台から見たフィヨルドはクネクネとうねった入江を形成していて、とても海とは思えないほど静かでした。フィヨルドは氷河が気の遠くなるような歳月をかけて海底を削り取ったもので水深は1,000mにも達するとのことです。のんびりと草を食む羊の親子とその先の静かなフィヨルド、春のフィヨルドの雰囲気が伝わってくる画像です。

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 15:30出航予定でしたが、フロム鉄道の列車の到着が遅れたとかで30分遅れで出港しました。まるで出発の遅れを取り戻すように遊覧船はスピードを上げ、フロム駅舎や周辺のホテルなどの街並みがグングンと遠くなりました。

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 ここバレストランドはリゾート地で、小さなホテルを含めて11ものホテルがあるそうです。その中でも18世紀に建てられたという「クビクネスホテル」は、人気のホテルとのこと。

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 ホテルから5分も歩くと「聖オラフ英国国教会」という有名な教会がありました。円錐形の建物と2本の尖塔が特徴でした。

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 今回のツアーでは、北欧の料理特に魚介類を期待していたのですが、渓谷ホテルでの夕食やベルゲンのフィッシュマーケットでの昼食、ここバレストランドでの夕食で、ようやく美味しいものに出会えました。特に、フィッシュマーケットでのスモークサーモンとここバレストランドの燻製タラのスライスは今回のツアーを通じて、1位、2位でした。

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5/26 国が景勝地と定めた「国定景勝道路」を走りました。素晴らしい景観が次から次へと現れました。

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 バギーカーに乗って暫くすると「ブリクスダール氷河」が見えてきました。勝手に想像していた氷河とは異なって、かなりスケールが小さなものでした。バギーカーを降りて、氷河と氷河湖の近くまで歩きました。温暖化の影響でしょうか、氷河は随分と退化しているようでした。この日のここまで、雄大な景観を見てきましたので、こじんまりとした氷河にちょっと拍子抜けでした。

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 ブリスクダール氷河観光を終え、フェリーボートでこの日の最終目的地ゲイランゲルを目指しました。

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 遠くに大型客船がフィヨルドの先に進んでいきました。水深が千m近くあるからこその景観です。この地形は、氷河が削り取ったもので、切り立った山肌とその先の深海を削り出した氷河の力は凄いものです。地底には膨大なエネルギーのマグマが蠢いているとのこと、地球は何という惑星なのでしょうか。

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 5/27 ツアー6日目はノルウェーの首都オスロを目指して南下しました。 スカンディナヴィア半島を北上した私たちは、今度は一気にオスロへと南下する450km、8時間30分の長距離移動のスタートを切りました。 バスの心地よい揺れにウトウトとまどろんで目を開けると、一面の銀世界でした。旅も折り返し点となり、帰国という二文字が意識されたのはこの頃からでした。

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 オスロ市での宿泊はオスロ駅の隣のホテルでした。オスロ中央駅の駅舎はモダンな造りでした。北欧もヨーロッパも基本的には改札口はありませんので、駅舎からもうすぐ目の前にプラットホームになっていたりします。フィヨルドなどの大自然からいきなり都会に出ました。

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 5/28 このフログネル公園はノーマークでしたが印象に残った観光スポットでした。この公園は、オスロ市がノルウェーの彫刻家ヴィーゲランにアトリエ・邸宅を提供し、全ての制作費も市が負担する代わりにヴィーゲランは全ての作品を講演に提供するという前代未聞の契約によって実現したとのこと。生と死という一大テーマ、人生の縮図を表現した193体の彫刻は見るものに何かを訴えかけてきました。これらの彫刻を構成する老若男女は600以上にもなるとのことでした。

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 この日の観光の目玉は、国立美術館で「ムンクの叫び」を直接自分の目で見ることでした。国立美術館は想像よりかなり規模の小さな建物で、入場料が無料でした。ムンクの絵があるのにです。

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  (絵ハガキより転写) 「ムンクの叫び」は、最初に見たときには異様に感じました。何故世界的に評価されるのかもわかりませんでした(今でも)。例えばレンブラントやゴッホの作品などは何となくわかるのですが、「叫び」の評判は謎ですが、2012年のニューヨークのサザビーズのオークションで約96億円という史上最高の値がついたということで、それも謎です。何はともあれ、世界的な名画を目にすることができて大満足でした。それにしてもこの絵が展示されている部屋には番人が一人手持ちぶさたの様子で立っているだけで、緩やかな警備が驚きでした。

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 ノーベル平和賞の授与式はここオスロ市庁舎で行われています。ノーベル賞は、ノーベルの遺言に基づくものですが、なぜ平和賞の授与式だけがノルウェーで行われるようになったのかはわからないそうです。後世、ノルウェーの首都オスロは歴史に翻弄され、苦難の歴史を歩んだために、平和のありがたさを訴えるためではないかともいわれています。

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 自由行動の時間、YukikoさんとSakiさん母娘と一緒に、世界的にヒットしたアニメ「アナと雪の女王」のお城のイメージのもととなった「アーケシュフース城」へと向かいました。

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 カール・ヨハン通り沿いにあるグランド・ホテルは、オスロを代表する最高級ホテルで、毎年1210日に開催されるノーベル平和賞の受賞者が宿泊するホテルとしても知られています。自由行動の時間に、ここで優雅にお茶をしたツアー仲間のご婦人グループの方もいらっしゃいました。

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 一緒に「アナ雪の城」見物にいったグループで記念写真。雨のオスロ市もいい思い出になりました。

 

ノルウェー観光が終わりました。素晴らしい自然と文化に触れました。知らないことがたくさんあることも知りました。水深1000m、内陸部への切れ込み200kmのフィヨルドを削り取った自然の凄さ、アニメ映画「アナ雪」のイメージはノルウェーの自然がベースになっていること、ノーベル平和賞のこと、フログネル公園のことなどなど。

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往く年来る年 5月 北欧・ノーベル賞

5/2231の日程で北欧に出かけました。「大自然に魅せられる北欧4ヵ国周遊10日間」というツアーに参加しました。

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 成田~フィンランド~スウェーデン~ノルウェー~デンマークの4ヵ国を巡ります。参加者は34人という大部隊とのこと。2月のモロッコは、私一人で出かけようと思っていたらカミさんがついてきましたが、今回は私がカミさんのお供(一人ではいやとのこと)をするということになりました。

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 5/22 搭乗機はフィンランド航空機。機体には、フィンランドの国花スズランではなく「ユリメッコ」というブランドマークがペイントされていました。成田15:20発、10時間20分のフライトでした。

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 5/23 観光初日はフィンランド・ヘルシンキ市内観光でした。オープンカフェにも芝生にも、陽の当たるところに人々が集っていました。春を待ちかねたこの国の人たちの躍動する気持ちが伝わってくるようでした。概して北欧では労働時間が短く、午後3時頃には仕事は終わってしまいます。おまけにこの日は “花の金曜日” でした。

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 ツアー2日目5/23は、フィンランド・ヘルシンキからスウェーデン・ストックホルムへと移動しました。ヘルシンキ08:00発の機体はあっという間に緑と水が広がる世界の上空にさしかかり着陸態勢に入りました。1時間のフライトでした。

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 ノーベル賞の授賞式はストックホルムのコンサートホールで行われますが、ここ市庁舎ではノーベル賞の晩餐会とパーティが行われます。この大きな部屋は晩餐会が行われる「青の間」と呼ばれていて、スウェーデン王室および1,300人のゲストがここに集います。この日も多くの観光客が訪れていました。

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  「青の間」からパーティが行われる「黄金の間」へと続く階段、昨年は赤崎、天野、中村教授の3人が、それ以前も多くの日本人がこの階段を上ってパーティ会場に向かいました。そして今年も大村教授と梶田東京大学宇宙線研究所所長のお二人がこの階段を上りました。

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 ノーベル賞受賞パーティが行われる「黄金の間」、今まで日本人の自然科学系受賞者は19人に上り、この数字はアメリカに次いで世界2位なのですが、ここでダンスを披露した日本人はあまりかほとんどかいらっしゃらないようで、残念のような・・・まあ日本人らしいというか。

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(日本経済新聞より)今年も大村教授と梶田東京大学宇宙線研究所所長のお二人の快挙でした。

 

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(読売新聞より)この流れが毎年続くといいですね。

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 ストックホルム旧市街にはノーベル賞関係の情報などが展示されている「ノーベルミュージアム」があり、入り口では訪れた観光客が記念写真を撮っていました。

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 比較的若い日本人グループの人たちが椅子を持ち上げ、裏側に書かれた3人のサインを撮影していましたので私も便乗させてもらいました。彼らはボルボ日本支社のメンバーで、一週間の予定でボルボ本社での研修に来ているとか、やはり同じ日本人として彼らも誇りを感じているようでした。

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 ホテル近くのスーパーマーケット、そのサーモン売場では老夫婦が一枚一枚カットしてもらっていました。コックさんは丁寧にスライスし、一枚一枚サランラップのようなものを間に挟んで秤にかけ、老夫婦はもう一枚追加とか言っているようでした。スモークサーモンは大好物でしたので、最も楽しみにしていたのが本場のスモークサーモンでした。私も一枚くらいカットしてもらおうと思ったのですが、この日はホテルでの夕食でしたのでその夕食を楽しみに我慢しました。帰国してからやはり一枚食べておけばよかったと後悔しました。

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  ツアー3日目(5/24)は、スウェーデンからノルウェーへと移動しました。早くも3ヵ国目の観光となりました。09:30に定刻通り離陸して15分後、眼下にはスウェーデンの青い水面と緑の大地が広がっていました。たった一日の滞在で慌ただしい観光でしたが、日本と同じ王室を持つ国、美しい街並みと建造物、ノーベル賞の国、旧市街に集う人々、美味しくなかった料理(食い物の恨みは恐ろしい)など、たくさんの思い出ができました。

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  12:15 ノルウェー空港から1時間も走らずにベルゲン市内に到着しました。美しい街並みは雨に煙っていました。これはこれで趣がありました。空中には道の両側から張られたロープに電灯がぶら下がっていて、フィンランドやスウェーデンと同じようにノルウェーにも電信柱がありませんでした。

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  ドイツのハンザ商人達によって建てられた商館などが立ち並ぶブリッゲン地区は、独特の美しい街並みを形成していて、世界遺産に認定されたことも相まって、観光スポットとなっています。

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 昼食の時間、お目当てのフィッシュマーケットのテント村に向かいました。波止場の一角に張られたテントには海風が吹き付け寒々しく、客足も閑散としていました。それでも店の若いお兄ちゃん達の片言日本語の、呼び込みの元気な声が聞こえてきました。

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 さまざまな魚が売られていたのですが、物価は高く、懐具合と相談してチョイスしたのは、私がサーモンのカミさんは何とかエビのオープンサンドでした。ここで食べたサーモンが北欧ツアーで食べたものの中では最も美味しかったのでした。

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 5/24 午前中のベルゲン観光をすませ、いよいよスカンディナヴィア半島の西側を北上し、フィヨルド観光のスタート地点、渓谷ホテルを目指しました。その途中の村の景色の美しいこと。

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 この水を一杯飲むと寿命が何年か延びるといわれているツヴェンデの滝、ペットボトル片手に水際に急ぎました。

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 世界的に大ヒットしたディズニー映画「アナと雪の女王」では、ノルウェーのいくつかのスポットがイメージ造りに利用されました。ツヴェンデの滝も映画に登場しました。

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 同じく、ベルゲンの街も「アナと雪の女王」のイメージ造りの一つとなりました。

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 山道や海沿いの道を走って、スタルハイムという地域の渓谷ホテルに到着しました。小高い山の麓に抱かれた、瀟洒なホテルで、既に何台かの大型観光バスが駐車していました。雰囲気のあるホテルで、食事も美味しく記憶に残るホテルでした。

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 太古の時代に氷河が削り取った渓谷を見下ろすことができました。氷河はかなり鋭く山裾を削り取ったようで、渓谷の両側にはこれまた鋭い山肌が駆け上がっていて、ミニミニ・マチュピチュ(行ったことはありませんが)のようでもありました。

 

スウェーデンのストックホルム市庁舎でノーベル賞の晩餐会やパーティの会場に立ってみて、世界中の目が集まるその時の光景を思い浮かべ、数多くの日本人がここに立ったことに思いを馳せるとそれは鳥肌が立つほど晴れがましく誇らしいことだと思ったのですが、今年は今まで以上の感動をいただきました。

 

ノルウェーでの風景は美しく、「アナと雪の女王」の世界と重ねてみるとさらにイメージは膨らむのでした。

 

 

 

 

 

 

 

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2015年12月23日 (水)

往く年来る年 5月 高野山と伊勢神宮

日本的な雰囲気、それも原点に近い大和心を感じることができる場所に行ってみたいと思い、5/13153日間、高野山と伊勢神宮に行ってみようと思い立ちました。

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 高野山へは、2007年に四国巡礼で八十八番札所にお参りの後高野山にも参拝しました。そのとき大きな宿坊に泊まり、宿泊客は私一人で滅多にない経験をしました。

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 高野山の宿坊や近辺の宿泊施設がどこも満杯でしたので、あれこれ考えて行き着いたのが奈良県吉野郡天川村でした。以前吉野に行ったついでに塩沼亮潤大阿闍梨が千日回峰行で歩いた道を訪ね、その時立ち寄ったのが天川村という独特の雰囲気をもった村でした。天川村から高野山へは山の中の奥深い道を2時間くらいで行けそうですので天川村に泊まることにしました。

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 ここ「天河大弁財天社」は、広島・厳島、琵琶湖・竹生島と並ぶ日本三大弁財天の一つといわれています。それはともかくとして、山の中に分け入ってトンネルを抜けて辿り着く、この現世から隔絶されたような雰囲気が好きなのです。

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 次に向かったのが大峯山の登山口でした。大峯山は憧れの山なのですが、修験者の登る山と聞いていますし、なかなか登る勇気がありません。登山口という案内板に従って先に進むと「母公堂」というお堂がありました。修験道の開祖といわれる「役行者(えんのぎょうじゃ)」の母を祀った堂でした。ここから登山口になるのですが、ここは “女人結界” となっていて女性はここから先には入ることはできないのですが、最近は女性は強くなり無視して入ってしまう人もいるそうで、こういう時代ですから黙認されているようです。

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 天川村の洞川温泉に泊まりました。この地域の旅館は、その全てが大峯山登山を志す行者(登山者)たちの宿泊所で、いたるところで「行者の宿」とか「行者の湯」とかいう看板が目につきました。山岳信仰の聖地ともいえるここにはたくさんの「講」(同様に富士講などがあります)があり、それぞれの講の指定宿泊所となっているようです。

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 奈良県の天川村から和歌山県の高野山へのルートはいろいろありますが、高野山と天川村という二つの聖地を結ぶルート、「高野天川線」を選択しました。 フロントガラスに映し出される景観は素晴らしく、なるほど二つの聖地を結ぶルートのようでもありました。 “山紫水明” という言葉通りの景色を目にして、この道を走るだけでも来た甲斐がありました。

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 06:00に天川村を出発して08:00、結局慣れない道の慣れない運転で2時間かかって高野山に到着しました。 「金剛峯寺」の山門、ここへは2007年に四国巡礼の帰路に寄ったのですが、その時はとてもひっそりとしていました。

