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2016年7月30日 (土)

ヒマラヤ回想 初エベレスト

2011.4.26 日程5日目、この旅の最大の目的“一目でも、チラッとでもいいから自分のこの目で世界一高い山を見てみたい”という夢が叶いました。

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 早朝04:00に目覚めてしまいました。空には星と月が出ていました。05:00を過ぎる頃から空は白みはじめ、誰もいない展望室にいってみると、05:30エベレストが姿を見せてくれました。正面奥、二つのコブのように見える左側、手前の樹の真上がエベレスト(8,848m)、右側がローツェ(8,516m)です。

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 表に出て、少し近づいてみました。この頂は、数億年前に海底から隆起し、長い年月をかけて風雨や氷雪、氷河によって削り取られたものです。地球は生きていて、地殻はいまだに動いています。19世紀半ばに英国インド測量局によって発見されてから、多くの登山家・冒険家が憧れ、頂を極め、命を落とし、それでも挑戦が続いています。

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 ホテルのすぐ右手にはアマダブラム(6,812m)が覆い被さるように聳えていました。

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 エベレスト展望台とは反対側のホテルの正面側にも出てみました。ヒマラヤの碧い空を背景に、タムセルク(6,623m)には陽が射していて、神々しいヒマラヤの夜明けでした。

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 部屋からもエベレストを見ることができました。エベレストを頂点とするヒマラヤの山々と空と雲と朝陽が織りなす天空ショーを、黙って見つめていた30分間でした。神様、仏様に感謝しました。

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 冬の時期の標高4千メートル近くの高地ですから、室内もかなり寒いのではないかと覚悟していたのですが、強力な小型ヒーター、湯たんぽ、羽毛布団の三点セットでポカポカでした。ベッドの中からでもエベレストを見ることができ、とても贅沢なホテルであり、贅沢な部屋でした。

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 エベレストを見た後、予定ではクンデピーク(4,200m)を目指したかったのですが、ガイドさんが「雲が出てくるので眺望は期待できない」といわれましたので、クムジュン村からクンデ村周遊のトレッキングに切り替えました。クムジュン村への下り坂をホテルに水を運んで上ってくる何人ものおばちゃんに出会いました。ホテルは美味しい飲み水を得、おばちゃん達には安定収入になっていのでしょう。思い返せば貴重な飲み水だったのです。

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 クムジュン村は、クンデピーク(4,200m)などの山に囲まれた盆地にありました。盆地といっても標高3,800mくらいはあります。この村にはかつて植村直己さんが滞在していたそうです。1970年春の日本山岳チームに加わってエベレストに登頂していますが、その前年の秋に偵察チームで来て、このシェルパの村一帯を駆け回ってトレーニングしていたそうです。

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 ひところのロッジの建設ラッシュは終わっているようです。家の屋根はグリーンで統一されていて、ガイドさん曰く“グリーンバレー”だそうです。敷地は石塀に囲まれていて、石塀の小道が四方八方に通じていました。一人で歩いたら迷子になりそうでした。

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 トレッカーもたくさん訪れているようで、目抜き通りでは民芸品や宝飾品などを売っている露店が出ていました。

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 町はずれのカフェ、ここで休息とお茶をしました。ティーや軽食を出す店で、地元の人達が一服するために集まっていました。

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 日本でいう“村の鎮守様”や“社”のようなものでしょうか。これも村々で見かけました。ヤクが歩いてのんびりした風景でした・こんな山里でのんびりと暮らすのもいいかもしれませんが、何しろ息苦しいのでした。

 

初めて目にしたエベレストはちょっと遠目でした。やはりもっと間近で見たいという思いが強くなりました。間近に見るには、エベレスト街道を何日も歩いて、標高5,000mを越えなければなりませんが、いつか行ってみたいと思いました。

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2016年7月28日 (木)

ヒマラヤ回想 ホテル・エベレスト・ビュー

2011.4.25 ヒマラヤで初めてのロッジ泊の後、ナムチェ(3,440m)から標高差440mのホテル・エベレスト・ビュー(3,880m)を目指しました。ちょうど富士山の八合目から胸突き八丁を経て頂上に登るのと同じ行程でした。

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 ロッジの部屋はこじんまりとしていて、可愛らしいイメージでした。シャワーやトイレも付いていましたがとてもシャワー浴びる気にはなれませんでした。夜は湯たんぽと厚手の毛布を一枚足してもらったら汗ばむ程でとても快適でした。標高3,440mでの睡眠は大丈夫だろうと高をくくっていたのですが、高度順応できていなかったために息苦しく、ほとんど眠ることができませんでした。早々にヒマラヤの洗礼を受けました。

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 窓からは他のホテルやロッジが見えました。年々高いところに建物が建てられてゆくそうです。昨年(2015年)のネパール地震では、ここも大きな被害を受けたそうです。

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 東側にはクッセムカングール(6,370m)を臨むことができました。好きな歌「山小屋の灯」を口ずさむにはあまりにも迫力がありすぎ、ただただ黙って見とれていました。

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 角部屋だったため、西側の山も眺めることができました。ワンデ山塊(6,011m)が間近に迫っていました。上高地や立山などで眺めた山々の倍の高さの白い峰に取り囲まれて、鳥肌が立つような感動と恐ろしさを感じたものでした。

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 08:05にロッジを出発しました。しばらく歩くと村の出口にマニ車がありました。魔よけの仏具で、中にはお経が入っていて、1回廻すと108回お経を唱えたことになるといわれています。私たちも無事を祈ってマニ車を廻しました。この先いたるところでマニ車にお目にかかりました。

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 おばさんがヤク(水牛?)を操って荷物を運んでいました。ヤクは持ち主にとっては大変な財産だそうです。エベレスト街道の険しい道では時々滑落したヤクの亡骸などが見かけられるとのことです。従順で働き者で、モクモクと荷を運んでいる姿はいじらしくもありました。

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 私とカミさんは、薄い空気と険しい上りに次第に息が荒くなりましたが、16才のポーター君は私たちの荷物と酸素ボンベを背負って、携帯をかけたり、鼻歌を歌ったり、時々カメラを向けるとにっこりと微笑んでくれました。余裕です。

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 名峰タムセルク(6,623m)を楽しみながらといいたいところですが、肩で息をしながら少しづつ高度を上げました。富士登山では全ての風景が眼下ですが、ここでは白き神々を見上げながらのトレッキングでした。ヒマラヤトレッキングの大変さを実感しました。

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 10:30ナムチェを出発して2時間半が経過し、シャンボチェを通過して最後の緩やかな登りとなりました。前方に見えるのはクムスカングル(6,367m)でしょうか。意外だったのはガイドさんの後をゆくカミさんの足取りが快調で、私はついて行くのが大変でした。

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 ホテルまでの道程は残り少なく、ようやく周りの景色を楽しむゆとりもでき、一息つきながら記念写真を撮りました。

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 眼下には、山の中腹に切り開かれた道がクネクネとうねっていました。いつか歩いてみたいと思っていた憧れのエベレスト街道、身が引き締まる思いでした。それにしてもホテルまでの道でもこんなに息苦しく、ヒマラヤトレッキングなんてできるのかなとちょっと不安になりました。

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 10:49 ナムチェを出発して2時間45分かけてやっと到着しました。成田からバンコク、カトマンズ、ルクラ、シャンボチェと4回のフライトと、3時間のトレッキングで、4日目にしてようやくエベレストを見ることができるスポットに辿り着きました。ホテル・エベレスト・ビューへの道は遠かったのでしたが、目的の一つは達成されました。

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 ここは標高3,880m、つい低地のホテルのつもりで、立ち上がったり歩いたり、急な運動をすると酸素不足でめまいや頭がクラッとしました。一歩踏み出す前に深呼吸をして十分酸素を取り入れてからおもむろに行動開始というスタイルになれるのに少し時間がかかりました。

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 ホテルの展望デッキには、エベレストを一目見ようというたくさんの人達が集まっていました。この展望デッキまでは宿泊客以外も入ることができ、エベレストを見ながらお茶したり、食事をしたりできますが、あいにくと雲が発生していてエベレストは見ることができませんでした。

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 昼食はこのダイニングルームで名物?の親子丼をいただきました。夜は夕食の準備ができるまで暖炉で身体を温めながら、他の宿泊客と軽く談笑。この日の宿泊客は、香港からの若いカップルとガイドさんの3人グループと欧米人の老夫婦でした。残念だったのは、ビールかワインで乾杯したかったのですが、高山病の初期症状で息苦しく、とてもアルコールどころではありませんでした。

 

屋外は夕方から降り出した雨が雪に変わりました。エベレストを見ることができるチャンスはこのホテルに2泊するときだけですので、明日エベレストが見られるか不安になりました。ホテルのマネージャーが「明日晴れるよ、チャンスは早朝」と断言してくれましたのでこの言葉に望みを託しました。

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2016年7月26日 (火)

ヒマラヤ回想 ナムチェバザール

2011.4.24 シャンボチェ(標高3,700m)という飛行場(原っぱのようにしか見えませんでしたが)に着陸し、ヒマラヤ歩きの第一歩が始まりました。

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 シャンボチェには目の前に6,000m級の山が天をついてドカーンと聳えていました。ヒマラヤでは6,000mくらいの山ですと名前がない山もあるそうです。いよいよです。

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 私たちの荷物を運んでくれるポーターさんは、16才の少年でいつも笑顔を絶やさないいい男でした。しかし、後々わかることなのですが、ポーターの仕事は大事な収入源となっているのですが、親がそこそこ収入がある家では子どもに教育を受けさせ、語学を学ばせて、ポーターではなくシェルパやガイドの道を歩ませるそうです。

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 飛行機が飛び去った後は子供たちが屈託なく遊んでいました。学校に行かなくていいのだろうかと思ったのは、やはり後々何回かヒマラヤを歩いてきて気がついたことでした。

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 現地ガイドに先導されて、高山病対策のために一度シャンボチェ(標高3,700m)からナムチェ(3,440m)まで下りました。標高差300mを一挙に下りました。ナムチェの街並みが眼下に広がっていました。翌日この道を再び登ることを思うとちょっとげんなりしましたが。

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 他のポーターが大きな荷物を背負って何人も登ってきました。ネパールではポーターやシェルパの仕事が大きな収入源になっています。

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 ナムチェの街が更に近づいてきました。ナムチェはかつてはシェルパの里と言われ、シェルパ族が多かったのですが、現在は多くの部族が居住しているとのことです。エベレスト街道では最も大きな村です。

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 11:45カトマンズのホテルを05:00に出発して、ナムチェのロッジ(ヒマラヤン・カルチャー・ホーム)に到着しました。標高は3,440mで富士山の本八合目(3,360m)よりやや高地にあり、空気の薄さが感じられました。

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 初めてのヒマラヤのロッジは小ぎれいで、ダイニングルームで持参したお弁当を食べ、ミルクティーをいただきようやく人心地がつきました。やはり後々わかったことですが、ヒマラヤのトレッキングでは、ここのロッジは最高級レベルでした。

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 標高3,400mのナムチェバザールは、クーンブ地方のシェルパ族の首都とも、故郷とも呼ばれているエベレスト登山の拠点の村です。一服した後散策しました。エベレスト街道の要衝の地であるこの村には、世界中からトレッカーがたくさん集まってきていました。

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 ホテル、土産物店、それに洒落た喫茶店までぎっしり並び、豊富な水を利用した水力発電で、カトマンズでは頻発していた非計画停電はこの村にはなく、ヒマラヤの奥地にいる感覚はなくなりました。

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 銀行、国際電話のかけられる電話局、チェコレートケーキを焼いているベーカリーまであり、日用品などは殆どこの村で間に合います。一番驚いたのがネットカフェがあったことでした。

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 登山用品、登山用具は豊富で安く何でも揃いますが、商品には偽物も多いので要注意とのことでした。私は厚手の登山ズボンを一着買い求めました。結局このズボンは一回履いただけで、荷物になりましたので帰るときに地元ガイドさんにプレゼントしました。

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 この村の常住人口は1,100人で、子供達は走り回って鶏を追いかけ回していました。海抜3,400mといえば富士山の八合目にあたる高さで、歩くだけでも息が切れるのに走り回るなんてとてもマネできませんでした。

 

ナムチェバザールの散策は富士山八合目当たりの標高でしたので、甘くみていました。富士登山でしたら五合目から歩くことによって高度順応できるのですが、この時は一挙に飛行機で到着しましたので、まったく高度順応できませんでした。

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2016年7月24日 (日)

ヒマラヤ回想 山岳フライト

2011.4.24 いよいよネパールの山、ヒマラヤに足を踏み入れるときがきました。

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 エベレスト街道の起点はルクラという村で、ルクラへのアクセスは飛行機しかありません。カトマンズからルクラに向かうために早朝出発(05:00)となりました。ヒマラヤ遠征チームの皆さんは本格的トレッキングの装いで落ち着いた様子でしたが、私たち夫婦はかなり緊張していました。

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 05:30ルクラへのローカル路線飛行場は国際空港と隣接しています。ルクラはエベレスト街道の起点であるため、登山道具やリュックを満載した荷物が集結していて期待と緊張感に包まれていました。

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 待合室は世界中の人々が集まってきていました。ルクラへの飛行を運行している会社は4社くらいあり、フライトは頻繁に行われていましたが、天候次第で欠航や遅れはよくあることであり、また自分たちが乗る飛行機がいつ飛び立つかわからないため、のんびりしつつもハラハラしながら時間待ちしていました。

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 1時間程待ってようやく機内に乗り込みホッとしました。18人乗りで、そのうち私たち一行が12人でした。席は自由席ですので、景色がいい席を確保するのは早い者勝ちでした。

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 ルクラ空港は山の緩やかな斜面に一本の滑走路があり、その滑走路はつい最近舗装されたばかりで500mもないそうです。離発着が世界一難しい空港といわれていますが、パイロットは余裕綽々のように見えました。

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 飛び立って230分もすると山岳地帯に入りました。私たちの乗ったSTOL機(短距離離着陸機)は山と山の間を縫うように飛んでいました。

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 45分程のフライトでルクラ飛行場に着きました。遠征チームの皆さんはここからトレッキングスタートとなり、何日間もかけて5,000mの高地へとトレッキングです。私とカミさんは小型飛行機でさらに奥地へと向かいました。2日後ホテル・エベレスト・ビューで再会するまでここで一度お別れしました。

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 私たちは遠征チームの皆さんと別れて、ルクラ空港の片隅に止まっていたオモチャのような軽飛行機に乗り換えシャンボチェ空港に向かいました。軽飛行機の乗客は私たち2人だけでした。いわば専用機状態で、人生最高の思い出となりました。私は副操縦席に乗ることができましたが、目の前にハンドルやレバーがあり、ちょっと動かしたらパイロットに触るなと注意されてしまいました。

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 一方カミさんは、荷物と一緒にされていました。おまけに荷物を押さえているように言われ「私は荷物番じゃない、客だ」とブーたれていました。

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 パイロットはなかなかイケメンでした。私が副操縦席に座れたのはパイロットの好意ではなく、単に座席が荷物で一杯になっただけのようですが、理由は何であれ副操縦席に座れたのは最高の幸せでした。後日たくさんのお客さんを引率してきた経験を持つ遠征チームの高橋隊長に、お客さんが副操縦席に座ったのは初めてかもしれないと言われました。ラッキー。

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 機体がふわっと浮き上がると、周りは白き神々が鎮座していて至福の瞬間でした。夢中でキョロキョロしてしまいました。今回の旅行ではオプションでヒマラヤ遊覧飛行(3万円くらい)に乗りたいと思っていましたが、その夢が叶ってしまいました。できたら遠回りしてあと30分くらい余計に飛んでくれたらもっとよかったのに。

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 飛び立ってものの5分で目の前に山が立ち塞がるように迫ってきて、なんだなんだこのまま突っ込んだら危ないのではと思っていましたら滑走路が見えてきました。ヒマラヤ観光開発社長の宮原さんがつくった滑走路です。未舗装ですが、パイロットは慣れたもので、軽くフワリと着地しました。