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 奥の院の手前の中ノ橋あたり。ここから先は聖域ですので撮影禁止です。ここも2回目ですが、今回は奥の院の中まで入ることができ日頃拝むことができない仏像を見たり、建物の内部を見ることができました。弘法大師は奥の院に「入定」したといわれ、今でもここに参る人を救い続けているといわれています。また今日でも生きているともいわれ、灯明は絶やさず灯し続けられ、食事も供えられています。

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 高野山を11:00に出発して予定通り4時間で伊勢神宮に着きました。伊勢神宮には何回も来ていますが、雨模様なのは初めてでした。敷き詰められた玉砂利の音もしっとりとして、緑も雨に濡れて色濃くなり落ち着いたとてもいい雰囲気でした。

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 内宮の参拝をすませて「おかげ横丁」に寄りました。雨脚が強くなってきて、店じまいをするお店も出てきていました。

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 一泊目は行者の宿に泊まりました。二泊目は伊勢神宮参拝の後、車で45分の伊勢志摩の漁師民宿に泊まりました。ここは初めてで、この日の宿泊は私たち二人だけで貸し切り状態でラッキーでした。鯛やヒラメ、アワビやサザエの舟盛り、伊勢エビの躍り食い(しばらくは目の前で動いていました)、煮魚や焼き魚、最後に釜飯が出てすっかり満腹状態になりました。

 

天川村から高野山へ、高野山から伊勢神宮へと聖地を結んだ旅は、日本の原点・大和心に触れてみたいという期待通りでした。かと言って、日頃の行いがいいわけではありませんので心身ともに浄化されたわけではありませんが、とてもすっきりした気分にはなれました。

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往く年来る年 4月 五島列島

4/12143日間、五島列島へと出かけました。クラブツーリズムの「五島列島14島めぐり3日間」というツアーを利用しました。島といえば北の礼文島や奥尻島から佐渡島、屋久島、西表島、沖縄の島々は行きましたが、五島列島はジグソーパズルのピースが一枚欠けているような気分でした。できたら個人的に行きたかったのですが、金がかかるしアクセスが大変ということで結局このツアーしか選択肢はありませんでした。

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 先ず羽田から福岡空港へと向かいました。飛行機は日本列島の背骨を縦断し、進行方向左手には富士山が見えました。3D映像のようでもあり、山頂の噴火口まではっきりと見ることができました。これほど近くから、上空から富士山を眺める機会はあまりないことでラッキーでした。

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 五島列島とは、長崎県に属しその名の通り5つの大きな島を中心に140の島からなっています。その大きな5つの島は南地区の下五島と北地区の上五島とに分かれています。今回のツアーは14の島を巡るということになっています。そんなに巡らなくて、半分でもいいのではと思ってはいたのですが。

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 大瀬崎の断崖に建てられた大瀬崎灯台は、灯台としては大規模で日本屈指の光達距離を誇り、東シナ海を航海する船舶の道しるべとなっている重要な灯台です。先端の灯台まで行ってみたかったのですが、歩くと往復1時間ということで諦めました。

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 福江港に着いた時、シスター達のグループが目にとまりました。上半身のシスタースタイルやスカートは統一されているのですが、靴は不揃いの運動靴で微笑ましいものでした。

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 港から見える、海際に建っている古い木造の建物は「旧五輪教会」です。長い禁教が解かれ、教会堂が各地に建立されはじめた当時の教会建築を物語る五島列島最後の木造教会堂です。歌手の五輪真弓さんはこの地の出身とか。

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  「江上天主堂」の内部は、本格的な三廊式の立面構成になっていて、ここでも聖ヨハネ像が掲げられていました。

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 岩礁に上陸して上を見上げると、十字架を背にしたキリスト像が岩場の上の方に立っていました。迫害を受けたキリシタン達が奥行き50mほどの洞窟に隠れ住んでいた時、沖を通った船に朝食を炊く煙を見つけられ、捉えられて拷問を受け、そのことを悼んで1976年にこのキリスト像が安置されたとのことです。

 

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  「土井ノ浦教会」の下の階段を降りてゆくと岩をくり抜いた「風の聖母」の像があり、その右下では跪いた少女が祈りを捧げていました。教会の隣にはこれらの像だけではなく、殉教者にまつわるものが展示されている記念館などもありました。

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 島巡りのもう一つの楽しみは新鮮な魚介類でした。期待に違わないメニューの数々で食べきれませんでした。

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 たくさん見た教会のうち、木造の「旧五輪教会」とともに印象に残った「頭ヶ島天主堂」です。全国でも珍しい石造りの教会堂で、島内の石を切り出して積み上げて建設され、重要文化財に指定されていてユネスコ世界遺産の暫定リストに掲載されることにもなっているとのこと。そういったことも印象に残ったのですが、私たちの見物に合わせて信者の方が待機していて、教会内での説明をしてくれたことも印象に残りました。

 3,000人ものキリシタンが五島の島々に散っていきましたが、荒れた地と迫害にもめげず辛抱強く開墾と信仰を続けた結果、1873年の禁教をきっかけに50もの教会へと実を結んだとのこと。私はどちらかというと仏教派、それもゆるゆるのですが、信仰の力は凄いもので、とてもとても真似できません。信仰の強さが迫害や圧政によるものだとしたら悲しいことです。

 今、教会は大変な危機に陥っていて、維持してゆくのが大変だそうです。過疎化による信者の減少に高齢化が拍車をかけているとのこと。教会だけではなく仏教寺院も同じように大変そうですが。

 もう一つ残念なことは、島のあちこちで小学校や中学校が廃校になり、校舎だけが寂しげに風雨に晒されていたことでした。いろいろ考えさせられた島巡りでした。

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往く年来る年 3月 京爛漫

3/30からカミさん同行で23日の京都散策をしました。目的は3つ。一つは8年前の2007.4.1に東海道五十三次テクテクで京都三条大橋にゴールしましたのでその記念にと、またその日は仕事の右腕だった幹部の訃報を聞いた日でもありました。二つ目は、最近読んだ司馬遼太郎の「城塞」の舞台を訪ねること。三つ目は運良く満開の桜が見られたらいいなあと出かけました。この時期の京都は、年間の恒例行事の一つになりつつあります。

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 東海道新幹線で東京駅を出発しました。この日の陽気は5月なみということで暖かい気温で、大気は霞がかかり富士山の姿は少しぼやけていましたが、新幹線から裾野までこれほど広く見ることができるとは思いませんでした。

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 新幹線とホテル指定のフリーツアーで、毎年駅前のホテルを選びます。ロビーには海外からの来日客が大勢いました。最近の京都は外人客が多く、いろいろ問題もあるようですが、できるだけ温かい気持ちで受け入れたいと思ってはいるのですが。

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 京都での観光地巡りはできるだけ歩いて巡りたいと思っています。清水寺の表通りや舞台あたりはラッシュアワー状態でしたが、一本道を外れると古都らしい静けさがありました。春の日を浴びた石地蔵達は色とりどりの衣を身につけ、微笑んでいるようにも見えました。

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 清水寺から高台寺に向かう三年坂(産寧坂)あたりは益々混んできました。この日の陽気は5月のゴールデンウィーク時の暖かさということで、陽気に誘われ心も浮き立つようでした。

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 春の陽気に誘われて誰もがウキウキ気分でした。それにしても目についたのがレンタル着物で、若い女性だけではなくて男女のカップルや若くない外人カップルも多く見られました。まあ日本の文化に触れてもらうのはいいことなのでしょうが。

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 円山公園は高台寺から数分の距離にありました。公園の真ん中にある桜は見事な枝振りで、気持ちいい青空を背景に満開でした。しだれ桜のようでもあるしそうでないようでもあるし、最近注目を浴びている祇園桜かもしれません。

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 テクテクと歩いて四条河原町近くの高瀬川にやってきました。京都には桜の名所はたくさんありますが、この高瀬川の畔の桜が一番好きです。この決して大きくはない川(運河)は京都中心部と伏見を結ぶ物流用に開削されたのですが、森鴎外の小説「高瀬舟」の舞台となりました。京都の罪人が島流しに送られるとき高瀬舟と呼ばれる舟底が平らな舟に乗せられて運ばれたというもので、ここで人間ドラマが展開されました。

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 京での楽しみの一つは新しい居酒屋を発見することです。この日は「棲家(すみか)」というおばんざいの居酒屋に入りました。インターネットで予約をした初めての店ですので、いつもながらどんな店か入るときには緊張しましたが、意外なことに若い女性スタッフばかりでした。「棲家」といういかにも大人の隠れ家的な渋い店を想像していたのですが、明るい雰囲気にすっかり肩の力が抜けました。

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 美味しい酒と肴ですっかりいい気分になり、先斗町界隈を散策がてらホテルへの帰路につきました。夜の桜もいいものでした。

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 今年は初めて山科方面の醍醐寺に向かいました。山門のこの桜も見事でしたが、広い境内にも満開の桜が咲き誇っていました。

 

桜に酔って、酒に酔って、あっという間の京都23日でした。

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2015年12月22日 (火)

往く年来る年 2月 モロッコ・カスバ街道

カスバというと、“カスバの女” という古い古い歌謡曲 “ここは地の果てアルジェリア どうせカスバの夜に咲く・・・” という歌詞が思い出されました。その結果、カスバとは寂れた街の外れにある宿屋や酒場というイメージでしたが、ところがカスバとはベルベル族のいくつかの家族が集まり、一族郎党が古代ローマやその後のイスラム教徒の侵攻から身を守るために築いた要塞なのです。

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 2/7 集落の真ん中を走っている一本の道、これが「カスバ街道」です。この道の両脇にはオアシスやカスバが連なっています。カスバ街道とカスバの集落を俯瞰してみると、なるほどモスクが見当たらないのでした。

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 朽ち果ててしまったようなカスバが多い中で、非常にしっかりとしたカスバのところでバスは止まりました。カスバは、城壁で囲まれた要塞のことで、基本的には一家族しか住んでいません。四隅にタワーがあり、下は倉庫で、上は見張り台、基本的には2階建てで1階は倉庫、2階は生活空間だそうです。冬は暖かく夏は涼しいそうです。外壁は泥でできています。

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 ユネスコ世界遺産に登録されているベルベル族の村は要塞でもあります。外敵の侵入を阻むために入り口は1カ所しかなく、迷路のような道がくねくねと直角的に入り組んでいて、土を練り上げた建物が外敵に対して立ちはだかっていました。

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 またもやロバの登場。ロバは大人を二人乗せても大丈夫なくらい力持ちだそうです。ノンビリとした空気が流れていました。

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 映画 「スターウォーズ」が撮影された場所。ここまでの6日間、いろいろな光景を見てきましたが、モロッコはやはりアフリカ(北アフリカ)の大地で、乾いた土の国のようです。

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 2/8 アルガンオイルの村を目指しました。オートアトラスの最高峰は標高4,100mですから富士山より高く、モロッコでこういう風景を目にするとは思いませんでした。

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 モロッコのいろは坂を下りきったところにアルガンオイルのお土産屋がありました。アルガンオイルとは、モロッコの南西部にしか生育しないアルガンツリーの実の種子から抽出されるオイルです。ここでは地元の娘さんたちが石臼を手で回して実からオイルを絞っていました。この伝統的な製法では100kgの実から1リットルしかとれませんので、非常に希少なもので、モロッコの宝石ともいわれています。

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 レジはてんてこ舞いの大忙しで、おまけにレジのおじさんは商売上手でした。我が家は食用のオイル(500ml4,000円)と薬用に近いハンドクリームで締めて1万円以内の買い物でしたが、他のツアー仲間は5万円くらい買っていましたので、私たちだけで100万円くらいの買い物でした。ということは一日の売り上げを推定するととんでもない数字になりました。

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 お土産に持ち帰った食用アルガンオイルは想像以上に美味しく、白身の魚やホタテやエビなどいい食材が手に入ったときにはすり下ろしたキィウィとアルガンオイルのドレッシングで、絶品でした。買ってきたものは大事に大事に使っていたのですが、少しずつ減ってきて(当たり前ですが)、日本で入手しようとしたら250ml4,000円、しまった! たくさん買ってくればよかったと後悔しています。

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 私たちは山間の道をマラケシュへと向かいました。モロッコは赤土の大地であり、サハラ砂漠も赤く見えたのは、山がいつかは砂になった結果とも思えるのでした。赤土を練って積み重ねて造ったような家々が山の麓や中腹に点在していました。

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 マラケシュに到着、宿泊したホテルは「RYAD MOGADOR AGDAL」という名で、ちょっと豪華なホテルでした。お昼過ぎという時間にチェックインしたのは今回のツアーでは初めてで、とてもゆったりとした気分になりました。

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 2/8の午後、マラケシュのメディナ(旧市街)にあるフナ広場を観光しました。フナ広場は正式には「ジャマ・エル・フナ広場」といい、11世紀後半にマラケシュが首都で会った頃から街の中心となっていた広場です。かつては公開処刑なども行われたこともあり、現在は大道芸人や飲食物、金属細工を扱う屋台などがところ狭しと軒を並べて、渾然とした賑わいを見せていました。

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 こちらでは何匹かの蛇がとぐろを巻いていて、撮影料(確か50100円くらい)を払って写真を撮りました。サービスで、カミさんの首に蛇を巻き付けて写真を撮らせてあげると言われましたが、カミさんは叫び声を上げて逃げてしまいました。

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 カフェの2階から広場を眺めたり、屋台を冷やかしているうちに日が暮れかかってきました。すっかり日が暮れて、夜店の灯りがまるで誘蛾灯のようでした。

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  2/9の午後、マラケシュからカサブランカへの3時間の列車の旅が始まりました。私たちをマラケシュ駅まで運んだバスは、現地ガイドのジャリロさんと助手のハッサンさんを乗せて列車と競争するかのように陸路をカサブランカへと向かいました。

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 時々は、ホームもない無人駅にも停まりました。最後尾の車輌にいた車掌さんが、いきなり走り出し何事かと思ったら、ある車輌のドアが開かずに乗客が困っている様子を見て駆けだし、なんとかドアをこじ開けて乗客を乗せて戻ってきました。車掌さんも大変です。

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 カサブランカ市内に入って日はあっという間に暮れ、ハッサン二世モスク見物に出かけました。全敷地には8万人、内部には2万5千人が収容可能の大きさ。ここ一杯に信者が集まってメッカに向かって祈りを捧げる様相を想像すると凄いことで、改めてモロッコでは65%がアラブ系という数字が実感されました。

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 (画像はインターネットより引用)カサブランカといえばここを舞台とした同名の映画(ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマン主演)が強く印象に残っていて、その雰囲気を少しでも味わってみたいと思っていました。

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 最後の夜とあって飲み友のK子さん、ツアーコンダクターのYumikoさん達と何本かの赤ワインを空にして、気がついたらレウェイター達が出て行けといわんばかりに椅子を片付け始めていました。気がつけば夜が明けていて、ハンフリー・ボガートを気取って霧に煙るカサブランカの夜の街を、コートの襟を立てて歩いて、フラリとバーにでも入ってみようなどという夢は儚く消えました。

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 フランクフルトから成田までのフライトを待つ間にJALラウンジで過ごしました。酒飲み友達となったK子さんと乾杯。旅の最高の楽しみは昼間から酒が飲めるということで意見が一致しているのですが、モロッコでは昼酒が半分くらいの日程で禁止されましたので、ここでその分を取り戻すことができました。さすがフランクフルトで、ビールもハム・ソーセージ・サラミが美味しかったのでした。