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 小型飛行機は山の壁の手前でくるりとUターンし、私たちを降ろし、荷物を積み込むとあっという間に飛びっていきました。かっこいいー。

 

訳のわからないままにあっという間にヒマラヤに足を踏み入れてしまいました。高度順応を考え、実践する時間もなく、これに後々祟られたのですが、それもまた何回か歩くことになったヒマラヤトレッキングのいい教訓になりました。

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2016年7月22日 (金)

ヒマラヤ回想 ネパール・カトマンズ

2011.4.23 エベレスト・ホテルにチェックインした後、夕食前の一時マドンナさん、カミさんと3人でカトマンズ市内見物に出かけました。

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 ホテルのすぐ近くに大きな交差点があり、交通整理のお巡りさんが騒音と排気ガスをものともせず張り切っていました。カトマンズ市内に信号は何ヶ所かあるのですが、非計画停電が頻発するために信号機は使用不能となっているとのことでした。

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 マドンナさんとカミさんは女性同士楽しそうに歩いていました。マドンナさんがこの年ネパールに留学し、留学後現在もネパールの子供たちの教育環境の整備にボランティアとして取り組むようになるとは思ってもみませんでした。それにしても、騒音(クラクション)と排気ガスとホコリの3点セットのことは聞いていたのですが、想像以上でした。現地人でマスクをしている人もたまに見ましたが、皆さん黒のマスクでした。現地人から見たら白のマスクはきっととても珍しく映ったと思います。

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 ネパール人はとても人なつっこく、それでいてシャイでした。カメラを向けるとワーどうしょうと言いながら、ちゃんとポーズをとってくれました。なんで男二人が手を取り合っているの・・・。きっとお前がモデルになれと譲り合っていたのかもしれません。

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 沙羅生地などの反物を店先でミシンがけしている娘さんも、カメラを向けると恥ずかしそうにそれでいて嬉しそう一生懸命ミシンをこいでいました。

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 マドンナさんが沙羅生地を買いたいといって、言葉もわからないのにカミさんも加勢して、粘り強く、しつっこく、我慢強く交渉してようやくお気に入りをお気に入り価格でゲットしたようでした。

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 バザールを覗きにブラブラしていましたら、交差点で牛と目線が合ってしまいました。気のせいか、潤んだような目をして、鼻腔はふくらみ、口元は緩みがちでこちらに向かってきましたので、思わず後ずさってしまいました。この牛はちゃんと交差点を渡ったのか、確認しませんでした。

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 豆類の屋台。最も無難なピーナツを買ったのですが、どうみても現地人よりモリが少なかったようでした。ボラれたかも。

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 魚を捌くのに、固定した“し”の字の形をした刃物に魚をあてがい、動かして捌いていました。暑い中、氷も何もなく強烈なはらわたの匂いは強烈でした。

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 布屋さんが布を振りかざしていました。デモンストレーションしているわけではなく、並べた商品のホコリを払っていました。大事な売り物をはたき代わりにそんなことしていいのと思いましたが、ここはネパール。

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 野菜類は南米チリ高地の野菜類と似ていました。カトマンズは標高1,400mの高原です。

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 土手鍋状態になったカラフルな食べ物は何だったのか結局わかりませんでした。

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 夕食は遠征チームと一緒になりました。総勢12名でそれぞれ隣り合った人同士で乾杯しました。翌日から山に入り、高度を上げてゆくとアルコール厳禁となりますので、暫くはビールも飲めなくなります。しばしの名残のビールです。隣のS氏とは運命的な出会いとなり、この後、一緒にヒマラヤを歩いたり、北アルプスを歩いたりと今日まで交流が続いていて、来春最後のヒマラヤにもう一度挑戦しようということになっています。

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 私がヒマラヤに来るきっかけとなったヒマラヤ観光開発社長の宮原さん、本人にこんなにも早くお目にかかれるとは思ってもみませんでした。日本人でありながらネパールに魅せられ、30才代でホテル・エベレスト・ビュー(この時は、このホテルに泊まってエベレストを見るのが最大の目的でした)と飛行場をつくり、ネパール国籍を取得し、いまだにネパールに人生を献げつつある、ネパールで最も有名な日本人、伝説の人です。

 

空いている時間は、現地ガイドのサローズさんにお願いしてタクシーでカトマンズ市内見物をしました。土産物品街のタルメ地区、官庁街、ダウンタウンなどを一周してもらいました。騒音とホコリに包まれ、非計画停電が頻発するカトマンズは混沌と猥雑がごった煮になった街ですが、人間臭く魅力的な街でもありました。

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2016年7月20日 (水)

ヒマラヤ回想 タイ・バンコク

2011.4.22 一通りの日本の街道を歩いた後、さてどうしようかと思っているとき東日本大震災(2011.3.11)が起こり、現実逃避ではありませんが海外に目が向きました。エベレストを見てみよう、ヒマラヤを歩いてみようと思い立ちました。ヒマラヤを歩いた記録を振り返ってみました。

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 ヒマラヤを歩くにはどうしたらいいかわからず、とりあえずヒマラヤ観光開発というツアー会社に相談し、カミさんと2人の個人旅行の手配をしてもらいました。未知の場所ヒマラヤへの個人旅行ということで、とても不安に思っていたのですが、成田空港で同じヒマラヤ観光開発のヒマラヤ遠征チームと一緒になり、チームリーダーの高橋隊長と会いました。ネパールまでの3日間は一緒に行動できるとわかってホッとしました。

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 久しぶりの海外旅行で、ウキウキはしていたのですが、ヒマラヤという得体の知れない地域に行くということと標高が高いということ、何よりカミさんとの2人旅で、とても不安に思っていました。

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 成田を出発して6時間、タイのバンコク国際空港に着きました。バンコクで一泊して翌日ネパールに入るという行程でした。ヒマラヤ遠征チームは9名、20日間かけて5,360mの高地に出かけるそうで、私にとっては近寄りがたい存在で、私とカミさんのような軟弱者には口もきいてもらえないかと思っていました。 

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 タイのバンコクは初めてでした。バンコク国際空港からは専用のバスでホテルに向かいました。早速バンコク名物の車の渋滞の洗礼を受けつつ、ほどなく宿泊先のホテルに到着しました。ホテルの入り口には観音様が出迎えてくれ、いよいよ始まったぞという実感が強くなりました。

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 ホテルの近くには屋台が出ていましたが、ホテルから眺めたバンコク市内の街並みには灯りがほとんど見えなく真っ暗でした。夕食後、遠征チームの高橋隊長からヒマラヤの歩き方の話などを聞いて、少し安心しつつ眠りにつきました。

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 2011.4.23 07:30 ホテルに迎えに来たバスに乗って、再びバンコク国際空港に向かいました。画面右から、現地ガイドさん、カミさん、私、マドンナさん。マドンナさん(私が勝手に名付けました)は、遠征チームの紅一点で、1人参加の女性がヒマラヤに出かけることに驚きました。この時の出会いが、今日までの交流に繋がるとは思ってもいませんでした。

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 バンコク国際空港にはお坊さんがあちらこちらにいました。さすが仏教の国です。タイでお目にかかりたかったのが仏教国のお坊さんと本場トムヤンクンでしたので、早速一つめの目的が達成されました。

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 バンコクの出国手続きを済ませ、ネパール・カトマンズ行きのフライト前に全員集合しました。遠征チームの強者の皆さんも高橋隊長の注意事項を、幼稚園の生徒のように聞き入っているようでした。遠征チームの皆さんとも少しずつ言葉を交わすようになっていました。

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 バンコクからネパール・カトマンズへは4時間半のフライトでした。山岳の王国が近づくにつれヒマラヤの高峰が見えるのではないかと思ったのですが、青い空と白い雲だけでした。

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 15:00(以降現地時間)にカトマンズ空港に到着しました。日本との時差が3時間15分ですので、日本時間では18:15です。近代的で清潔なバンコク空港とは雰囲気も匂いもガラッと変わりました。ワクワクするような匂いでした。マドンナさんは、北海道旭川からの参加で、地元の山岳会に所属しているとのことでした。道理で。