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 ラウンジで時間待ちしている人たちは時間の経過とともに入れ替わっていて、私たちツアー客以外はほとんどがビジネスマンのようでしたが、目をひいたのが日本人のヤングファミリーでした。若いパパとママ、おとなしく賢そうな兄妹の4人家族でした。若い頃からファミリーで海外に出かけるというのはそういう時代なのでしょうが、しかもラウンジを使えるとは頼もしくもありました。(この時点では、ブログへの掲載の了解はいただいていませんでしたが、成田のリムジンバス乗り場で再開し、事後承諾をいただきました)

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 2/11  14:34 長時間のフライトにもかかわらず、美味しい酒と食事と熟睡で成田に着いても疲れは全く感じませんでした。入国審査、税関検査も預け荷物の回収もスムースに済み、旅は終わりました。レンタル携帯の返却カウンターでツアーコンダクターのYumikoさんと一緒になりました。次はアフリカへ出かけるとのこと。

 

バスに乗り、高原から砂漠へ、砂漠から山脈地帯へ、そして列車で平野を走ったモロッコ一周の旅が終わりました。サハラ砂漠の砂を踏めればいいと思って出かけたモロッコでしたが、これほど魅力的な国とは思いませんでした。カスバ街道やマラケシュ、カサブランカと、アフリカというよりヨーロッパ的な雰囲気があり、また迷路の街メディナ(旧市街)はアラビアンナイトの世界でもあり、不思議な魅力がありました。

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2015年12月21日 (月)

往く年来る年 2月 モロッコ・サハラ砂漠

世界一の迷路といわれるフェズのメディナ(旧市街)と念願のサハラ砂漠に足を踏み入れる瞬間がやってきました。

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  とても印象に残ったのがロバの活躍でした。それほど田舎でもない街をのんびりとロバが荷車を引いて歩いていたり、おじさんがロバに乗っていたりと。ツアーの女性たちはあんな小さなロバに大きな大人が乗ってロバが可哀想と言っていました。たしかにロバは小さく見えましたし、健気でした。

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 バスで少し走るとまた景色は変わり、草原とその向こうにはポツリポツリと白い建物が見え、のどかな田園風景でした。その上にはでっかい雲が覆い被さるように迫ってきていました。気のせいか空がとても大きく見えました。

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 2/5 フェズに到着し、メディナ(旧市街)を散策しました。そして世界一の迷路に足を踏み入れました。現地ガイドさんを先頭にツアーコンダクターYumikoさんが最後尾について、まるで洞窟探検のようでしたが、ガイディングレシーバーを装着していましたので少し安心しました。

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 ラクダの頭が店頭に。今回のツアーではサハラ砂漠でラクダに乗るつもりでいましたので、これにはかなりギョッとしました。ラクダは食べられてしまうとは思ってもいませんでした。

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 迷路の中、小さな店が軒を連ねている路地に突然開けた空間が現れ、それはモスクでした。路地が複雑に入り組んでいて、狭い路地は肩を触れ合うような人混みでしたが、一歩モスクに入るとそこは聖域で、周りの喧噪が嘘のようでした。モロッコはイスラムの国でもあります。

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 2/5の最後のプログラムは、フェズのメディナにある「なめし革職人街」の見学でした。いきなり異臭が漂い、建物の入り口でミントの葉を渡され3階に上がってみれば、TVの旅番組や観光パンフレットで見たままの世界がそのままに。ミントの葉はこの地方の名産であり、鼻先にかざしての匂い消しの役目を果たしていました。

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 四角いコンクリート製の用水桶はそれぞれの行程で分けられているようです。この白いペンキのように見えるのは石灰で、皮をなめしているとのことです。この用水池はそれぞれがレンタルで借りているそうです。要するに所場代を払って仕事をしているようです。こういう仕事を一生続ける人がいて、革製品ができているんだという現実を目の前にしました。

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 2/6 フェズからヨーロッパのような街並みが広がるイフランに立ち寄って、エルフードを目指しました。峠を越えると聞いていたのですが、モロッコで雪景色を見るとは思いませんでした。結局、峠への道はゲートが閉ざされていて引き返すことになりました。

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 峠を越えられずに引き返し、遠回りをしてバスはやがて小丘陵に向かって進み、道は細くなり、大型トラックが目立つようになりました。土漠の道が続いていました。

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 夜7時過ぎにホテルに着きました。明るいところで見たらきっと雰囲気があるんだろうなあと思いましたが、とにもかくにもやっと着きました。アラビアンナイトの舞台のようなホテルでした。

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 ツアー5日目の2/7、今回のツアーの最大の目的、サハラ体験。朝4時半起床にもかかわらず全員張り切っていました。 真っ暗な中、ホテルに迎えに来てくれたランドクルーザーで走ること小一時間、暗闇の中でラクダがおとなしく待機していました。感動したのは、このラクダたちは朝飯前の仕事を終えると、飼い主不在の状態でさっさと自分たちのねぐらへ戻ったことでした。ラクダはとても頭がいいのです。

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 ツアーコンダクターのYumikoさんから、夜明け前の砂漠はとても寒いので着れるものは全て着てください、砂塵は細かいのでマスクをしてくださいという厳重な注意を守ったら全員仮装大会状況で、みんな同じような格好していましたので誰が誰だかわからなかったのですが、カミさんを見つけました。

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 2/7の7時近く、砂のうねりの向こうに朝日が昇り始めました。意外だったのは白い朝日だったこと。砂塵のために太陽が白く見えるそうで、アフリカの太陽というとジューッと音がするくらい真っ赤と思っていましたので、意外でした。太陽というより月のようでもあり、自分が月世界に立って地球を眺めているような感じでした。月の沙漠の歌が思い浮かびました。

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 砂漠でのご来光に納得して、隊列を組んでもと来た道を戻りました。陽が昇り、隊列の姿が砂の斜面に映っていました。

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 早朝のサハラ体験からホテルに戻ってみるとここはオアシスでした。前夜の遅い時間に到着し、この日の朝は4時半に起きて出かけましたので、どんなホテルかわからなかったのですが、明るくなってみると緑がふんだんにありました。そしてプールまであり、一体水はどこから来るんだろうと思いました。

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 サハラ砂漠の入口エルフードからトドラ渓谷へ向かう途中の道、土漠の中に取水施設がありました。 モロッコには伝統的な取水施設がたくさんあり、日本もJAICの活動を通じて協力しているとのこと。そのうちの一つがこの地下水路です。盛り土は、井戸を掘った時に出た土で、盛り土の上にはバケツを巻き上げる木製の巻き上げ器が設置されていました。

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 仕組みは、ここでくみ上げた水は地上に運ぶのではなくて地下につくられた水路に供給されています。地下水路の見学料は100円くらいで、貴重な外貨獲得になっているかもしれません。(画像はインターネットより)

 

モロッコの水事情、長い歴史の中で、自然条件を生かしたり克服したり、さまざまな知恵が働いていることがわかりました。

 

ラクダもまた、人間に負けずに知恵を働かせていることに感心しました。仕事を終えて目印のない果てしない土漠の道を、時々道草を食べながら悠々と自分たちだけで我が家へ戻る姿、一生忘れられない光景でした。

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2015年12月20日 (日)

往く年来る年 2月 モロッコ・メクネスのお祖父ちゃん

何となくサハラ砂漠が見てみたいと思い、モロッコへ行こうと思い立ちました。砂漠でラクダに乗って(ヒマラヤでヤクに乗ったことはありますが)みたいとか、砂漠を歩いてみたいとか大それたことは全く考えていません。砂漠の端っこにちょっと足をつけることができれば、砂漠を吹き渡る風を感じることができればそれでいいと思いました。

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 たまたまサハラへと気持ちが向いているとき「遥かなる水の音」(村山由佳)という本と出会いました。題名だけを見るとどういう内容の本かはわからなかったのですが、表紙には星が輝く夜空の下に砂漠を歩く人影がありました。

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 裏表紙の解説文にはサハラで散骨するための4人のモロッコ旅であると書かれていました。本文を開くと「遺灰を、サハラにまく。ひとから見ればそんなのは、ただのナルシズムにしか映らないかもしれない。でも、どうしてだろう、何年も前にたった一度行ったことがあるだけなのに、以来僕はあの砂の海に魅せられてしまった。心臓の一部を結わえつけられてしまったような感じだった。」

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 モロッコという国は、海に面して、平野部、山脈、砂漠、高原と自然に恵まれた地であるようです。アフリカ大陸とか灼熱の砂漠とかのイメージで暑いかなと思っていたのですが、緯度が高いために寒いようです。ヨーロッパに近いとはいえそこはアフリカ、ホテルにエアコンはないとか、シャワーも使えるかどうかわからないとか、湯沸かし器はないとか、トイレットペーパーも用意してくださいとか、そんな国のようです。(実際にはそんなにひどくはなかったです)

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 日程は2/3から2/11迄の9日間で、カミさんも同行です。最初は私一人のはずだったのが、今までは多少なりとも危険の匂いがするところへは決して行かなかったカミさんが私も行くと言い出しました。夫婦二人で行ってトラブルに巻き込まれるのは、特に命に関わるような事があると嫌だなあと思っていましたので、長時間の飛行機は落ちるかもしれない、パリからカサブランカまでの飛行機はハイジャックに遭うかもしれない、アトラス山脈越えや高原でのバス移動はゲリラに襲われるかもしれないと脅したのですが、どうしても行く、たとえ死んでも一緒ならいいとまで言われては拒否することもできませんでした。子供たちは、最悪一人は帰ってきてほしい~その場合の一人はカミさんのようですが~まあそれでもいいかというところです。

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 私たちを乗せたJL415便は北上し、シベリア上空辺りにさしかかりました。数十年ぶりの3回目のパリでした。

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 食事のメインは「九つの小鉢膳」。会席料理とか小鉢料理とか、見てくれはよくても味はイマイチということがありますが、この小鉢膳は一つ一つの味がしっかりとしていて、とても美味しく、たしかに世界最高峰の味でした。

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 食前酒、食事中の日本酒と白ワイン、食後のウィスキーと飲んで、しばらくすると眠気に襲われ、シートを水平に倒すとあっという間に眠りについてしまいました。

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 パリ発09:10AT777便は11:10に定刻通りモロッコ・カサブランカに着陸しました。窓から初めて目にするアフリカ(アフリカ大陸のほんの一部ですが)の空は感動的でした。路面には雨水がたまっていて機体やバスは湖に浮かんでいるようであり、蒼い空を湖面に写しているようでもあり、上空と地平線の彼方には雲が湧いていました。

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  自分のトランクケースを転がしてツアー一行がバスまでゾロゾロ歩く姿は、いつも思うのですが、難民のようでありおかしくなります。一行は総勢22名、私たちのような夫婦が4組、男性の単独参加が3人(女性の単独参加が5人)で、男性が7人女性が15人でした。母娘参加が一組ありました。

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 雨の中しばらく走って雨が止んできた時、郊外に出るといきなりの緑の草原でした。深く明るい緑の草原で、サハリでもあるまいし、ついついいるはずのない象やキリンの姿を探している自分がおかしくなりました。

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 バスはカサブランカ市の中心部に入りました。ごく普通の都市の風景ですが、白い色と独特のデザインの建物がアラブ系の雰囲気を醸し出していました。カサブランカとは、スペイン語で「白い家」という意味です。

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 モロッコに入ってまだ一日目でしたから断定的なことは言えませんが、城壁や城塞がよく目につきました。モロッコはリビアやチュジニア、アルジェリアなど北西アフリカ諸国の一つであり、隣接国や周辺国を見回すとちょっと危なげな国があり、かつて侵略されたこともあるようで、城壁・城塞は歴史の必然なのかもしれません。

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 最初の観光スポット「ムハンムド5世廟」の入口辺り、 “水売り” のおじさんがいました。山羊の皮袋に入れておくと炎天下でも冷たいそうで、しかし中味は水道水ですので観光客がおじさんの水を買うわけにはいきません。おじさんもそのあたりは承知の上で、稼ぎは写真撮影のチップとのことで、私も5か10DH(通貨単位は:DHディルハム 1DH12.5円)、たしか日本円で60円くらい払って写真を撮らせてもらいました。

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 廟の外に出ると、小さい子供を抱いたヤングママがいました。女性に断りなしにカメラを向けるとトラブルの元になると厳重な注意はされていましたが、知り合い同士で記念撮影していましたので撮影仲間に入れてもらいました。

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 ツアー2日目は「フェズ」という、モロッコ人にとっては特別な都市といわれ、迷路にも例えられる旧市街は世界遺産にもなっている 街に泊まりました。すっかり夜が明けて明るくなると、暗い中で妖しい幻想的な雰囲気だったホテルは本来の格式ある風格を見せていました。

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  時々、石積みの粗末な家が何軒か集まっている集落を見かけました。女性の服装から見てイスラム教徒と思われました。生活は決して裕福そうではないのですが、中にはパラボラアンテナを設置している家もあり、集落の規模がもう少し大きくなっているところではパラボラアンテナがキノコの群落のように設置されているような処もあり、世界の出来事は地球規模で伝わっている現実を知らされました。

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 ヨーロッパ大陸はローマ帝国の歴史がたくさん残されていて、トルコでもたくさんの遺跡を見ましたが、それらの遺跡はあくまでも過去のものという印象でしたが、ここでは遙か昔のローマの時代がそのまま現在までつながっているような生々しい印象を受けました。ヴォルビリス遺跡は、北アフリカにおける古代ローマ都市の姿が最良の状態で保存されていて、ユネスコの世界遺産に登録されています。

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 このモザイク画は、美女が入浴しているのを男性が覗いているところで、いやはや古代から・・・です。

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 古都メクネスの街中に入ってゆくと、フードの先が尖ったマントを着ている男の人、 “オズの魔法使い” かいや男性だから “ねずみ男” か。これはモロッコの伝統衣装でジュラバというそうで、モロッコ発見。実際 ”ねずみ男“ の愛称で呼ばれているそうです。気候は冬で風が吹いたりするととても寒いので、これは暖かそうでした。一緒に歩いているのは奥様か、お人形のように見える幼児を背負っていました。

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 古い街並みや昔からの生活がそのまま残されていて、ここメクネスは世界遺産に登録されています。

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 タジン鍋は北アフリカ地域の鍋料理で、料理の際に使われるとんがり帽子のような陶製の土鍋は、大きいものから小さなものまで、あるいは置物としてもあちこちで売られていました。最近ではお土産に買って帰る人もいるようです。

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 タジン鍋は、羊や鶏の肉と香辛料をかけた野菜を煮込んだもので、この日のメニューは「イカタジン」でした。イカの腹にクスクスを詰めて輪切りにしたもので、いわば日本のイカ飯のようなものです。

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 厚い城壁に沿ってブラブラと歩いていると、たぶんお孫さんだと思うのですが、遊ばせているお祖父さんとアイコンタクトとなり、写真を撮ってもいいかと訊くと手を挙げてOKしてくれました。お祖父さんもお孫さんたちもとてもいい笑顔で、今でも思い出してしまいます。今でも元気で遊んでいるのでしょうか。

 

モロッコ名物のタジン鍋とモロッコ一の赤ワインをたっぷりと飲んで大満足でした。同じテーブルについたKさんはツアー客の中では最も若く、最も酒豪で、以降飲み仲間として同じテーブル(毎回自由)につく機会が多かったのですが、なんと昼食にアルコール禁止ということが何回かあり、二人して顔を見合わせて愕然としました。昼間から酒が飲めるのが旅の楽しみなのに・・・。