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 カトマンズではエベレスト・ホテルというシティホテルに延べ3泊しました。その間私たちをガイドしてくれたサローズさんと合流しました。サローズさんは日本にも来たことがあり、日本語がペラペラなのはもちろん、漢字も読め、目下日本の格言を勉強中で、ことある毎に“袖すり合うも多生の縁”ですねとか、“郷には入ったら郷に従ってください”などと、言いたいことを一言で伝えてくれる人でした。日本語が達者な人でホッとしました。

 

カミさんとの2人旅でしたので、何もかもが不安でしたが、ヒマラヤ遠征チームと成田からカトマンズまで一緒でホッとしました。20日間かけて5,000mの高地まで歩くというヒマラヤトレッキングは、この時点ではとてつもないことのように思えました。

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2016年7月18日 (月)

お伊勢参り 花の小宿・重兵衛

7/10(日) この日の宿は、海女さんの町鳥羽市相差(おうさつ)町にある「花の小宿・重兵衛」でした。

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 お宿の目の前には「神明神社石上さん」があり、「願いが叶うご利益コース」へと向かいました。

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 地元の人たちから「石上さん」と呼ばれて親しまれている神社は、「女性の願いを一つだけ叶えてくれる」ということで、最近女性のパワースポットとして注目されだしたそうで、なるほど女性の姿ばかりでした。

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 何故女性の願いなのかというと、この神社は海女さん達が古くから信仰の対象としてきたそうです。

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 お参りはご本殿「神明神社」をお参りしてから「石上さん」へという案内があり、案内に従って参拝しました。

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 こちらが「神明神社」の本殿。リコピンが随分熱心に参拝していました。

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 こちらが「石上さん」。女性の願いを一つだけ叶えてくれるということで、のんちゃんは一つの願いを何にするか悩んでいました。

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 「石上さん」から歩いて3分で、この日のお宿「花の小宿・重兵衛」でした。相差町に泊まるのは3回目で、1回目はのんちゃんとうちのカミさんと私の3人で、2回目はカミさんと2人でこの近くにある民宿「浜栄」に、そして今回が3回目となりました。

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 2回目に来た近くの民宿「浜栄」は料金も安く料理も素晴らしいのですが、のんちゃんもリコピンもオシャレな宿がいいということで、ここ「重兵衛」に決めました。

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 女性には人気のお宿で、最近はなかなか予約が取りにくくなっています。

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 二人は浴衣着に着替えて、若女将と話をしていました。

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 相差町は海の近くなのですが、すぐそばに山が迫っていて、露天風呂からの眺めは緑一色でした。

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 ようやく食事の時間となり、食卓にはヒラメや伊勢エビや海女さんが獲ってきたアワビなどが並んでいました。

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 食前酒で乾杯。二人はお酒はあまり飲みません。飲めるともっと楽しいのですが、飲めなくても十分賑やかですから、それでいいのかもしれません。3人とも大酒飲みですと、ドンチャン騒ぎになって大変かもしれません。

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 海女さんが獲ってきてくれたウニもたっぷりと堪能しました。

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 運転の労をねぎらってお酌をしてくれました。

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 シメはウニの炊き込みご飯で、海の幸をたっぷりといただきました。

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 朝食も美味しくいただきました。味噌汁になった伊勢エビに随分身がついていると、真剣になっていました。

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 朝食も終えて出発前の一時、ロビーにかかっていた一枚の写真に目がとまりました。リコピンは、こんな雰囲気の中で伊勢神宮参拝をしたかったんだろうなあと思いました。しきりに、次は連泊をして静粛な雰囲気の早朝に参拝したいと言っていて、その気持ちは十分わかりました。

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 鳥取に帰るリコピンは鳥羽駅から近鉄特急に乗るということでここでお別れでした。名残のつきない二人でした。のんちゃんと私はここから500kmくらいのドライブで横浜へと戻りました。

 

今回は仕方なく暑い時期のお伊勢さん参りとなってしまいましたが、できたら寒い時期、身が引き引き締まる時期の方が雰囲気はあるかもしれません。伊勢神宮、天岩戸神社、石上神社などのパワースポット巡りはスピリチュアル系の2人にとっては良かったようでした。

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2016年7月16日 (土)

お伊勢参り 海女のまち

7/10(月) 伊勢神宮と天岩戸神社への参拝をすませ、この日の宿がある鳥羽市相差町に向かいました。

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 鳥羽市相差(おうさつ)町は、伊勢神宮から車で30分くらいの港町で、全国有数の海女さんの町です。先ず、「相差海女文化資料館」を訪ねました。

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 2013年に放映されたNHKの朝ドラ「あまちゃん」は、三陸を舞台にした海女さんのドラマで海女さんが注目されましたが、全国的に海女さんの高齢化が進み、後継者難となっています。まあこの現象は海女さんに限りませんが、そんな現状の中、相差町は海女文化の継承に熱心に取り組んでいます。星形と縦横の線のマークは、海女さんが磯着に付ける魔除けのおまじないだそうです。

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 最近注目されているのが三世代海女中川さん母娘で、頑張ってとエールを送りたくなります。三代目の中川静香さんはミス伊勢志摩で現役女子大生の海女さんです。

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 館内に入ると素潜りの海女さんが展示されていました。私はダイビングの合間に時々素潜りしたりもしましたが、素潜りは身体に大きな負担となり、ほんの数回潜っただけで息が上がってしまいました。海女さんの仕事はとてもキツいと思います。

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 (ビデオ映像を転載) 海女さんは潜ることで一家を支えるという心構えなしでは続けられません。「夫一人養えんで一人前の海女とは言えん。」という気概を持った働き者なのです。

 

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 海女さんが獲るのは岩牡蠣やサザエなどの海の幸。収穫の喜びはさぞかし大きいものと思われ、私たちもその恩恵を蒙っています。

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 海女さんが着ているウェットスーツ。それぞれ年期が入っています。

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 港の市場では、大きな岩牡蠣がたくさん揚がっていました。市場価格は1900円くらい。

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 「相差(おうさつ)かまど」という海女小屋を覗いてみました。昼食の時間は過ぎ、夕食の準備がされていました。

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 本日のお品書きはサザエや大アサリなど。伊勢エビやアワビもありました。

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 物欲しそうなお姉さんが二人、覗き込んでいました。

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 昼食の片付けをしている海女さんがいらっしゃいました。朝、海に潜って獲ってきた獲物をお客さんに食べてもらってと、海女さんは本当に働き者なのです。

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 写真を撮らしていただいていいですかと言ったら、他の海女さんも呼びに行ってくれました。夫一人養うという心意気からして、もっと気性が荒いかなと思ったのですが、海女さん達はとても優しくチャーミングでした。

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 相差町のまち中は細い路地が入り組んでいて、海女の家というお土産ショップなどが何軒か並んでいました。

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 二人はかなり真剣に物色していました。私は早く冷たいビールが飲みたいなあと思いながらお付き合いしました。

 

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 「海女茶屋じょい」という小さな休憩所は閉店していましたが・・・・。

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 近くの売店でお菓子や飲み物を買ってきて、勝手に一休みさせてもらいました。

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私はようやくビールにありついて一気飲みしました。

 

鳥羽市相差町に泊まるのは今回は3回目となりますが、今まではこの町をゆっくりと散策するということがありませんでした。職業としての海女さんを尊敬していますので、本物の海女さんに接することができてとてもよかったです。

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2016年7月14日 (木)

お伊勢参り 天の岩戸

7/10(月)の午前中、伊勢神宮への参拝をすませお昼時になりました。腹ごしらえをして「天岩戸神社」へと向かいました。伊勢神宮参拝は外宮を参拝してから内宮を参拝するというのが正しいのですが、この日は駐車場の確保が大変でしたので、外宮参拝はパスしました。

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 伊勢神宮(内宮)に隣接して「おかげ横丁」があります。日曜日のちょうど昼時でしたので、賑わっていました。

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 空はどんよりとしていたのですが何しろ蒸し暑く、また人混みの暑さも加わって汗ビッショリとなりながらの昼食探しとなりました。ノドがとても渇いていて、リコピンがいち早く身体を冷やすというキュウリを見つけて食べました。