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2015年12月19日 (土)

往く年来る年 1月 津軽三味線

今年も残すところ10日余りとなりました。毎年この時期に1年を振り返ることにしています。過去を振り返ってもしょうがないのですが、印象に残っていることもあり、結構忘れていることもあります。1年という時間が過ぎたわけで、振り返ってみると、元気だったことに我ながら驚きますが、新しい年にも同じように元気でいられるかいささか不安にもなるのです。

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 01/01 毎年初詣には川崎大師や鎌倉など何カ所か出かけるのですが、最初は近場の「観音禅寺」という曹洞宗のお寺です。ここでは年に一度涅槃蔵を拝むことができます。穏やかな顔で横たわっている姿にこの一年健やかに過ごさせていただきたいと手を合わせました。

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 01/07 以前は、年何回かは箱根の旧道歩きに出かけたのですが年々その回数は減っています。今年も結局この日に行ったきりでした。ここの石畳は江戸時代の石畳で、ということはこんな細い道を大名が参勤交代で往来していたわけで、この時期のこんな寒い日にそんなことを考えながら歩いている自分は根暗なのかなあと思ったりもしました。

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 01/09 丹沢登山もできたら月に一回くらい出かけたいと思ってはいたのですが、今年はほんの数回しか登ることができませんでした。早朝6時に歩き始めました。登山道は真っ暗でしたのでヘッドランプを装着して歩くこと1時間、東の空が急に赤くなって御来光を見ることができました。

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 丹沢名物の長々と続く “バカ尾根” を登るバカ(自分ことですが)が汗びっしょりになって悪戦苦闘すること3時間40分、最後の登りにかかって上を見上げるとこれ以上ない青空が待っていてくれました。汗をかきかき眺めるこの青空が好きなのです。

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 富士山と仏像達を眺めて、ようやく新年気分と新しい年が始まるぞという覚悟ができました。

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 01/13 前の年に沖縄の「島唄ライブ」にでかけ感動しました。もう一つライブを見たいと思っていたのが「津軽三味線」でした。1/13から23日のフリーツアーに参加しました。宿泊は「星野リゾート青森屋」で星野リゾート系列は初めての宿泊でした。ライブの前座は、誰でもできるというスコップ三味線で、勇気のあるお客さんがスコップ片手に参加して、結構様になっていて会場は大爆笑で盛り上がりました。

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 01/13 雪がシンシンと降る中、響きを確かめるようなバチの音、会場は固唾をのんでシーンとしました。時には消え入りそうな静かな響きから猛吹雪のような怒濤の叩きへ、観客からはその盛り上がりに応えるように拍手がわき上がり、何ともいえない一体感と感動に包まれました。

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 1/14 オプショナルツアー「八甲田山・酸ヶ湯巡り」に参加しました。 折しも高倉健が亡くなったということもあり、彼の主演した映画、最も過酷だったといわれるロケなど話題になっている「八甲田山」それも雪の八甲田には是非行きたいと思っていました。

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 01/14ロープウェーで八甲田山に着いてみれば、樹氷ではなく白いモンスターが並んでいました。揃いも揃って同じ方向をじっと見つめているようでおかしいようでもあり、不気味でもありました。

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 01/14 この地域は世界でも有数の豪雪地帯でもあり、明治35年に青森の歩兵第五連帯が雪中行軍の演習中に猛吹雪に遭遇し、210名中199名が遭難した事件が発生しました。映画化された「八甲田山」で、現在でも陸上自衛隊青森駐屯地に駐屯する第五普通科連隊は、毎年厳冬期に八甲田山系での冬季雪中演習を行っているそうです。私はかなりの防寒対策をして臨んだのですが、15分ももちませんでした。特に、カメラのシャッターを切るために手袋を外したとたんに寒いというより痛いという感覚で耐えきれませんでした。

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 01/14 八甲田山の後は温泉でした。東北地方が豪雪に見舞われた時など、「酸ヶ湯温泉」が雪に埋もれたシーンをTVでしばしば目にしたものですが、この日の印象はそれほど凄いという印象ではありませんでした。それでもここに来るまでの雪の壁は高く、除雪作業などは大変だろうなあと思いました。

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 01/14 暖簾をくぐると “混浴マナーにご協力ください” という注意事項が目につきました。完全混浴ではなく、浴槽の中央を示す標識があり、目に見えない国境線がありました。実際に入ってみて、湯煙で見えないということもなく顔までははっきりわからないもののかなり・・・でした。首から上だけを出してお見合い状態で、何となく目を逸らすという落ち着かない状態でした。ツアーは女性が7割くらいで、何組かの夫婦がいましたが、夫婦で入っていたのは1組だけでうちのカミさんも含めて他の奥様は女性専用風呂に避難しました。

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 01/15 フリーツアーですので、それぞれ勝手に行動できましたので、八戸市の「八食センター」で、先ずは遅めの昼食をとることにしました。ここには「七厘村」という炭火焼きのコーナーがあり、館内の魚屋で好きな食材を選ぶことになっていて、バーベキューセット(1,500円)を選びました。

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 01/15 300円の料金を払ってテーブルに着くと火を起こした七厘が運ばれ、あとは自分で好きなように焼いて食べるというもので、お酒類も館内で買ってきて持ち込めますので、飲みながら新鮮な魚介類を美味しく食べました。ホタテは炭火焼きで、ホッキ貝は刺身でと。

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昼食は炭火焼きにして、新幹線の中で食べる夕食にはお持ち帰り鮨(800円)をゲットしました。

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 1/15 帰りは八食センター発のバスで八戸駅に戻り、夕方の東北新幹線で戻りました。2泊3日のフリーツアーで、雪の中での温泉三昧や津軽三味線、なかなか行く機会のない八甲田山や奥入瀬渓流など、温泉と雪景色を楽しむことができました。雪で苦労している北の国の皆さんには申し訳ないとは思うのですが・・・。連泊した、初めての「星野リゾート」は前評判通りで、これからも機会があれば泊まってみたいものです。

華やかだった沖縄の「島唄ライブ」もよかったのですが、津軽三味線の素朴な力強さも魅力的でした。沖縄の三線と津軽の三味線、二つの同じような楽器ですが、まったく異なる趣はそれぞれ素晴らしいものでした。

箱根旧道歩きや丹沢登山で明けた新しい年でしたが、2016年も同じように元気でいられるかちょっと心配ではあります。

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2015年12月17日 (木)

南米ペルー紀行19 ラストフライト

11/25(水) ロサンゼルスで思わぬ滞留となり、アメリカ大陸の主要都市なのでなんとかなるだろうとは思っていたのですが、全員一緒に帰れるか一抹の不安がありました。しかし11:55発のJAL成田行直行便で一緒に帰れるという連絡がありホッとしました。

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 緊急で宿泊したホテルは、「EMBASSY SUITES」という想定外に立派なホテルでした。この豪華なホテルが、乗り継ぎし損なったという暗い気持ちを多少なりとも払拭してくれましたし、成田までの直行便の手配がついたということもあって晴れ晴れとした気分でした。

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 朝食は各自自由にということでしたので、06:57レストランに向かいました。レストランもなかなかのものでした。

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 ホテルはロス空港の目の前にありましたので、部屋からは次から次に飛び立つ飛行機が見えました。数時間後には、成田までのラストフライトになると思うと、感慨深いものがありました。

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 09:22 ロス空港に着きました。11:25の搭乗予定でしたのでちょうどいい時間でした。空港には様々な車がひっきりなしに走っていました。

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 空港施設の入口では何ともノンビリとしたデモが行われていました。大空港の玄関口で、子どもも交えたデモは場違いのようでもあり、微笑ましくもあり、自由の国なんだなあと思ったりしました。

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 搭乗手続きのために並びました。ツアー仲間のほとんどは当初の便のウェブ予約をしていたのですが、ここで改めての座席の取り直しとなりました。私はプレミアムエコノミーで参加で、今回の振り替え便でも同様のシートが確保できたとのことでした。

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 プレミアムエコノミーではラウンジも使えることができましたので、他の4人の方と一緒に搭乗までの時間をここで過ごしました。

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 ラウンジでは酒は飲み放題ですが、気をつけないと飲み過ぎて搭乗してからひどい目に遭うことがありますのでほどほどに。

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 真っ先に海苔巻きに手が伸びました。シャリは固くてどうでもいい味でしたが、ワサビとガリと醤油の美味かったこと。

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 酒も食事もほどほどにして、出発までの時間寛ぎました。

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 大阪から参加のご夫婦も一緒で、マチュピチュでブヨに刺されてしきりに痒がっていました。刺されたことに気づかず、12日くらいの潜伏期間があったようで、ここにきて痒くなったとのことでした。私は、虫除けジェルを塗ってしっかりとブヨ対策をしましたので刺されませんでした。

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 搭乗口のボードには成田行き、11:55定刻通り出発予定とあり、ホッとしました。当初の予定では、ロスからサンフランシスコへ行って、この日の00:35発の予定でしたので、12時間遅れとなりました。仕事がある人など影響を受けた人もいましたが、ロス~サンフランシスコの移動がなくなりましたので、気分は多少楽でした。アメリカでの移動はセキュリティチェックは厳しいし、スーツケースに施錠はできないしと結構気が重かったのでした。

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 搭乗予定の機体の向こうには、真っ青な空が広がっていました。

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 予定通りの搭乗となり、私の席は一番前の窓側でした。プレミアムエコノミーでしたので、少しシートが広く、背もたれの角度も多少は深く倒せましたので楽でした。

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 一番前の席でしたので、決して長くはない脚ですが、思いっきり伸ばすこともできましたので、これも楽でした。

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 定刻にロス空港を飛び立ちました。羽田~サンフランシスコ~ロス~リマ~クスコ~リマ~ロス~成田と、7回のフライト、ナスカの遊覧飛行を入れると8回飛行機に乗ったことになり、これがラストフライトとなりました。

 

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 食前酒、一回目の食事、寝酒、二回目の食事と、飲んだり食べたり、時々読書をしてうつらうつらしているうちに11時間半は過ぎてしまいました。食事は、感動的に美味しかったのでした。

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 17:30 入国審査と税関を通過して、リムジンアバス乗り場へ。WiFiでとてもお世話になったK子さんと一緒になりました。K子さんは秋田までのフライトがなくなり羽田泊となりました。帰国が遅れたことにより医学研修の授業に出られなくなったとのこと。専攻は脳神経外科で、来年は医師国家試験を受けるとのこと、合格をお祈りいたします。いい先生になって下さい!

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 リムジンバスでみなとみらいに到着し、長いような短いような旅は終わりました。

 

どうなることかと思ったトラブルも12時間遅れの帰国となり、仕事の影響やK子さんのように勉学の影響を受けた人もいましたが、まあまあのリカバリーでした。ロスでの豪華ホテル宿泊はいい思い出になりました。

 

南米という遠い地への移動や高山都市への訪問で、風邪をひいた人数人、高山病に罹った人数人、ナスカ遊覧で飛行機酔いの人数人、マチュピチュのブヨ(マチュピチュ名物)に刺された人2人、マチュピチュで脚が攣った人1人、とまあそれぞれでしたが、全員無事に帰国しました。マイアミ在住の元気な日本人Hitomiさんに出会えたこと、ナスカ地上絵遊覧やマチュピチュ訪問が好天に恵まれたこと、大感謝です。

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2015年12月16日 (水)

南米ペルー紀行18 ロス滞留

11/24(火) 早朝のフライトでクスコを出発し、リマに着いて、リマからはロスへ、ロスからサンフランシスコへ、サンフランシスコからはラストフライトとなる羽田行きに乗るという綱渡り的な予定になっていました。特に、混雑が予想されるロスでのサンフランシスコ行きへのトランジットの時間は2時間くらいしかなく、上手く乗り継げるか心配はしていたのですが。

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 リマ行きのLAN航空機は予定通り07:00に離陸しました。クスコ空港を取り囲むアンデスの山と青い空、とても印象に残る空港でした。

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 離陸した機体は、まるで山登りをしているかのようにアンデスの山の傾斜と並行して上昇していきました。窓からはすぐ傍に山肌が迫っていて、ヒマラヤ遊覧飛行のようなもので、ワクワクしました。

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 しばらく上昇し続けた機体はようやく山脈の上に出て、アンデス山脈を見下ろす形となりました。

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 急に現れた白い峰々、白い雪を被っている山塊は標高4,000mを超えているといわれていますので、最も標高が高い頂あたりを飛んでいるようでした。

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 クスコからリマまでの1時間半のフライトは、とてもエキサイティングなものでした。あっという間にリマ空港に着陸し、目の前には女性オペレーターが操作するタラップというか、動く搭乗通路が目の前に迫っていました。

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 リマからは12:40発のロス行きの飛行機で、待ち時間が4時間もありましたので、お茶したりブラブラして時間を潰しました。

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 リマ空港は南米有数の空港ですので、たくさんの飛行機が搭乗前の整備で駐機していました。ここまでたくさんのフライトを重ねてきて順調でしたので、私たちの乗る予定の飛行機も順調に整備しているものと安心しきっていたのですが。

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 ノンビリと店先にあるプレインカ時代の遺跡を見たりして、クスコ市内にあったラルコ博物館などを思い出しながら、最後のペルーの時間を楽しんでいたのですが。

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 搭乗口のボードには、11:44という現在時刻と12:40という出発時刻が表示され、あと30分くらいで搭乗かなあと思っていたのですが。

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 11:55 出発時間の45分前になって、搭乗しようと待っていた人たちのため息と妙な動きが始まり、不吉な予感が。ツアーコンダクターのYさんによると、搭乗予定機がこちらに向かっていないので、2時間後にどうなるかのアナウンスがあるということでした。

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 Yさんによると、今までの順調さが不思議なくらいLAN航空はトラブルメーカーとのこと。今更それはないでしょう! と突っ込みたくなりましたが、仕方ありませんでした。適当に昼食をとったりして時間を潰すことにしました。

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 15:33 最初の予定時間(12:40)より3時間遅れの搭乗となり、この時点で完全にロスからサンフランシスコ行きの飛行機には間に合わないことになり、その事は即ちサンフランシスコからの羽田行きには乗れないということでした。予定通りの(11/26の早朝羽田着)帰国はできないということになりました。

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 21:11(アメリカ時間) この時間は、予定通りならロスからサンフランシスコへのフライト(21:00)がスタートした時間ですが、私たちはようやく南米大陸から北米大陸に入りロス目前の上空にさしかかったという状況で絶望的だったのですが、まあロスに着けばなんとかなるだろうという淡い期待を抱いていました。

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 21:56 ロス市街の灯が見えてきました。ツアー第一日目にも見た煌々と輝いている明かりで、その時はこれから始まる旅への期待が高まったのですが、今回は、私たち一行はどうなるのだろうか、私たちが全員乗れる飛行機が手配できるのだろうかという不安が一杯でした。

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 23:36 とりあえずは、この日はロス市内のホテルに宿泊することにして、シャトルバスを待ちました。シャトルバスはなかなか現れず、難民になった気分でした。

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 00:25 真夜中、なんとかロスのホテルに到着しました。

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 この日は、早朝04:30にクスコのホテルを出発しましたので、長い長い一日となり、おまけに帰国便がどうなるかまだわかってはいませんでしたので、ホテルのロビーでチェックイン手続きを待つ間、全員グッタリしていました。