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 リコピンがどうしても食べたいという「伊勢うどん」。私は以前食べたことがあり、その時はあまり美味しくなくて気が乗らなかったのですが、どうしてもということでお付き合いしました。威勢のいいおばちゃんがいる店に入りました。

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 伊勢うどんの特徴は、太くてコシがなく、甘辛い少なめのタレです。以前食べたときはまったく美味しくなかったのですが、ここのうどんは茹でたてでモチモチしていて、おまけにタレが絶妙の旨さで、とても美味しかったのでした。

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 二人とも、青ネギをたっぷりとかけてもらって、熱々の茹でたてうどんに満足していました。箸が転がっても笑うお年頃は過ぎているはずなのに、何がおかしいんだか。

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 美味い伊勢うどんを食べるならこの店です。一押しです。

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 二軒目は、のんちゃんお目当ての店「ひもの塾」。

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 焼いているおじさんは暑そうでしたが、熱い鉄板の上でジュージューと音を立てている干物の香ばしい匂いがたまりませんでした。

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 焼き上がりをじっと待っている二人。

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 三軒目は二人の意見が一致して豆腐ソフト。暑さにもめげず食欲モリモリでした。私は冷たいビールをクィ~~~っとやりたかったのですがまだまだこの先の運転がありましたので我慢我慢でした。今回は運転手役に徹しました。

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 どこの店先も満員で、ここ「赤福」の店先も伊勢名物の定番を食べようという人たちで一杯でした。

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 お腹が満たされたところで、「天岩戸神社」へと向かいました。大型車通行止めという細い道をしばらく走ると駐車場があり、そこからは車を駐めて歩きました。強い日射しが出ていましたが、緑の木陰が涼しく感じられました。

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  天の岩戸へという標識がありました。天の岩戸といえば、5月に行った高千穂(ここが本家か)にも天の岩戸があり、天の岩戸が開かれる夜神楽を見てきたばかりでした。

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 しばらく歩くと鳥居があり、そこには「天岩戸神社」と書かれていました。帰宅してから調べてみると、天の岩戸は天孫降臨の高千穂をはじめとして、伊勢の二見の興玉神社にも、伊勢外宮の山の中(立ち入り禁止)にもあるとのこと。さらに全国には地名となっているところが20ヵ所もあるとのことで、日本のあちこちで天照大神が岩に隠れたということでしょうか。

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 説明書きによるとこの辺り一帯は高天原というそうで、八百万の神が集まりそうな雰囲気でした。

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 いささかスケールは小さいのですが、厳かな気分になりました。パワースポットといいことで、ここを訪れてくる人もポツリポツリと見かけました。

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 天照大神は、ここに隠れたのか? 高千穂の天の岩戸は川の向こう側の樹々の中でまったく様子はわかりませんでしたが、ここでは覗くこともできました。隠れるにはちょっと窮屈かもしれません。

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 それもとこちらか? あまり詳しい案内がありませんでしたので、いろいろ想像しているだけでミステリー小説を読んでいるようで楽しくもありました。

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 境内の脇には小さな滝があり、水垢離(水行)の場となっていました。スピリチュアル系の二人は、しばらくの間、霊気を取り込んでいるのか様々な動きをしていました。

 

伊勢神宮発参拝のリコピンは、暑さと人の多さで自分がイメージした伊勢神宮と異なったようでしたが、ここ天の岩戸では厳かな気分、神秘的な気分に浸ることができたようで満足げでした。

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2016年7月12日 (火)

お伊勢参り 内宮参拝

7/10(日)~11(月)と伊勢神宮に参拝に行ってきました。

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 お伊勢参りのメンバーは、鳥取のリコピンとNPO法人スタッフののんちゃんと私の3人、4月に会津若松にお花見に行ったのと同じメンバーでした。7/9(土)の午後、リコピンが鳥取から来横し、前夜祭で居酒屋に繰り出しました。

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 のんちゃんと私は伊勢神宮には何回も行っているのですが、今回のお伊勢参りは、一生に一回は伊勢神宮に参拝したいというリコピンのリクエストに応えたものです。のんちゃんはうちのカミさんと一緒に旅行に行ったり、食事にきたり、そのまま我が家に泊まったり身内のようです。私が鳥取に行くときはリコピン宅に泊まったりとこちらも身内のようなものですので、3人旅はファミリー旅行のようなものです。

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 お酒を飲まない二人は、居酒屋は早々にしてのんちゃん邸に場所を移して積もる話を。リコピンは鳥取からですから、大阪経由で伊勢に行き、現地で集合ということも考えられたのですが、少しでも長い時間一緒にいたいということで、わざわざ横浜まで来ていただき、鳥取から横浜経由で伊勢神宮へというとんでもない行程となりました。

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 リコピンは息子さん二人が自立し、今はご主人様を支えながら、時には人生を謳歌しています。スピリチュアル系の何とかとか、フラダンス、パン職人、木工職人と会う度に何かにチャレンジしている人です。

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 私は二人の話を聞きながら、食後酒を飲んで、翌日早朝からの長距離ドライブに備えて早めに引き上げました。

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 7/10(日)の朝6時にのんちゃん邸を出発しました。心配された天気も回復し青空も広がっていました。リコピンものんちゃんも口は達者なのですがまったく機械音痴で、助手席からようやく一枚富士山の写真を撮ってもらいました。

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 横浜から伊勢神宮までは450kmですので、何回かの途中休憩をとりました。静岡県内でのSAでは、大気が不安定なのか不思議な筋雲が見られました。

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 出発して4時間半で伊勢神宮(内宮)に着きました。日曜日なので混むだろうとは予想していたのですが、一方ではこの暑い時期ですので、それ程でもないだろうと思っていたのですが、駐車場はどこも満杯で、結局五十鈴川の河原に誘導されてしまいました。車を置いて、しばらく五十鈴川沿いの道を歩きました。

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 五十鈴川にかかる「宇治橋」には、これから参拝する人と参拝を終えた人が行き交っていました。

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 宇治橋を渡ると玉砂利の道が続きました。上空には俄雨でも降ってくるのかなと思わせる雲が垂れ込めていて、とても蒸し暑く、いっそ一雨きてくれたらいいのにとも思いました。

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 五十鈴川で手と口を清めて。ひやっとした清流が気持ちよかったのでした。

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 スピリチュアル系のお二人は、木の霊気を受け取っていました。いいことがありますように。

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 正宮に近づくと、鬱蒼と緑が生い茂っていて心なしか涼しく感じました。前日の雨で緑が濃さを増したようでした。

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 皇室の御祖神であり日本人の御祖神であるといわれる天照大神が祀られている正宮。ここから先は撮影禁止です。参拝の礼法に従ってお参りしました。

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 (インターネットより転載) 私たちが直接目にすることができない「皇大神宮」。ここに天照大神が祀られています。この建築様式は「唯一神明造」といわれ、この建築様式は日本古来の建築様式を伝えているとのことです。

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 のんちゃんは一生懸命木の霊気と対話していました。今回の伊勢神宮参拝には期するところがあるようでした。

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 こちらの社殿は「入母屋造り」でしょうか(詳しくありませんので間違っていたら申し訳ありません)。緩やかな曲線と直線が入り組んでいるシンプルな美しさは気持ちを落ち着かせてくれます。

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 「神楽殿」は、お祓いや祈祷が行われていて、この日もスーツ姿のいくつかの団体が祈祷を受けていました。

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 (神楽殿内部:インターネットより転載) 「大々神楽」の「神楽」とは、神遊びともいって、わが国の上古から神事に用いられてきた歌舞で、皇室の弥栄、国家の平安、家内安全、心願成就などの御祈祷を行っているそうです。江戸時代、国民の6人に1人が神宮にお参りしたという「お蔭参り」。このお蔭参りで人々の一番の憧れは、伊勢で「大々神楽」を奉納することだったそうです。現在もこの伝統に基づき、参拝者の祈りを大御神にお取り次ぎしていただけるそうです。

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 お守りやお札売場にもたくさんの人が集まっていました。リコピンは友達など10人からお守りを頼まれたそうで、汗だくで行列に並んでいました。