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 このホテルでの予定外の宿泊は、遅延したLAN航空の費用負担ということになっていましたので、あまりいいホテルには泊まれないだろうと覚悟していたのですが、ツアーで宿泊したどのホテルより高級そうで、とりあえずはホッとしました。

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 指定された部屋に向かって、エレベーターで移動すると、高級マンションのようなホテルでビックリ。

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 部屋はスイートルームのように広く、得した気分でした。しかしもう夜中の1時、ベッドに潜り込みました。

 

思わぬ展開でロスに宿泊することになりました。翌日まだどうなるかわからなかったのですが、東京から来ていたOLさん二人組は、どうせならロス市内観光しましょうなどと元気一杯で、さすが若い人は気分転換が早く、こちらもそれもいいかもと思ったりもしました。

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2015年12月15日 (火)

南米ペルー紀行17 クスコ出発

11/23(月)~24(火) マチュピチュ村でたっぷりと時間を過ごし、来た時と同様列車でクスコへ向かい、クスコからリマへと飛行機で移動しました。

 

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マチュピチュ駅周辺にようやく日暮れが訪れてきました。あたりは急に冷え込んできて、まわりも暗くなってきました。

 

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列車の発車予定時間は18:20、私たちは少しゆとりをもって改札口へと向かいました。

 

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 列車はゆっくりとホームに入ってきて、私たちは指定の車両へと向かいました。列車に乗り込む時、パスポートとチケットの提示を求められました。

 

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 乗車して、荷物置き場にリュックを置いて指定された座席に行くと、後ろ姿からは外国人かハーフかと思うような女性が通路側に座っていましたので、英語で語りかけたところシャキシャキの日本語が返ってきました。何と、東広島市西条町という何回か訪ねたことがある酒どころ出身のHitomiさんという日本人女性でした。アメリカのマイアミに住んでいて、ご主人がスウェーデン人(イケア勤務)で、Hitomiさんはアルゼンチンの広告代理店のデザイナーとのこと。マイアミには日本人が少なく、日本語に飢えていたとかで、終点までの2時間近く、お互いに飽きもせず話が弾みました。

 

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 私たちツアー一行の他は外国人ばかりで、Hitomiさんは外国人との隣り合わせではなくて私たち日本人との同席であることを喜んでくれました。話の中で、なんで外の景色が見えない夜の列車に乗っているのかと聞かれ、それは多分この時間帯は料金が安いからということをHitomiさんから教えられました。なるほど、昼間の明るい時間帯は料金が高く、夜は安いということがわかりました。少しくらい高くなってもよかったのにとちょっと残念でした。

 

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 20:12 Hitomiさんとワイワイガヤガヤ話をしているうちに終着駅に着きました。Hitomiさんとはお互いの旅の無事を祈りつつ、ここでお別れしました。

 

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 20:53 予定では、夕食はホテルに着いてからということになっていたのですが、それでは22:00過ぎになってしまいますし、ホテルでの予定メニューのパスタは美味しいそうでもないということで、急遽途中のレストランでとることになりました。素晴らしいレストランに連れて行ってもらいました。

 

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飛び入りで、アンデスのフォルクローレの演奏が始まりました。哀愁を帯びた独特の音色とメロディーが響きました。旅の思い出に千円のCDを買いました。

 

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メインの料理はサーモンのフライで、サーモンはしっとりとして脂っこくなく、ツアー全体を通じてはリマの海辺のレストランで食べたシーフードに次いで美味しかったのでした。

 

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 デザートも、フルーツの種類が多く、これも美味しかったのでした。

 

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 レストランの雰囲気は品格があってとてもよかったのですが、礼拝堂もあり、アンデス山中にこれほど立派なレストランがあるとは思いもよりませんでした。

 

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 05:15 前日は22:30にホテルに着き、この日は04:30出発という超ハードなスケジュールでしたが、全員寝坊することもなく遅れることもなく、順調にクスコの空港に着きました。ポーターさんが私たちのスーツケースを運んでくれました。帰国への長いフライトの始まりでした。

 

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 05:22 リマ行きのフライトは07:00でしたので時間はあり、早朝で空いている搭乗手続きもスムーズでした。

 

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 05:33 現地ガイドのマルセロさんとはここでお別れでした。とても情熱的な人で、もう一度日本に行きたいと何回も言っていました。

 

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 06:30 リマ行きフライトの搭乗開始となりました。羽田~サンフランシスコ~ロス~リマ~クスコ~リマと、5回目のフライトでした。

 

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 インカ帝国の首都クスコ、標高3,400mの高山都市クスコともお別れでした。リマ空港に向けて、出発しました。

 

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 マチュピチュからの列車で一緒になったHitomiさんから、写真とメールを送っていただきました。Hitomiさんは、ボリビアなど南米を2週間ほど一人旅されて無事にマイアミの自宅に戻ったとのこと。私の記憶違いでなければマチュピチュ山にも登ったとか。南米一人旅の話などもっとお聞きしたかったのですが、あっという間の2時間でした。窓の外は真暗闇で退屈な時間になるはずだったのが、Hitomiさんのおかげで楽しい列車旅となりました。

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2015年12月14日 (月)

南米ペルー紀行16 マチュピチュ村

11/23(月) 3時間のマチュピチュ散策を終え、私たちはシャトルバスでマチュピチュ村へと戻りました。

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 マチュピチュを去る時間がきました。ターミナルにはたくさんの観光客が帰りのシャトルバスを待っていました。

 

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 私たちが帰りのシャトルバスに乗り込んでいる合間にも、これから観光しようという人たちが続々とバスから降りてきました。

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 バスの窓からワクワクしながら眺めた、いくつもが折り重なっているようなアンデスの山々に別れを告げました。空中都市のマチュピチュの景色は忘れませんが、山深いこの風景も忘れがたいものです。

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 シャトルバスを降りて、レストランへと向かいました。貨物車のレールが敷かれていて、その両側にショップが軒を連ねていて、まるで台湾の十份みたいなところでした。とにかく夏の陽射しが強烈でした。

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 雨にも降られず、青空の下でマチュピチュ観光ができたことに乾杯しました。

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 昼食の前菜はコロッケのようなものでまあまあ美味しかったのでした。

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 メインは、ビーフとタマネギ炒めで、こちらもごく普通に美味しく食べました。

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 この日は、夕方出発の予定でそれまで時間がたっぷりありましたので、マチュピチュ村を散策することにしました。駅前には大きな岩というか小さな山というかが聳えていました。マチュピチュ村は山間の小さな村でした。

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 昨晩、暗い中をドヤドヤと列車を降りましたので、周りの風景がどうなっているのかわかりませんでしたが、改札口はとても小さくローカル駅の趣でした。

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 駅前広場はとても小さな広場でしたが、ここもアルマス広場でした。

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 広場の真ん中にある銅像は、第9代皇帝パチャクテク。この皇帝は、クスコの谷から南米の文明的なエリアのほぼ全域に統治を広げたそうです。そういえば、マチュピチュ村の初代村長は日本人の野内与吉という人で、その縁があって福島県大玉村とマチュピチュ村とは友好都市となったとのこと。つい最近のニュースで知りました。

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 駅前にはマーケットもありました。現地ガイドのマルセロさんは、マチュピチュは南米一物価が高いと何回も言っていましたし、前日お土産屋でたっぷり時間を取りましたので、ここではざっと眺めるだけでした。

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 集合は、最初はマチュピチュ駅前となっていたのですが、ホテルのロビーにということになり、ホテルへと戻りました。

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 前日夜遅くチェックインし、この日の朝は慌ただしくマチュピチュ観光に出かけましたので、ホテルの全貌を見ることができませんでしたが、このホテルに限らず、他のホテルも小山に挟まれた渓谷のようなところで肩を寄せ合っていることがわかりました。

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 大きなホテルではありませんが、村のホテルにしてはかなりオシャレで洗練されていました。マチュピチュの麓ですから、きっと料金はかなり高いと思われました。帰国後、料金を調べてみると1泊のルームチャージが25,000円くらいでした。

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 フロントを通り抜けると宿泊棟が左側に、レストランやバーは右側に配置されていました。口コミなどでもとても評判がいいオシャレなホテルでした。

 

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 私たちは時間がくるまでしばらくバーで時間を潰しました。

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 最終的にはロビーに場所を移して時間がくるまでボンヤリと通りを眺めたりしていました。

 

列車の発車時間まで5時間近くあり、マチュピチュ村散策は30分くらいで終わってしまい、とても長い待ち時間を過ごしました。もっと早い列車に乗りたいと思いましたが、この村で過ごした何もすることがない長い時間はとても印象に残りました。

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2015年12月13日 (日)

南米ペルー紀行15 マチュピチュ・水路

11/23(月) ゆっくりと時間をかけてマチュピチュでの空中散歩を楽しみました。

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 多くの人骨が発掘されていて、ほとんどは大人で50歳以上の年寄りが多く、ここでの生活はかなり健康的で平和的であったといわれています。いたるところで石が切り出され、組み立てられていますので、よほどたくさんの石工が居たと思われ、職人達はかなり遠方からも来ていたようです。

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 足下を見ると水路があり、僅かですが水が流れていました。水源はどこなのだろうかとまわりを見回したのですが、石と石組みの建物があるだけでした。おそらく豊富な山の水(地下水脈)と雨期の水を利用しているのだろうといわれています。

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 太陽神殿の全貌を見ることができました。1階部分は大きな石をそのまま利用して、2階部分はカミソリの刃も入らないといわれるくらい隙間なく石が積まれています。2階には窓が二つあり、左の窓から日が差し込む時は冬至、右の窓から日が差し込む時は夏至と区別できるようになっています。

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 よくよく眺めれば、マチュピチュは石の都市です。よほどたくさんの石工が働いていたと思われ、それにしてもこの都市の建設には膨大な時間がかかったと思われます。

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 太陽の神殿のようなスポットではガイドさんの説明が長くなり、ちょっとした渋滞が起こることもありましたが、ガイドさん同士の気配りと連携で観光客は比較的スムーズに流れていました。多分、世界中から観光客がどっと押し寄せていますので、慣れているものと思われました。

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 上の方で見た水路がここにも引かれていました。全部で16の水汲み場があるそうです。水がどの様に流れているかを知るには、たくさんの石をどけないとわからないともいわれています。やれやれです。

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 私たち素人がカメラを持って写真を撮っている姿はたくさん見ましたが、本格的なカメラを持っている人の姿はとても少なくちょっと意外でした。バッグやリュックの持ち込み制限のためか、あるいはマチュピチュの本格的な写真はたくさん撮られているためでしょうか。

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 マチュピチュ観光は、足が達者でないと大変かもしれません。ほとんどの道は上るか下るかで、ツアー仲間の1人は脚が攣っていました。

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 マチュピチュのシンボルのようになっている “若い峰” が随分近くに見えるようになってきました。その向こうには夏の積乱雲のような白い雲が湧き上がってきていました。

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 インティワタナ(太陽をつなぐもの) といわれる一種の日時計と考えられている石です。処女たちを生贄にしたといわれる台座上の遺構も太陽を観測するものと考えられています。

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 ここは 若い峰 の登山口で、しっかりとした門があり、門番もいました。ここでの登山は67時と1011時の2回に分けられ200人ずつという入場制限があり、入口で名前を書けばいいそうです。山頂には遺跡もあり、景色も素晴らしいために結構登る人がいるようです。

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 こんな石段を下るのにもおっかなびっくりですから 若い峰 登山はとても無理です。

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 太陽の光を観測する鏡のようなツールが地面につくられていました。水が張られていて、太陽を見ることができ、マチュピチュは太陽を観測する都市という説を裏付けるものがここにもありました。

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 足下には、山肌に削られた細いバス道が見えました。この細い道をシャトルバスは何台もすれ違って行き来しているのです。

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 最後の居住地域の通路、大きな岩の姿をそのまま利用し、その下部や上部に石を積んでいる造形はセンスが感じられました。高度な技術を持ったたくさんの石工が遠方からも集められたとのこと。職人とともに都市設計のデザイナーやディレクターなどもいたことが想像されました。

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 3時間の空中散歩は終わりました。最後にマチュピチュの全貌を目に焼き付けました。

 

TVや雑誌などでよく見たマチュピチュ山は、山奥の高地に築かれたという天空都市という特異性だけではなく、石を切り出して組み立てた高度な技術の都市、斜面を有効利用した段々畑の都市、どこをどう通っているのかわからない水路が導かれている都市で、 百聞は一見に如かず でした。

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2015年12月12日 (土)

南米ペルー紀行14 マチュピチュ・太陽の神殿

11/23(月) 天空の都市といわれるマチュピチュに入りました。

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 マチュピチュは、アンデス山脈の尾根に築かれたインカ帝国の遺跡です。アメリカの探検家ビンガムという人が、この地域の古いインカ時代の道を探していた時、1911年に山の上にこの遺跡を発見したそうです。今からちょうど100年前のことです。

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 アンデス文明は文字を持っていませんでしたので、この遺跡が何のために造られたのかわかりません。一つの説では、スペインに侵略されて追い詰められたともいわれています。外敵の侵入を見張るためか、尾根の突き出た見晴らしのいいところに見晴らし小屋があります。珍しいことに茅葺きの屋根でした。

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 上の方に上っていくと石が積まれた壁がいくつも直線的に並んでいました。マチュピチュ自体が、何のために造られたのかわかりませんので、これも何のためかわかりません。ここでの生活を想像してみたりしたのですが、皆目わかりませんでした。

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 アルパカがノンビリと草を食んでいました。このアルパカは賑わいを演出するためのものだそうですが、キッチリと管理されていて、もう少し大きくなると食べられてしまうそうです。

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 眼下の居住区から見るとかなり上の方に位置する場所では、建造途中の石壁が目につきました。

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 1911年に発見されて以来、何のための都市なのかについてさまざまな説がとなえられてきました。要塞であったとか、太陽を崇める神官達が統治したとか。15世紀のインカ帝国時代のものですが、発見からまだ100年しか経っていないせいか、謎が多すぎるのです。日本の安土城は16世紀(1576年)のもので、それより1世紀古いのですが、それにしてもやはり謎が多すぎます。

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 遺跡への興味は尽きないのですが、マチュピチュが深い山の中にあることも興味がそそられます。発見したビンガムは古いインカ道を探したとのことですが、どんな道を辿ったのか興味があります。マチュピチュを取り囲む山々はインカ道でつながれていたとのことで、遠くに見える山の中には細い道があるはずです。

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 近くに見える山をよく見ると、トラバースするような細い道や草に覆われた石段などが見えました。現地ガイドのマルセロさんによると、インカ道トレッキング34日というコースもあるそうです。

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 間近に見る居住区の遺跡は、とてもしっかりときちんと設計されているようでした。この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族のための避暑地や別荘であったといわれています。王族の生活を支える職員の住居もあり、最大で750人くらいが住んでいたのではないかと推定されています。

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 見晴らし小屋の下に並ぶ段々畑は畑です。ここではインカ農法が行われていて、大変収穫量を誇ったそうです。とても雨が多いところですので、土砂が流出しないような工夫が施されていたそうです。

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 観光客は想像したほど多くはありませんでしたが、少なくもありませんでした。しかし、遺跡の中は結構広いために、傾斜がきつい場所を除いてはほとんど渋滞はなく、快適に観光することができました。

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 場所によっては、足下に急斜面が現れ緊張する瞬間もありました。これだけの急斜面に雨が降ったら土砂崩れや土砂の流出が心配されるのですが、大丈夫とのこと。高所恐怖症の人には暮らせないようなところです。

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 見晴らし小屋を見上げるとその先にはマチュピチュ山が聳えていました。マチュピチュは、居住区を除けば急斜面のところが多く、雨の日の観光は大変だろうなあとも思いました。

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 居住区の遺跡は、全て石が積まれ組み合わされたものですが、しっかりどっしりとしていて、600年の風雪にもびくともしていませんでした。遺跡の中を巡っていると、今でも生活している人が現れるような気がしてきて、600年という昔がそれ程遠い昔ではないような気がしました。

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 これは、建築用に切り出され整形された石です。マチュピチュは大きな岩山に築かれた都市なのですが、建築用の石材は、その岩山から切り出されました。

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 こちらは、斜面に沿って直線的に切り拓かれた段々畑です。非常に効率的な土地の利用が図られていたことがわかります。600年という歳月がそれほど遠いことのようには思われないのですが、それにしては謎が多いのです。

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 これは、太陽の神殿の周りを取り囲むように気づかれた石の壁。堅固な要塞のようにも見えました。

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 マチュピチュは、なぜ急峻な山の上に造られたのかという問に対して、最近は高地であり、かつ両側が切り立った崖上になっているため、太陽観測に適し、かつ宗教的理念として、太陽に近いところということで、この場所が選ばれたといわれています。この太陽の神殿には、夏至と冬至が正確にわかる窓があるといわれ、太陽を使った暦を観測、作成したともいわれています。

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 これは、太陽の神殿の1階部分です。大きな岩をそのまま利用して、祭壇を造ったり石を積み重ねて補強したりと、随所に工夫が凝らされていいます。積まれた石の隙間にはカミソリの刃さえ入らないといわれるほど、石は隙間なく積まれています。

 

インカの神は日本と同じ太陽神であるため、太陽により近い山の頂は儀礼場として相応しく、神殿の畑(段々畑)で栽培された農作物は神への供物として栽培されていたか、神から下賜されたものとして人々が食べたともいわれていて、そのようなことから、現在、マチュピチュは宗教都市ともいわれているそうです。傾斜を上手く利用して拓かれた段々畑は、また別の色を帯びてきました。

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2015年12月11日 (金)

南米ペルー紀行13 マチュピチュ・若い峰

11/23(月) ツアー6日目、観光のハイライト マチュピチュ の日となりました。

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 09:30 ホテルのロビーに集合。リマからクスコまでの飛行機移動、クスコからのアンデス山中ドライブ、電車によるマチュピチュ入りと、昨日の慌ただしさや疲れも一晩寝て癒やされ、元気に全員集合でした。ツアーコンダクターのYさんも現地ガイドのマルセロさんも張り切っていました。

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 マチュピチュへは、歩いて行くことを別にすればシャトルバスでしか行けません。決して広くないマチュピチュ村のターミナルにはシャトルバスがずらりと並んでいました。たくさんの観光客も私達も、比較的お行儀よくバスに乗り込みました。

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 定員分の乗客が乗るとバスは順次出発しました。

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 バスは発車して間もなく、大きな岩山の間を縫うように、グングン高度を上げました。こんな先に、人が住むなんて、ましてや空中都市ができているなんてやはり信じられない気持ちでした。

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 ちょっとした広場のようなところがターミナルでした。TVなどでは観光客でごった返している入場口の映像をよく見ましたので混雑を覚悟していたのですが、朝早いせいか比較的空いていてホッとしました。入場するには小さなリュックや手荷物という制限がついていました。ペットボトルの持ち込み禁止ということも聞いていたのですが、それはOKで、入場に際して特にうるさくいう感じではなくおおらかなものでした。

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 入場口からは山の斜面を切り開いた道を進みました。マチュピチュの標高は2,430mで、前日のクスコが3,400mでしたので高度順応はできていて高山病の心配はまったくありませんでした。

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 眼下には、深い渓谷が見えました。私達が出発したマチュピチュ村にある貨物車の駐車場も見え、マチュピチュ村が渓谷に沿ってつくられた村であることがわかりました。

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 マチュピチュの位置は、熱帯山岳地帯の中央に位置しています。

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 現地ガイドのマルセロさんが、マチュピチュはジャングルの中とよく言っていましたが、アンデスの山の中であり、たくさんの山が連なってやがてはジャングルになるということでしょうか。そのために天気が変わりやすく、23日前までは雨が降っていたそうです。目の前の切り立った山がどこまでも連なっている景観は、ここがとてつもなく山深い場所であることがわかりました。

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 上空を見上げると青空が広がっていて、ひときわ高い頂が天を突いていました。標高3,082mのマチュピチュ山です。マチュピチュ周辺の山には入場制限があってなかなか登山はできないそうですが、マチュピチュ山は制限がなく、穴場ともいわれているそうです。

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 やがて、石組みの壁や建物が現れました。ぎっしりと石は組み合わされていて、しっかりとした都市造りが行われていたことが想像されました。最初に思ったのは、やはりこんな山の中にということでした。

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 実際に歩いてみると、石段が多く、この都市の下と上ではかなりの標高差がありました。息苦しくはありませんでしたが、かなりの上りでちょっと息が切れたりもしました。

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 やがてTVでよく見た景色が目に飛び込んできました。マチュピチュは先住民族(ケチュア族)の言葉で “古い峰” というそうです。足下に遺跡が広がり、遺跡の向こうに聳える尖った山が “若い峰” で、標高2,720mです。

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 出かける前は、会いたい見たいと思っていた現場に立つとどんな気持ちになるだろうかと思うのですが、それほどの感慨はわかないもので、これはエベレストを初めて間近に見た時もそうでした。きっと、無我夢中で景色を見たり、今でも謎といわれる何の目的でこの都市がつくられたのか、そういったことを夢中で考えてしまうせいかもしれません。感慨は帰国してから数日して改めてズシーンとくるようです。

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 何気なく見える石積みも、大きな石と小さな石を組み合わせて、かなり考えて組み立てられていました。この都市の周りにはこういった石組みのカ所が何ヵ所もあり、堅固な都市造りが行われたようです。TVなどでよく見るマチュピチュの景色に比べて、実際にはかなりダイナミックなものでした。

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 想像以上に石段が多く、燦々と降り注ぐ真夏の太陽の下での上り下りはかなり汗をかきました。疲れて石段にへたり込む人もいました。

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 石段を上の方の上の方に上ってゆくと、標高2,720mの 若い峰 も同じくらいの高さに見えるようになりました。 若い峰 の山頂には神官の住居跡と思われる遺跡や、マチュピチュの太陽の神殿に対して月の神殿があるそうです。

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 上から足下を眺めると、段々畑の先はそのまま谷底に落ち込んでしまうかと思えるほど急傾斜でした。これは多分この岩山の地形そのままを利用したためと思われるのですが、こんなところでの生活は想像できません。

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 この段々畑の高さは3m40段あり、3,000段の階段でつながっているとのことで、想像以上にスケールの大きな遺跡でした。

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 遺跡全体の広さは13km2とのことで、かなり広いのです。TVで、マチュピチュに行った人が 箱庭のよう と言っていましたが、その人は何を見たのでしょうか。正面の 若い峰 に何人か上っている人がいました。登山制限がなかった数年前までは、墜落する人や自殺する人が随分いたそうで、現在は登山には許可が必要で、登山口には管理人がいるそうで、山頂まで往復すると23時間かかるそうです。

 

遠くから見ると小さく見えるマチュピチュ遺跡は想像以上にスケールが大きくまたアップダウンの標高差もかなりあるように思えました。見たり、知ることによって心が豊かになることがあります。憧れのスターやスター選手に会うことによって心が豊かになり、人生の励ましになったりすることがあります。最後の桃源郷といわれたパキスタンの山奥に咲いていた満開の杏の花、高く聳えていたエベレスト、このマチュピチュも同じようなものなのかもしれません。

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2015年12月10日 (木)

南米ペルー紀行12 ペリーレール

11/22(日) クスコの市内観光を終えて、アンデスの山の中を走り、ペリーレールに乗り換えてマチュピチュ村へと向かいました。

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 クスコ市内観光にたっぷりと時間をかけた後、バスはアンデスの山の中を走りました。どんな村があって、どんな暮らしぶりか見たかったのですが、バスは山の中の道を爆走しました。時々現れる住宅は比較的オシャレで、使っている建材も日干し煉瓦ではなく木材や漆喰が使われていました。

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 住宅が、通りに面して軒を連ねているような場所もあり、どこにでも見かける山村のようでした。

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 中には、邸宅といえるようなしっかりとした住宅もあり、アンデス山中の村というよりも高原の町のような雰囲気でした。

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 時折姿を見せる山岳の姿は美しく、ここがアンデスの山の中であること思い出させてくれました。

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 18:12 日が暮れかかる頃、目指すペリーレイルの駅がある町の灯が眼下に眺められるようになりました。マチュピチュ行きの出発時間は19:00でしたから、間に合うのかなと不安にもなった瞬間でした。

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 18:49 ようやく切符売り場にある駅舎に着いたのが出発10分前で、現地ガイドのマルセロさんはひどく慌てていました。なんでクスコであんなにノンビリしたのかなあと思いつつ、早足で歩いたのでした。

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 私達は予約をしてあるはずでしたので切符売り場に並ぶ必要はなかったのですが、何人かの現地の人が慌てて切符を買っていました。

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 18:51 出発9分前。プラットホームはお土産屋が並んでいる通りのまだ先でした。

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 18:53 改札場では行列ができていて、それは自由席の行列のようで、私達は急げ! と促され、行列を避けてプラットホームへと急ぎました。

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 18:54 もうほとんどの乗客は乗り込んだようで、誰の姿も見えませんでした。プラットホームはなく、パスポートを見せ、地上からのステップを使って乗り込みました。

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 18:56 ハーハーいいながら乗り込んだのですが、私以外のツアー仲間はB号車でどういうわけか私1人だけC号車でした。乗客は全て外国人でした。

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 私の指定席券にはC48(C号車の48番:定員48人)とプリントされていました。私だけ外れクジをひいたような気分でした。

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 知っている人が誰もいなくて外人ばかり、話し相手もいなくてボンヤリしていましたら前のシートの外人女性が気を利かせてくれて写真を撮ってくれました。

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 C号車は最後尾の車両でしたので、後ろの方(トイレもありました)に行ってみると、灯りが灯っていて、何となく哀愁が感じられる夜の停車場の雰囲気でした。白いラインがあるところがプラットホームです。

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 20:57 窓の外は真っ暗で何も見えず、ボンヤリしていましたら終点のマチュピチュ駅に着きました。プラットホームに乗客がどっと出てきました。難民列車のようで可笑しくなりました。

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 誰も迷子になることもなくツアー一行が合流した後、ホテルへと向かいました。レストランの前にはテーブルが並んでいて、もう少し早い時間の列車に乗って、こういうところでノンビリできたらよかったのにとも思いました。

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 マチュピチュ村は、南米一物価が高いといわれているそうです。たくさんのホテルやレストランがあって、とても賑やかでした。

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 21:25 取るものとりあえず夕食にしました。スープとメインディッシュはポークの唐揚げで、私を含めて多くの人が食欲をなくしていました。

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 22:24 部屋はゆったりとして清潔でとてもよかったのですが、何はともあれベッドに潜り込みました。

 

ようやくマチュピチュ村に着きました。マチュピチュへのアクセスは鉄道のみになっていますので、できるなら車窓の景色を見たかったのですが、ツアー料金を低く押さえるために料金の安い夜のダイヤを選んだようです。多少高くなっても明るい車窓を見たかったというのが皆さんの意見のようでした。

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2015年12月 9日 (水)

南米ペルー紀行11 クスコ観光

11/22(日) リマから、アンデス山脈の光景を楽しみながらクスコに着きました。クスコは標高3,400mの高山都市で、高山病に気をつけながらの市内観光でした。

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 クスコの飛行場で待っていてくれたのは現地ガイドのマルセロさんでした。日本に滞在した経験があり、日本語ペラペラの情熱的なゴッドマザーでした。

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 飛行場から観光の中心地までは大した距離ではありませんでしたが、専用バスで移動しました。こちらは夏で陽射しは強いのですが、空気はヒンヤリとしていて、街の光景は高山都市特有の乾いた雰囲気でした。

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 バスを降りて歩いて行くと、普段着ではない衣装を着た学生達の姿が目につきました。この日は日曜日でしたので何かのイベントがあったのかもしれません。リマから離れた高山都市ですので、ここに住んでいる人達はアンデスの先住民族の雰囲気を持っているのかと思っていたのですが、想像に反して垢抜けていたのです。

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 クスコの街は、きちんと区画整理がされていて、都市計画に沿ってつくられたものと思われました。何となくスペインの街角(行ったことはありませんが)が思い浮かびました。

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 アルマス広場には多くの人が集まっていました。そういえば、リマでもアルマス広場がありました。アルマスとはスペイン語で 武器 という意味で、スペイン植民地時代に、警備する兵士や彼らが持っていた武器にその由来があり、ペルーのどの町にも中心にはアルマス広場があるとのこと、スペイン統治がいかに徹底したものだったかわかりました。

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 アルマス広場の一角にある芝生と花壇、とても不思議に思ったのは標高3,400mといえば、日本でいえば森林限界で、雑草一つも生きられないのにここでは芝生も樹木も青々としていること。

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 広場に面して立派なカテドラル(大聖堂)がある光景はリマのアルマス広場でも同じでした。違うのは、大聖堂の空と雲でした。青空が広がったかと思うと、白い雲が突然湧き出してきたりしていました。ここはアンデスの山の中でもあるのでした。

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 大聖堂の前には何かの儀式の清掃に身を包んだ紳士達が集まっていました。日曜日でしたので、ミサと同時に何かのイベントがあったのか、それにしても紳士達の表情や着こなしは、想像していたアンデスの高山都市に住む人達のイメージとはまったく異なるほど洗練されていました。

       

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 クスコの町では交通整理にあたっている婦人警官の姿などよく見かけました。この婦人警官はお店で買い物をしているのか、あるいは路上の販売が何か問題があって事情聴取しているのか。店先の少女の浮かない表情が気になりました。

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 ツアーの皆さんと一ヶ所に集合手いると、小さなお人形やアルパカなどの手芸品や毛糸で編んだカーディガンなどを売っている物売りのおばさんが必ず寄ってきました。私達日本人にとってはかなり安いので、皆さん結構買っていてかなり商売になっているようでした。

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 アルマス広場で寛いでいる人達は、外国人旅行客を除けば近郊の人々と思われたのですが、皆さん垢抜けていて、生活も豊かそうでした。

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 クスコの町は周りを山に囲まれていて、広場から放射線状に延びた街並みは丘陵に向かって少しずつ高くなっていました。整然とした街並みはやはりスペイン統治の賜物かもしれません。

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 事前にイメージしたアンデスの高山都市クスコに住む人々(ケチュア族)は、民族衣装に身を包んで観光客相手の商売をしていました。

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 ケチュア族の娘さんの代表的な商売は、手作りの工芸品を売るか写真を撮らせるかでした。ワンショット1ドルでした。腕には、アルパカと言っていましたがどうみても子羊を抱いていて、どの娘さん達も必ず子羊を抱いていて大事な商売道具のようです。現地ガイドのマルセロさんは、子羊は小さいうちから母羊から引き離され、大きくなったら食べられてしまうので可哀想と言っていました。