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 参拝を終えて、宇治橋を渡って戻りました。五十鈴川の清流は涼しげに流れていましたが、蒸し暑さは増してきたようで、汗ビッショリとなりました。

 

私にとっては、日曜日の伊勢神宮参拝は初めてでした。全国からたくさんの人たちが参拝にきていて、随分賑やかでした。初参拝のリコピンにとってはもう少し厳かな雰囲気で参拝したかったようで、次は前泊して早朝参拝したいと言っていました。

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2016年7月 9日 (土)

街道歩き エベレスト街道

旧東海道、四国巡礼、奥の細道、中山道と主な街道を歩き終えたところ、2011年に東日本大震災が起こりました。特に、その前年に歩いた浜街道は津波や原発事故の直撃を受け、現在も立ち入り禁止になっている地域もあります。復興の先が見えず、しばらくは閉塞感に悩まされました。そんな時期、海外に歩けるところはないだろうかと海外へと目が向き、世界一の高峰エベレストを見てみたいと思いました。エベレストのベースキャンプに至る道は「エベレスト街道」と言われ、いずれはその街道を歩いてみたいと思いました。

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 ヒマラヤといえば8000m級の高峰が聳えている山岳地帯です。富士山くらいしか登ったことがない自分には、とても大変な所だと思っていたのですが、登山ではなくトレッキングなら何とかなるのではないかと準備を始めました。ヒマラヤのトレッキングの本によると、高地を歩くという大変さはありますが、たくさんのポーターさんが荷物は持ってくれ、テントも設営してくれて食事も作ってくれるそうで、その点では楽そうでした。

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 しかし、いきなりエベレスト街道を歩くというのはかなり不安で躊躇していたのですが、ある一冊の本に背中を押されました。「ヒマラヤのドン・キホーテ」という本で、著者の宮原さん(77才:2011年当時)という方は、30代でヒマラヤの山奥の標高3,880mにホテル・エベレスト・ビューを建て、ネパール国籍を得てネパール人になってしまった方です。こんな人がいたということとエベレストを間近に見ることができるホテルがあったことに感激しました。宮原さんが建てたホテルに泊まり、エベレストを眺めてみたいと思いました。

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 宮原さんは、日大理工学部出身で山岳部に所属していました。南極地域観測隊やヒマラヤ登山隊などにも参加し、30代でホテル・エベレスト・ビューの建設に取り組みました。還暦を迎えたときに、初めてエベレスト登頂を試みたのですが、頂上まで標高差5060m、距離にして300mの地点で断念したそうです。残念ながら高山病で片目が見えなくなり、下山したそうです。世界の登山家が憧れるエベレストを見てみたい(天候次第ですが・・・)という想いが強くなりました。

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 初めてのヒマラヤ行きの最大の目的は、ホテル・エベレスト・ビューに宿泊してエベレストを見ることとエベレスト街道の雰囲気を味わうことでした。ルートは成田からネパール(カトマンズ)へ、カトマンズからエベレスト街道拠点のルクラまで飛行機で飛び、ルクラからは軽飛行機に乗り換えるというものでした。ルクラからエベレスト街道を歩くと23日かかる道を、今回は一挙に飛行機で飛んで、その日は高山病対策のために飛行場から一度山を下り(標高3,440m)、翌日ホテル(標高3,880m)まで登るというものでした。

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 今回のヒマラヤトレッキングで一番の心配は高山病です。ホテル・エベレスト・ビューは富士山(3,776m)より高い標高3,880mにあり、私にとっては未知の領域です。富士山に何回登っても八合目から頂上まではいつも辛く苦しい思いをしていましたので、不安感解消のために事前の高山病対策をとりました。プロスキーヤーの三浦雄一郎さんが開設している高山病対策のトレーニングセンターに行きました。

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 出発の前々日(2011.4.20)に三浦ベースに行き、「4,000m高所テスト」(140分)を受けました。室内の高度は4,500mに設定してもらいました。ヒマラヤ観光開発(株)の宮原さん(社長)によると “3,600mに高山病の一つのラインがある。経験的にそう思う。あとは4,200mに。3,600mでは死なないが、4,200mでは死亡事故が起きる。また富士山に何回登っても、高地で宿泊するのはまた別物と言っていて、私にはかえって不安が増しました。

 

初ヒマラヤは、カミさんも行きたいとのことでしたので、二人の個人旅行となりました。日が近づくにつれ、何回も飛行機に乗り換え、最後は軽飛行機で富士山の八合目くらいの高地にある山間の飛行場まで無事に辿り着けるか、現地のガイドさんやポーターさん達と合流できるか、高山病にはかからないか、寒さに耐えられるかなど不安感が増してきたのでした。

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2016年7月 7日 (木)

街道歩き 奥の細道から浜街道へ

ダイビングにはまった時期からテクテクにはまった時期は、水中で生まれた生物が、陸生動物に進化して歩き回る姿を想像させ、我ながら可笑しいのですが、旧東海道と四国巡礼の後、何かに憑かれたように奥の細道へと脚が進んでしまいました。

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 芭蕉が奥の細道として歩いたのは、江戸の深川を出発して全行程600里(2,400km)、日数約150日といわれています。その足跡は日光街道を平泉中尊寺まで北上し、秋田県の日本海側に出て日本海を南下し、北陸を経由して琵琶湖湖畔を通り、岐阜県大垣市に至るというものです。

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 2007年の12月から20089月にかけて奥の細道を歩きました。最も印象が深かったのが栃木県大田原市黒羽町でした。芭蕉も最も気に入っていたという町で、芭蕉の里ともいわれています。(2008.3.19撮影)

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 2008.9.24 pm4:29 「奥の細道むすびの地 大垣市」に着きました。2007.12.19東京深川を出発し、途中交通機関などを使いながら延べ30日くらいの行程でした。芭蕉は2400kmを歩いた(馬にも乗りましたが)わけで、凄いことです。私は1/4600kmくらいは歩きたかったのですが、思うようには歩けませんでした。あまりにも歩ける道が少なかったことは残念でしたが、その分寄り道などして楽しい旅でした。おそら東海道五十三次と同じ500km以上は歩けたと思います。残念だったのは、旅の途中から携帯で撮影し現地からブログをアップしたためにひどい画像が残ってしまったことでした。

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 奥の細道の後は中山道へ。中山道は、日本橋から京都まで六十九次526km(東海道は五十三次503km)です。東海道が太平洋岸に沿ったルートであるのに対して、中山道は日本列島の中央部を貫いていることです。

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 2009.3.28 am7:17日本橋を出発しました。天気は晴れですが、気温は低く、冷たい北風が吹いていました。中山道は東海道と同じく日本橋を起点として京都がゴールですが、進路方向は東海道に背を向けて北上しますので、歩くたびにゴールの京都が遠くなるような錯覚を覚えました。(以下の画像は全てインターネットより転載)

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 木曽路は全て山の中といわれるように、中山道は木曽路をはじめとする山間部を走っています。

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 中山道のもう一つの特徴は、奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿など昔の姿そのものの風情のある宿場が残っていることで、東海道に比べると見所がたくさんありました。

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 中山道を歩いていて目についたのが皇女和宮の足跡でした。幕末、公武合体の象徴として皇女和宮は降嫁することとなり、東海道での混雑と過激派の妨害を避けるために中山道を下りました。和田宿では和宮一行30,000人が宿泊したという記述があり、大変な行列であったことは確かなようです。皇女和宮降嫁は中山道最大のイベントともいえます。いたるところで、都を懐かしんでの嘆き悲しむ歌が残されていたり、和宮が使用した浴槽なども残されていました。

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 中山道と東海道が分岐・合流する常夜灯で、東海道五十三次以来2回目です。二つのルートは日本橋で合流するのですが、かなり様相が異なる街道であることがわかりました。2009.5.31ここから26km先の京都三条大橋にゴールしました。この中山道もきちんとした写真を撮っていなかったことを悔やんでいます。

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 「陸前浜街道」という街道があることを知り、面白そうだと思って歩き始めました。陸前浜街道は水戸から宮城県岩沼市までの230kmの街道で、ほぼ国道6号線と一体となったり並行しています。水戸駅からほど近くに、「江戸街道起点の碑」がありました。江戸と水戸との間の水戸街道の起点と同時に陸前浜街道の起点でもあります。2009.10.19 am9:00 にスタートしました。

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 浜街道歩き2日目。五浦という地域は風光明媚な岬で、茨城県の名勝地として有名な場所です。この地域には岡倉天心美術館や岡倉天心が設計した六角堂という建物や天心のお墓がありました。この名勝の地は、2011.3.11の東日本大震災により壊滅的な打撃を受け、六角堂も海に流されたのですが、その後再建されました。

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 このあたり北茨城地域には27軒の民宿があり、うち平潟地域には16軒の民宿があります。どの民宿にしようかと選択に迷ったのですが、最も漁師っぽい「民宿大和丸」を選びました。食べきれないほどの料理を出していただきました。この民宿も大震災では大変な被害を受けたそうですが、再建なり、ご夫婦もお元気とのこと。

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 「民宿大和丸」の店先にはワンちゃんが留守番していました。このワンちゃんは無事だったのかどうか。無事を祈るばかりです。

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 この日の最終的目的地のいわき駅に向かう途中、「さはこの湯」という変わった名前で、松山市の道後温泉のような造りの温泉がありました。いわき湯本温泉は「三函の湯」と呼ばれ、1900年の歴史があるそうです。愛媛の道後、兵庫の有馬温泉と共に日本三古泉ともいわれたそうです。更に、戦国時代には秋保温泉、別府温泉と共に三大名湯ともいわれ、江戸時代には浜街道で唯一の温泉のある宿場として栄えたそうです。

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 年が変わって2010.4.24 。浜街道歩きを開始しました。通算して6日目でした。「夜ノ森桜トンネル」という魅惑的な名前の公園の桜が見所だというので早起きをして寄り道しました。富岡町は桜の里といわれていて、なるほど見事な桜並木でした。よもやの東日本大震災の原発炎上で、立ち入り禁止地域になろうとは思いもよりませんでした。誰に見られることもなく咲いている桜を想像すると悲しくなります。

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 2010.4.24 富岡町から双葉町、浪江町などの「原発銀座」を急ぎ足で通過して南相馬市に入りました。

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 南相馬市小高区の大悲山という地域には、国指定文化財の薬師堂石仏、阿弥陀堂石仏、観音堂石仏などからなる平安時代の磨崖仏群があるとのことでしたので寄りました。観音堂の石仏は十一面千手観音座像で高さは5.5m、台座の高さは約2mです。かなりの部分が剥落していましたので判別はできませんでした。観音座像の両側にも多数の化仏(けぶつ)座像が多数彫られているそうです。今にして思えば、ここでもっとたくさん手を合わせておけばよかったのに。

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 2010.4.24 浜街道7日目、南相馬市小高町に入りました。東日本大震災の1年前でした。小高市を流れる小高川の堤には見事な桜が咲いていました。

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 予約してあった「小松屋」という旅館にチェックインしました。素敵な女将さんがいらっしゃったのですが、立ち入り禁止地域となり廃業されたそうです。

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 浜街道7日目、相馬馬追祭場地と隣り合わせに陸上競技場があり、福島県高校陸上競技大会が行われていました。ちょうど100m競争のスタートが切られていて、高校生とはいえ11秒台で走る選手もいてスピード感あふれる走りにしばらく見とれていました。1年後、ここに集って桜の下で思い切り走った若者達にどんな運命が待っていたのか。この後、2010.4.25 浜街道8日目に宮城県岩沼市にゴールインしました。

 

旧東海道、四国巡礼、奥の細道、中山道、浜街道と歩いた街道歩きでした。悔やまれるのは、メモ代わりにして携帯で写真を撮り、そのままブログにアップした結果、見るに堪えない画像ばかりだったこと。中山道の趣のある街道や皇女和宮の悲嘆が伝わってくるような足跡が画像として残せなかったことでした。

 

さらに、東日本大震災の1年前に歩いた浜街道は、失ったものがあまりに大きかったことに気づかされました。失って初めてわかった日本の美しい風景、民宿のご夫婦、旅館の女将さん、町の食堂のおじちゃんたちの美しい人情、桜の下で躍動していた若者達の姿。思い出すのも辛いのですが、唯一の救いは浜街道の風景と人々の姿はきちんとした画像で残せたことです。

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2016年7月 4日 (月)

街道歩き 旧東海道から四国巡礼へ

ある時期ダイビングにはまり、ふと気がつくとごく普通に陸地を歩くことができなくなっていました。1時間も歩いたら足や膝が痛くなり、愕然としました。とにもかくにも歩くことと、始めたのが街道歩きでした。

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 最初の街道歩きは旧東海道でした。延べ19日間かけて200741日に京都三条大橋にゴールインし、橋の袂にあった弥次さん喜多さんの像にご挨拶しました。この時の街道歩きがテクテクのスタートになりました。

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 広島から迎えに来てくれたMさんと岩国のママさん、同行したのんちゃんと乾杯しました。

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 まるでゴールインを祝ってくれるかのように高瀬川にかかる桜が満開でした。この日4/1はテクテクの原点となりましたので、毎年この日には京都でお花見をするようになりました。

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 旧東海道の次に歩いたのが「四国八十八ヵ所」、四国巡礼でした。どういう心境でそうなったのかは記憶が定かではないのですが、何となく歩き甲斐がありそうでした。楽しく歩けそうなガイドブックを頼りに、四国4県を32日間で歩くことにしました。(以下の画像は、携帯によりものであり、その日の画像は現地からアップしたもので、見にくいことをお許し下さい)

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 2007年の58日、一番札所の霊山寺からスタートしました。霊山寺前の売店で、白装束や菅笠、金剛杖などお遍路グッズ一式を買って身に着けると気持ちはキリリと引き締まったのですが、それ以上に恥ずかしかったのでした。

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 四国八十八ヵ所を巡る道は総延長1100km~1400kmあるといわれています。詳細な地図を頼りに歩き始めたのですが、遍路道の標識があり迷うことはありませんでした。

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 初めて泊まった宿坊は、六番札所の安楽寺の宿坊でした。部屋はとても清潔で、翌朝は朝早くから本堂で朝のお勤めがあり、少しずつ遍路気分となりました。

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 126500円、料理はまあまあで、ビールが飲めてよかったのでした。お坊さんがビールの注文をとっているのがおかしかったです。

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 お遍路さんが随分いて、時には一緒に歩いたりもしましたが、お互いの事情(遍路をしている理由とか)については何となく聞かないのがルールということはわかっていました。それでも、先方から娘さんを亡くしたとか、離婚したとか、打ち明けられたりしたこともありました。

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 一日どのくらい歩くか、どこに泊まるかなどは全て自分で決め、宿はできるだけ事前に予約しました。遍路道は街中もあり、山の中の道もあり、山の中は蛇に要注意でした。

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 コンクリートの道もあり、舗装路が続くと足にこたえました。楽しそうにノンビリ歩くお遍路さんもいれば、思い詰めたように歩くお遍路さんもいました。私は何を考えていたのか思い出せませんが、歩くことが楽しかったのでした。

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 この日の宿は「富士屋本館」という名前の鄙びた宿で、ここも126500円でした。

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 ルートによっては一日中山の中だったりすると食事処がないケースも多くありました。翌日のルートを調べて、事前に昼食のお弁当をオーダーしておくこともしばしばありました。

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 こういう道は歩いていても楽しめました。

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 何となくお遍路姿も板についてきたような。街中を歩いていても恥ずかしくも何ともなくなりました。

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 街中を歩いていると地元の人が車に乗っていきませんかとよく声をかけられました。できるだけ歩こうとは思ってはいたのですが、疲れがひどいときにはついつい乗ってしまったことも。

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 何ヵ所かは 遍路転がしという難所もありました。

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 歩いているとしばしば ご接待を受けることがありました。食べ物や果物など、いただきすぎてリュックがパンパンになってしまったこともありました。

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 高知県・室戸岬の手前、若き頃の空海が修行したといわれる「御蔵洞」。この洞の中から外を眺めると、 “空と海” が見えるのでした。

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 高知県では随分雨に降られました。下着は汗で、雨具は雨でびっしょりとなりました。