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 昼食は、広場に面したレストランでとりました。メインディッシュの他に、前菜としてヌードルやスープを選択できましたので、私は野菜をオーダーしました。出てきた前菜を見て、まるで酒のつまみでしたので、思い切ってビールを頼みました。

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 ここは標高3,400mですから高山病の心配はありますし、酔いが強くなる恐れもあったのですが、傍にいたドクターの卵のK子さんが 飲んでみたら! と言ってくれましたので、思い切って飲んでしまいました。確かに効きはよく、暫くすると雲の上にいるようにフワフワとしてきました。

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 急遽、オプショナルツアーでは参加者が少なくて中止になった フォルクローレ の演奏を聞かせてもらえることになりました。とはいえ、あちらも商売ですので演奏後にCDを売り込んでいましたが、買う人はいませんでした。演奏は独特の哀調を帯びた音色とメロディーで、伝わってくるものがあり聴き応えがありました。

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 昼食後、日本人が経営しているお土産屋に立ち寄り、酔った勢いで民族衣装を着たのですが、まったく様にもなっていませんでしたし、雰囲気も出ていませんでした。

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 観光の最後はサントドミンゴ教会に立ち寄りました。ここはもともとはインカ帝国時代に太陽神殿であったところですが、スペインがその太陽神殿の上に建てた教会です。インカ帝国はクスコを中心に1430年代頃からつくられ1533年にスペイン人によって滅ぼされるまで100年という短命で終わりました。

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 二重の扉をくぐり、神殿の大きな部屋に入ると、インカの世界観を表す金の板がありました。インカの世界観では、世界はコンドルが守る天上の世界、ピューマが守る地上の世界、蛇が守る地下の世界です。インカ帝国にはこのような黄金がたくさんありましたが、スペイン人によってことごとく持ち去られたとか。できたらもう少しインカ帝国のことがわかる博物館など見てみたかったのですが。

 

単なるアンデスの高山都市と思っていたクスコは、かつてのインカ帝国の中心地でした。しかしそれ故にスペインの統治により力が加わったのかもしれません。現地ガイドのマルセロさんに “ペルー人はスペインのことをどう思っているの?” とちょっと意地悪な質問をしました。答えは、現在は多くの人に中に、ペルーの血とスペインの血が混ざっているので、何ともいえないとのことで、マルセロさんのお祖父さんはスペイン人とのこと。

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2015年12月 8日 (火)

南米ペルー紀行10 高山都市クスコへ

11/22(日) ナスカの地上絵をしっかりと目に焼き付け、感動冷めやらぬままに300kmの道を戻り、次の目的マチュピチュ目指してクスコへと飛び立ちました。

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 17:17 ナスカから再びリマを目指して同じ道を300km、私達を乗せたバスは砂漠の道を快走しました。舗装されたこの道は、天空から眺めると砂漠の中をクネクネと這いずっているミミズのように見えた道です。

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 18:18 夕陽が沈んでいきました。ペルーはアンデスの国と思っていましたのでまさか海に沈む夕陽を見るとは思いませんでした。バスの中は、早朝(04:30)に出発して往復600kmのバス旅と地上絵遊覧の曲芸飛行でグッタリしている人が多く、シーンと静まりかえっていました。

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 20:19 ホテルに着いて夕食をいただきました。前菜のサラダは美味しく、メインディッシュも焼き肉タマネギ炒めみたいな物でまあまあでした。

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 07:20 日付が変わって11/22(日)になり、三連泊したリマを後にしました。

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 07:48 リマ空港に着きました。前日の疲れを見せず皆さん元気でした。若い人は勿論そうでない人も皆さんお元気でさすがに旅慣れている人達ばかりでした。前を歩く、東京から来たOLさんお二人は、秘境好みとのことで、ケニアにも行ったという強者なのです。

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 秘境好みのOLさんから先程届いたパンダの写真。ペルーに関係ない日本在住の南紀白浜の双子のパンダだそうです。この紀行記には関係ありませんが、南米にご一緒したOLさん、相変わらずお元気というご報告です。

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 07:51 空港の建物に入ると人がびっしり、さすが南米有数の都市リマの玄関口です。搭乗手続きに時間がかかりそうでしたが、09:30発のフライトでしたので時間はたっぷりありました。

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 09:01 搭乗手続きを終えて待合室で待っている間、ワンちゃんを見かけましたので飼い主に了解を得て写真を撮らせてもらいました。随分たくさん飛行機に乗りましたが、ペット連れの搭乗客は初めてでした。隣のおばちゃんの嬉しそうな顔。

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 09:16 飛行機に乗り込む搭乗通路は、いつも思うのですがまるで別世界への入口のようです。

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 10:03 クスコ行きLAN航空機は予定通り出発し、リマの飛行場と街並みを眼下に眺めました。帰路、まさかここでこの飛行機会社(LAN航空)にひどい目に遭うとは思いもよりませんでした。

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 10:09 機は、あっという間に雲海の上に出ました。リマからクスコまでは1時間20分のフライトですが、アンデスの山脈を見ることができそうで楽しみでした。

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 (画像はインターネットより転載) アンデス山脈は海抜3,700mで、南米大陸の西側を走っているとても長い山脈です。

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 10:31 短いフライトですから何も出ないかもしれないといわれていたのですが、飲み物と軽食用スナックが出されました。

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 10:44 雲の隙間から、白い雪をいただいた峰が時々見えました。

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 10:49 刻々と景色は変わりました。ゴツゴツとしたこぶのような山頂が連なったアンデス山脈。

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 10:56 アンデスの山脈を眺めているうちに滑走路が見えてきました。滑走路に周りには市街になっているようで建物がびっしりと建っていました。

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 11:08 クスコは、周りをアンデス山脈に囲まれた盆地のようなところに開かれた標高3,400mの高山都市です。富士登山で最も苦しさを感じる胸突き八丁(本八合目)と同じ標高です。ここから高山病との戦いが始まりました。

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 11:10 飛行機を降りると、先ず目についたのが旅行会社のカウンターで、クスコ観光は勿論マチュピチュ観光の手配もしているようでした。

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 11:22 預けておいたスーツケースを受け取ってから一仕事でした。マチュピチュに入るためには大きな荷物は持っていけませんので、ここで12日分の必要なものをスーツケース取りだし、スーツケースはしばらく預かってもらうことになっていました。

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 11:30 荷物の仕分けを終わって空港の外に出ると、出迎えの人達や現地ガイドさん達が待ち構えていました。とてもローカルな雰囲気で、アンデス山中の街に来たという感じがしました。

 

羽田を出発してから、このフライトで5回目の飛行機でした。飛行機がもう当たり前のような気分になっていました。ここまでは、何のトラブルもなかったですが。

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2015年12月 7日 (月)

南米ペルー紀行09 ナスカの地上絵

11/21(土) 今回のツアーの目玉の一つ、ナスカの地上絵を目にする瞬間がやってきました。イカという町は、県庁所在地で多様な文化を持った先住民が長い間住んできた町だそうです。また晴天日が多く、1年を通して温かい地域とのことで、ナスカはイカ郡の南部に位置する地域です。

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 地上絵遊覧の飛行機会社のカウンターには料金表が展示されていましたが、この日は17,000円とのことです。エベレストを眺めることができるヒマラヤ遊覧飛行の料金は24,000円くらいです。比べてみてどうでしょうか、高いのか安いのか。確かなことは、両方とも一見の価値があるということ。

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 カウンター脇に貼ってあったポスター、こんなにハッキリ見えるのかどうか、期待は高まりました。

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 チケットの購入申し込みにはパスポートが必要で、同時に体重を量るため順番に体重計に乗りました。

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 間もなくすると搭乗券が渡され、そこには10人乗りですので110の座席ナンバーがプリントされていました。私はシート番号7でした。ツアー総勢16名は二つのグループに分かれ、私は最初のグループでフライトすることになりました。

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 飛行の順路と見える絵のmapが渡されました。この順路を飛ぶとすると、ツアーコンダクターのYさんが言っていた 曲芸飛行 の意味がわかりました。そして、飛行酔いの心配もありましたが、私はヒマラヤ遊覧やもっと小型の飛行機には何回も乗っていましたし、船酔いも含めて絶対大丈夫でしたので心配はしませんでした。他の皆さんには申し訳ないのですが、むしろ曲芸飛行大歓迎でした。

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 搭乗前の、副操縦士との記念撮影。もし墜落したらこれが最後の写真になるんだろうな、などとは決して思いませんでした。

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 指定された座席に座った顔ぶれからみると、体重が重い人ほど前方のシートを指定されたようです。

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 待合室の2階からは、第二グループの皆さんが期待と不安の籠もった様子で見送ってくれました。

 

 

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 機体は轟音とともにフワーッと浮き上がり、あっという間にイカの町は眼下に広がっていました。地上を走っている時にはわかりませんでしたが、意外に街並みは大きく、たくさんの建物があるように見えました。

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 さらに驚いたことに、眼下には田畑が広がっていて、丁寧なパッチワークのようにとても綺麗に整備されていました。

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 やがて砂漠地帯上空に来ると、私達が走った道路は砂漠の真ん中の道で、まるでミミズが這いずっているようにも見えました。こういう景色を見るだけでも遊来飛行の価値はあります。

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 いつ地上絵が現れるか地上を注目していると、何もかもが地上絵のように見えてしまいました。

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 やがてやがて、最初に現れた「クジラ」は肉眼ではハッキリと見えたのですが、カメラで捕らえることができず、次に現れた「猿」はなんとか捉えることができました。この猿は、長さ55mとのこと。

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 これは「宇宙人」、副操縦士が日本語でアナウンスしてくれましたし、肉眼でもハッキリと捉えたのですが、曲芸飛行の上にカメラのモニターでは砂上のラインはハッキリ見えず、カメラで捉えるのはなかなか難しかったのでした。

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 これは「ハチドリ」で、なんとかカメラに写っていました。この規模は、長さ96mもあるそうです。

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 これは「コンドル」か? 肉眼ではハッキリ見えていたのですが。

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 眼下に、地上から地上絵を眺めることができる見晴台が見えてきました。ここからは絵は斜めにしか見えないとのことで、そうだろうなあと思いました。

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 やがて飛行機は帰路につきました。砂漠の中の道を走っている細い道に豆粒ほどの数台の車が見えました。地上絵は、1939年に発見されたそうですが、航空路ではない広大な砂漠の中でよく発見できたものです。地上絵はまだ他にもあるのではないかともいわれているそうです。

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 1時間近くのフライトを終えて、何と表現していいかわからないほど感動している中、第二陣の飛行機は離陸していきました。

 

最初に驚いたのは肉眼であんなに鮮明に見えるとは思ってもいませんでした。そして実際に地上絵を目にして、謎は深まるばかりでした。大体なんであんな場所に、誰が、何のために(雨乞いの儀式という説もありますが)。長さが数十メートルという絵の大きさは空から見ればわかることですが、地上で描く時にはとても難しいように思われますし、ハチドリや猿、宇宙人などと名前がついていますが、画いた人はそういう物を意識できていたのか、意図してそういう絵を描いたのか、疑問は深まるばかりでした。

 

大変だったのは、予想した通り、かなりの人が曲芸飛行ですっかり酔ってしまって、帰路に慌てて紙袋を口に当てていたり、地上に戻ったとたん長いすの上にのびてしまったりしていました。地上絵遊覧も大変なのでした。

 

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2015年12月 6日 (日)

南米ペルー紀行08 イカへ

11/21(土) ツアー4日目で、ようやくペルーの代表的な観光スポットに向かうことになりました。ナスカの地上絵があるイカという町を目指しました。

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 イカまでは300km、4時間の行程ですので04:30にホテル出発となりました。朝6時半という早朝のせいか、それとも砂漠の砂塵のせいか、高速道路の先はまるで霞がかかっているようでした。

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 砂の大地を走ったと思ったら、すっかりと砂漠の風景となりました。今年の2月に行ったモロッコのサハラ砂漠と同じような光景が広がっていました。

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 陽は高くなりつつあったのですが、砂塵のためにボンヤリとしか見えませんでした。ナスカの天気は大丈夫だろうかと心配になりました。

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 砂漠地帯を抜けると緑の畑も見えてきました。ペルーは、ジャガイモやお米やコーヒー、アスパラガスやサトウキビなどを産出している農産国であり、アンデス山脈を抱える山脈の国(高原植物もたくさんあります)でもあり、海に面した国でもあり、砂漠の国でもあります。

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 時々、小さな町が現れました。町にはいろいろな物を売っている店やお店の人、何となく歩いているように見える人などがいて、見飽きませんでした。

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 ちょっと大きな交差点でも信号はなく、それぞれの方向の車が勝手に走っていて、それでも何となく統制がとれていて、車の流れをハラハラしながら見るのも楽しかったです。道は舗装されているようなされていないような状態で、土埃が舞っていました。

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 買い物ができたり食事ができるような店やトイレがあるきちんとしたドライブインは無いのではないかと心配していましたら、ちょうど中間地点くらいのところに大きなドライブインがありました。

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 中に入ると、軽食ができるようなスナックコーナーあり、ここではSushiも食べさせてくれるようでした。カウンターに座っているのはどうも個人旅行の日本人とガイドのように見えました。今回のツアーではあまり日本人のツアー客には出会いませんでした。やはりペルーは遠いからでしょうか。

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 現地ガイドのミゲルさんお勧めのパイ包みのような物。パイ包みの中は野菜や肉などたくさんの種類があってどれにしたらいいか迷うほどでした。

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 私は、ビーフのパイ包みをオーダーしました。生地が薄く中身がどっしりと入っていて結構美味しかったのです。帰国してから調べてみると、ペルーは南米ではなかなかのグルメの国で美味しい物がたくさんあるとのことでしたが、ツアーではあまり食べる機会はありません。

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 ペルーの交通機関は、鉄道やバスなどの公共交通機関があまり発達していないようで、その代わりに小型のミニタクシーが至る所に走っていました。

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 イカまでの300kmの道は、高速道路だったり、砂漠の中だったり、田畑の真ん中の道だったり、舗装されていない道だったりいろいろでした。このあたりりの道は舗装されているのですが見通しのいい一車線でした。大きなトラックがゆっくり走っていると、なんとかトラックを追い越ししようとしてカーレースのようなシーンがしばしば見られ、その度にハラハラしました。

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 車が渋滞するような場所では、いろいろな物売りが車の側に寄ってきていました。トルコでも見た風景で、トルコでは花を売っている人がいましたが、ここではせいぜい新聞や飲み物くらいで、走っている車に近づいていましたので、それもまたハラハラしました。

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 ゆっくり走るトラックのために後続車が続く時もあれば、ほとんど前方に車が見えないので思いっきり走れる道もあり、遙か先まで見通せる道は気持ちのいいものでした。

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 さまざまに変わる町の風景は飽きませんでした。豊かそうな町やそうでない町、どんな生活をしているのだろうかと想像するのも飽きませんでした。舗装されていない土の道と土で作られた日干し煉瓦の家はたくさん見ました。

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 ここは比較的整備されている町で、道は舗装され、建物も区画整理された場所に建てられているようでした。首都リマを離れるとやはりインフラがほとんど整備されていないようで、この国はまだまだこれからなのだろうなあと思いました。そういえば、現地ガイドのミゲルさんによると、フジモリ大統領の時代には随分学校が建てられたとも言っていました。