 

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 こんな気持ちのいい道もありました。

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 OLさんや卒業前の学生さんなど、若い女性のお遍路さんもかなり見かけました。

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 遍路転がしの難所では、激励のお札もありました。

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 この日の道のりは20キロ、長い道のりでした。岡山から来られた年輩の方と一緒になりました。3回目のお遍路で、目的地迄導いていただくことになりました。

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 この宿は、本物の金、いわゆる純金でできた黄金大師像が自慢のど派手な宿でした。黄金大師にどんなお願いをしてもいいという触れ込みで、その謳い文句にのせられて千客万来でした。私も。

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 12食付きで8000円とちょっと高かったのですが、食事も自慢ということでした。食卓についてびっくり、大分からきたお遍路さんと二晩続けて同じテーブルで、早速乾杯。どうしてこういうことが起こるかといいますと、団体さんが多く、個人客は一つのテーブルにまとまられてしまいます。団体さんが大騒ぎしている脇で、一人寂しく食事するよりも、話しをしながら食事ができるのはありがたいことでした。

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 この日のお宿は、海の幸という民宿でした。四国八十八ヶ所巡りの中で、最も質素なお宿でした。雨露凌げて、汗を流して、ビールを頂ければどんなところでも幸せです。おじいちゃんとおばあちゃんが二人でやっているお宿ですが、おばあちゃんが急に倒れ、料理が作れなくなってしまい、おじいちゃんが慣れない手つきでお料理を作っていました。今までで一番質素でしたが、美味しいお料理でした。ご飯を三杯もお代わりしました。おじいちゃんに写真を撮らせてくださいとお願いしましたら、きちんと正座されました。廻りには全く何もないところでしたが、温かいお宿でした。一番印象に残っているお宿でした。

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 室戸岬から足摺岬までの道のりの長かったこと。

 

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 何回か遭遇した蛇の姿をようやく捉えることができました。

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 最も質素なお宿もあれば、ちょっと贅沢な宿もありました。奮発して道後温泉のホテルに泊まりました。

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 八十八番札所、最後の札所の大窪寺は雨でした。20071161530分に、本日の行程24キロ、510日にスタートしてほぼ500キロのテクテクのゴールでした。

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 この日のお宿は、大窪寺の近くにある唯一の民宿でした。八十八ヶ所を廻り終えた人は、ほとんどここに泊まります。皆さん笑顔でした。

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 ほとんどがどこかで出会ったお遍路さんでした。早速皆さんと乾杯で、仙台から来ている方とも再会の乾杯をしました。

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 熱燗のコップも昔懐かしいもので、皆さんと飲み交わし盛り上がりました。

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 12食付きの6500円の民宿ですが、結願記念のお赤飯がありとても嬉しかったです。トイレ付き個室のとてもいい民宿でした。終わり良ければ全てよしでした。

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 一番霊場焼山寺に戻ってきました。これで一番から八十八番迄の四国一周の輪が繋がりました。御礼の鐘をおもいっきり打ちました。510日にここに到着し、門前のお店で白衣等お遍路用品一式買い揃え、身につけた時には、震えを感じたものでした。境内には、真新しい白衣を身につけた緊張の面持ちのお遍路さんと、八十八ヶ所廻り終えホッとしたお遍路さんがいて、一目でわかりました。

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 八十八ヵ所の札所巡りを終え、最後は高野山にお礼参りをしました。高野山では大きな宿坊に宿泊したのですが、宿泊者は私一人。食事の部屋に通されてびっくりしました。12畳の部屋で、床の間を背に席が設けられていました。食事は、手づくり胡麻豆腐、山芋のかば焼きなどの精進料理で素晴らしいものでした。最初は妙に落ち着かなかったのですが、たくさんの御膳が出てきて、料理も美味しく、盃を重ねるうちに殿様気分になってしまいました。翌朝は朝のお勤めがありました。

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 八十八ヵ所の札所巡りを廻り終えて、金剛杖や菅笠を納める人もいますが、私はまた出かけるかもしれないのと、なんとなく愛着があるので手放せませんでした。高野山でゆったりとした時間を過ごしてみて、八十八ヵ所の巡礼は高野山への旅であることを実感しました。高野山の納経印を押してもらった白衣(はくえ:白装束)は、死んだ時に着せてもらう死装束で、極楽に行けるとも言われています。

 

旧東海道歩きから四国巡礼へと、テクテクは続きました。32日間、約500キロを、病気も怪我もトラブルも無く、挫折せず無事に歩き通せたことを感謝しています。

 

帰ってからアルバムを整理するのが面倒で、日々現地で撮った写真を現地からブログ更新しました。その結果、とても見にくい画像となりました。もっとも当時(2007年)はブログが今日まで続くとは思っていませんでした。

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2016年7月 2日 (土)

モルディブ便り1998年 サ・ヨ・ナ・ラ

年末の行事として定着しつつあった感のあるモルディブ滞在でしたが、周辺のダイビングポイントもほとんど潜ってしまい、もう今年が最後でもいいかなあという思いが強くなりました。

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 この年は、クリスマスの時期の予約が取れず、また水上コテージの予約も取れませんでした。ここはサンライズビラの通路で、リニューアルされたようで以前に比べて瀟洒になっていました。

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 時々、変わった訪問客がありました。

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 ビーチに面した出入り口は、以前はコンクリートの打ちっ放しでしたが、ウッドデッキになっていました。時代の流れに合わせてリニューアルされていました。

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 窓からの視界も広くなったようで、樹々と陽射しとその先にビーチが見えて、朝の目覚めが何とも気持ちよかったのでした。

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 室内も随分と明るくなりましたが、シンプルさは変わらず、何もない居心地のいい空間でした。

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 シャワールームも新しく、さらに清潔感が増しました。

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 モルディブではたくさんの出会いがありましたが、新婚の朝ちゃんご夫妻と知り合ったのもここでした。それぞれ個人手配の旅行なのですが、来るときの飛行機の中から一緒でこれも何かの縁でしょう。

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 朝ちゃんはウェットスーツを着て水と戯れ魚と戯れていて、最後は魚に取り囲まれて見えなくなってしまいました。

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 朝ちゃんのご主人と私とのツーショット。

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 朝ちゃんは、蝉のように木にしがみついておどけていました。

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2016.5.13撮影) 先月、広島・九州周遊でピクニックに連れて行っていただきましたが、18年経っても茶目っ気ぶりは変わりませんでした。一緒にいても話をしていてもとても楽しい方です。

 

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 2016.5.13撮影) 18年後に桜島に一緒に行くようになるとは思いもしませんでした。

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 こうして思い返してみるとご夫妻とは随分一緒に遊んだものでした。

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 この年は私は水上コテージの予約が取れませんでしたので、朝ちゃんご夫妻の水上コテージにお招きいただきました。

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 朝ちゃんご夫婦は一足先に島を離れました。私は島に取り残されたような。

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 「ヴァドゥ・ダイビングパラダイス」での最後の食事となりました。もうこの時にはモルディブもこれが最後という気持ちが固まっていました。

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 大好きだったモルディブの夕陽も見納めでした。

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たくさんの人たちを見送った後、今度は自分が見送られ、島を離れ、モルディブの首都マーレに着きました。1996年は三人旅で賑やかだったのですが、この年は一人での帰国となりました。

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 名残を惜しみつつモルディブ・マーレ空港を飛び立ちました。

 

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私にとっては楽園だったモルディブ、今でもあの海の美しさを忘れることはできません。またたくさんの人たちと出会いました。朝ちゃんご夫妻のような新婚さんもたくさんいらっしゃいました。以来20年近くになります。皆さん、きっと素晴らしいご家庭を築いていると思いますし、末永くお幸せにとお祈り申し上げます。

 

この年が最後になったモルディブでしたが、ここ数年もう一度あの海を見たいと思ってはいるのですが、何回か書きましたように、モルディブのリゾート全体が豪華になり、特に「ヴァドゥ・ダイビングパラダイス」は経営が外国人に変わり、この当時の面影がすっかりなくなりました。幻滅することは明らかです。このブログでの思い出を大切にしてゆきたいと思っています。

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