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 ひときわ渋滞している交差点を右に入りました。

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 ようやく飛行場に着きました。リマを出発した時は砂塵のための空がどんよりとしていて天候が心配でしたが、飛行場に着いてみれば青空が広がっていて、風も微風状態で、絶好の飛行日和でした。

 

長いドライブでしたが、観光地ではない普通の町や人々の姿を見ることができ、とても楽しかったのです。飛行場について、地上絵を実際に見ることができると思うとワクワクしました。

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2015年12月 5日 (土)

南米ペルー紀行07 セビーチェ

11/20(金) “愛の公園” から始まり、アルマス広場、ラルコ博物館と続いたリマ市内観光も終わり、夕食へと向かいました。

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 この日は金曜日、夕方近くとあって夕方になると車の渋滞が始まりました。

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 一度ホテルに戻り、その後街へと繰り出すことにしました。この日は、オプショナルツアーで「フォルクローレディナーショー」があったのですが、参加希望者が少なく不催行となりました。夕食は各自自由にということになっていたのですが、結局全員で一緒に海辺のレストランを目指しました。

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 スーパーやいろいろな店舗が集まったショッピングセンターはすっかりクリスマスモードになっていて、海外でクリスマスを祝うような楽しい気分となりました。

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 お目当てのレストランは、地元では一番人気のようでとても混んでいました。予約して待つつもりでいたのですが、幸いにも17人分(ツアー参加者16名+ツアーコンダクター)の席が空いたということですぐに着席できました。

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 海に面した高台に突き出たように建てられたレストランからは、湾曲している海辺に灯った明かりが見えて、海外旅行気分が増してきました。

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 隣り合わせた秋田から参加のK子さん、長崎から参加のSさんと3人で白ワインをシェアして乾杯しました。K子さんはドクターの卵(来年医師国家試験受験)で、ツアー仲間にとっても心強い存在でした。私は、WiFi端末をお借りして大変お世話になりました。

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 総勢16人のツアー仲間は、二つのテーブルに別れました。16人のうち、男性はたった4人で、女性が12人という構成でした。女性陣も比較的若い人が多く、ちょっと意外でした。手前左側のお二人は首都圏から参加のOLさんで、その右側はツアーコンダクターのYさん。

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 料理はそれぞれが好きなものを選びましたので、いろいろなものがテーブルに並んで華やかでした。ツアーに組み込まれたお仕着せの料理はほとんどが期待外れに終わることが多く、それぞれが好きなものをオーダーできるのは嬉しいことです。結局このツアーで食べたたくさんの料理の中で、この時の料理が一番美味しかったかもしれません。

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 私とK子さんがオーダーしたのは名物のセピーチェ(セピチェとも)でした。セピーチェはラテンアメリカで食べられる魚介類のマリネで、ペルーやメキシコなどの名物料理となっています。シーフードを食べたかったのとマリネが好物でしたから文句なくセピーチェに決めました。ドレッシングは酸味がきいていて白ワインとの相性もぴったりでした。ウェイターに一品だけで足りなくないかと聞かれましたが、これで十分でした。

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 食後は自由にホテルに戻るということでしたので、K子さん、Sさんと3人でウインドウショッピングをしながらブラブラと帰りました。

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 ほろ酔い加減で、異国の夕暮れの街をそぞろ歩くのはいいものです。旅で味わえる非日常的な開放感を最も感じる瞬間でした。

 

この日のリマ市内観光でペルーの歴史や失われた文化に触れ、海辺のレストランで白ワインとシーフードをいただき、すっかりペルー観光モードの気分が盛り上がりました。翌日からのナスカの地上絵、クスコ、マチュピチュなど、期待も高まりました。

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2015年12月 3日 (木)

南米ペルー紀行06 リマ・ラルコ博物館

11/20(金) リマ市内観光の最後は「ラルコ博物館」でした。

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 「ラルコ博物館」という博物館の門前には警備員が立っていて、よほどの財宝が展示されているのかそれともリマの治安が悪いためか。

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 博物館の厳重な門を開けてもらって中に入ると、通路には博物館という厳めしい建物には不釣り合いな花がたくさん。この博物館は、7世紀頃のものと思われるプレ・インカのピラミッドの上に建てられています。

 

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 プレ・インカとは、インカ帝国以前のアンデス文明の一つで、アンデス山脈の海抜3,700mの高地に広がる1600年前の石造遺跡群で、第2のマチュピチュかともいわれているそうです。

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 顔に入れ墨を施した “モチェ文化” の男性表す象形土器。この男性は、首飾りや胸飾りを身に着け、双頭の蛇のアーチの下に立っています。モチェ文化はプレ・インカの一つで、紀元前後から紀元後700年頃まで繁栄した文化です。

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 インカ帝国だけが注目されていますが、インカ帝国以前のプレ・インカの文化度の高さは凄いものです。

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 紀元前13世紀~紀元後1世紀頃のラクダの毛を織った布地。

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 ところどころ結び目がついている キープ といわれる細い紐は、結び目が数を表しているとか、十進法を用いているとか、単なる記号以上の複雑な体系をもっていて言語情報を含んでいるとかが明らかになってきています。これはインカ帝国で使われていたとか、うぅ~~~ん、これも凄い。

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 紀元前13世紀~紀元後8世紀頃、古代アンデスでは、天然石や金や銅を組み合わせて、首飾りなどの装身具が作られていたとか。

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 紀元後14世紀~16世紀初頭のもの。世界で唯一、完全な状態で揃っているチムー文化の黄金の装身具。チムー文化とは、紀元後11世紀~15世紀頃、アンデス文明の後期に誕生した強力な中央集権的国家「チムー王国」がもたらした文化で、巨大な神殿、宮殿を各地に建設しました。

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 ペルーの歴史と文化は目眩がするようでした。博物館の外に出てみると、緑と赤が一層目に沁みました。ここには、真っ白な漆喰の壁に赤やオレンジの様々な花が栄え、庭は手入れされ、田園造りのカフェレストランもあり、調和のとれた美しさに驚かされました。

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 「ラルコ博物館」の創設者は、ラファエル・ラルコ・ホイルという人で、ペルー考古学界に大きな功績を残した人。ここにはアンデス文明に関する貴重な個人コレクション約45000点が展示されているとか。圧倒されました。現地ガイドのミゲルさんは、ここでもまたペルーの財宝の8割がスペインに持って行かれたと繰り返していました。

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南米ペルー紀行05 リマ・アルマス広場

11/20(金) 午後からはリマ市内観光に出かけ、“愛の公園” などに立ち寄った後、定番のアルマス広場へと向かいました。

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 ユネスコ世界遺産リマ歴史地区の中心に位置するアルマス広場は、大聖堂(カテドラル)や大統領官邸などに囲まれ、リマで最も有名な観光スポットです。真っ正面に見えるのは南米最古の大聖堂です。

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 この建物はペルー政庁で、1939年に大統領府として公式に認められました。元はインカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロの屋敷跡だったもので、ペルー人にとってはちょっと複雑な気分の場所のように思われました。またかつて日系人のフジモリ元大統領もここの主でした。

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 リマはペルー共和国の首都であり、政治、経済、文化の中心都市で人口は800万人で南米有数の都市です。日本で地方から東京や皇居見物などに上京する人達を お上りさん と言っていますが、ここでもお上りさん風の人達が目につきました。

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 リマは、かつては治安が悪かったようで、2013年にはNHK取材班が盗難に遭ったりもしたそうですが、現在はそれほど悪くはないようでした。

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 それでも物々しいポリスの姿をチラホラ見かけましたので、やはり何が起こるかわからないようでしたし、まあそれは世界中どこでも、安心・安全の国や都市がないわけですから。

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 ペルーというと、マチュピチュやナスカの地上絵などが思い浮かびますが、他にインカ帝国やアンデス高原などという言葉も思い浮かびます。広場の石段に腰掛けている先住民(or原住民?)の女性が被っている帽子は民族衣装の一種だそうです。ペルーは、南米で先住民の割合が2番目(1番目はボリビア)に高いそうです。

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 1500年代に建設された南米最古の大聖堂には、インカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロの遺体も安置されているとのことですが、残念ながら公開はされていませんでした。

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 スペインがこの国に侵略し、その後スペイン人と先住民との混血かが進んで、先祖には侵略側も非侵略側も混在しているとのことでした。屈託なく遊んでいるこの子達にも両方の血が混じっているのでしょうが、時間を積み重ねることによって同化が進み、新しい時代が築かれていくのでしょう。

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 正面の、とってもオシャレなデザインの建物は図書館です。

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 図書館の入口には変わった おもろいおばちゃん がいて、私達を見つけると日本語でスピーチというか歓迎の言葉を述べてくれました。とても陽気でした。

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 この図書館は元は駅舎だったそうで、表にはレール跡があり、プラットホームだったところにはテーブルや椅子が置かれていて、熱心に読書している人の姿が見られ、ペルーのちょっと意外な風景でした。

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 世界遺産であるこのリマのセントロ(旧市街)、碁盤の目状に造られたエリアにはいくつもの教会やコロニアル様式の建物が並んでいて往時を偲ばせるものでしたが、どうしてもスペインの影響を感じずにはいられませんでした。

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 現地通訳のミゲルさん。かつて日本の豊田市に出稼ぎに行っていたことがあるそうで、当然日本語はペラペラでした。スペインによってインカ帝国が滅ぼされ、8割もの財宝や物資が盗まれたことをしきりに悔しがっていました。ミゲルさんの体には先住民の血が濃く流れているようにも見えました。

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 元気そうな子供達。

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 大都市ですので道はよく整備されていました。トヨタや日産の車も多く見かけました。

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 街角に立つ女性達の姿・・・、と・・・禁止の標識。

 

リマのアルマス広場の観光で、この国の歴史の一端を垣間見ることができ、また広場に集う人達、ようやくペルーを実感したのでした。

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2015年12月 2日 (水)

南米ペルー紀行04 リマの街角

11/20(金) この日は、ホテル出発が13:00でしたので午前中はノンビリできました。午後からはリマ市内観光に出かけました。

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 02:40にホテルに着いて、ベッドに倒れ込んで爆睡し、それでも朝早く目が覚めてしまいました。朝食後、とりあえず早朝散歩に出かけました。ホテル前の道は一見静かな住宅街のように見えましたが、ホテルが並んでいて夜は車で混み合っていました。

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 ホテルで貰った地図を頼りに海辺へと向かう途中雑貨屋があり、ペットボトルを買いました。

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 海辺へと出ると、海を見下ろすようにホテルやマンションが建ち並んでいて、熱海のような景色でした。

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 しばらく海沿いの道を歩いて行くと眼下に防波堤が見え、堤防にはレストランがありました。この日の夕食は各自自由ということになっていましたので、海辺のレストランで白ワインとシーフードをいただきたいものです。

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 午前中は散歩したりホテルの部屋でノンビリしたりして長距離移動の疲れを癒やしました。午後からの観光に備えて、ホテルのレストランで昼食をとりました。何はともあれ、ビールで乾杯しました。

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 ホテルのレストランにいつも置いてあった瓶に入ったニンニクや木の実など、ピクルスではないかと思っていたのですが、3連泊もしたのに結局味わうことができませんでした。

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 ホテルの前には、私達の専用バスが待機していました。バスの前をツアーコンダクターのYさんが横切っていきました。

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総勢16人には広すぎるバスのおかげでゆったりと観光することができました。

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 バスから眺めた風景はヨーロッパで見たような風景で、これはかつてペルーを侵略して長い間統治していたスペインの影響を受けているからかもしれません。

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 ペルーに着いてまだ間もないせいか、これぞペルー、これぞリマという風景になかなかお目にかかれませんでした。そのためか、トルコにいるような気になったり、モロッコの街角にいるような気になったりしました。

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 私達のバスは海辺の公園に着いて、しばらく散策をしました。日本でも見るような売店があり、ジュースやスナック菓子を売っていました。

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 アイスクリーム売りの三輪自転車は、東南アジアなどでもよく見かけたものと同じようなもので、万国共通こういうスタイルになるのかもしれません。

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 ここは “愛の公園” といわれているそうで、なるほどでした。

 

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 愛の公園でチラホラ目についたカップル、夜になるときっともっと賑やかというか混み合うのでしょうね。

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 市内中心部の街角で見かけた若いペルー人達、そういえば顔も体型もそれらしい雰囲気でした。

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 立ち並ぶ建物もやはりスペインの影響か、オシャレっぽくもあり落ち着いた雰囲気でもありました。歩行者天国のような街路には観光客の姿も見られ、こちらも少しずつ観光気分になりました。

 

長時間移動の影響がまだ抜け切れていないせいか、なかなか観光気分になりきれませんでしたし、ペルーにいるんだという実感もあまり湧いてきませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2015年12月 1日 (火)

南米ペルー紀行03 ロス~リマ到着

11/19(木) 前日遅い時間にロサンゼルスに到着し一泊した後、ようやくペルーの首都リマへ向けて出発しました。

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 08:49 ロサンゼルス市内のホテル前の通りは、もう9時近いというのにひっそりとしていました。空気はヒンヤリとして気持ちのいい朝でした。

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 ホテル前にはシャトルバスが待機していました。

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 09:27 ロサンゼルス空港へと向かいました。空は青く、前日の疲れもとれていよいよペルーに向かうかと思うと気持ちも晴れ晴れとしました。   

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 出発予定時間は12:50で、かなり早めに空港に到着しましたので手続きカウンターはとても空いていました。

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 ロスからペルーへはLAN・ペルー航空という航空会社を使いました。添乗員のYさんによると、この航空会社はしばしばトラブルが発生するということでしたが、復路ではひどい目に遭いました。

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 12:29 機内に乗り込みました。さすがラテン系というか機内デザインは陽気でした。

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 14:18 機体は、12:50に予定通り離陸し、北米大陸から南米大陸へ向けて順調な飛行を続けていました。

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 14:29(アメリカ時間) 機内食が出ました。アメリカ時間では昼食ですが、ペルー時間(17:29)では夕食ということになります。日本との時差はアメリカでは-17時間、ペルーでは-14時間ということになり、頭も身体もついていくのがちょっと大変でした。

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 アメリカ時間19:58、ペルー時間22:58、ロスを出発してほぼ7時間、機体は南米大陸に入りました。

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 00:50(ペルー現地時間:以降同じ) ようやくリマの空港に着きました。深夜というのに待合室には登場を待っている人達がたくさんいて、羽田でもそうでしたが、世界中の空港で、昼も夜もなく飛行機が離着陸し、人々が移動しているわけで、これは凄いことです。

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 01:40 リマの空港で、私達ツアー一行16名はペルーの現地通貨に両替をしました。ようやくペルーに着いたという実感がわいてきました。

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 リマの空港からホテルまでは専用バスで移動しました。

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 02:27 リマのホテルに着きました。何人かの人のスーツケースはトラブルに見舞われましたが、なんとか全員のスーツケースが揃いました。

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 エンバハトーレスという名のホテルに3連泊しました。

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 02:40 夜中の3時近く、荷物の整理は翌日回しとしてベッドに倒れ込みました。

 

羽田からリマまで飛行機に乗っていた時間は19時間、待ち時間や宿泊した時間を入れると40時間かかりました。地球の裏側に着きました。

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