« 街道歩き 旧東海道から四国巡礼へ | トップページ | 街道歩き エベレスト街道 »

2016年7月 7日 (木)

街道歩き 奥の細道から浜街道へ

ダイビングにはまった時期からテクテクにはまった時期は、水中で生まれた生物が、陸生動物に進化して歩き回る姿を想像させ、我ながら可笑しいのですが、旧東海道と四国巡礼の後、何かに憑かれたように奥の細道へと脚が進んでしまいました。

01
 芭蕉が奥の細道として歩いたのは、江戸の深川を出発して全行程600里(2,400km)、日数約150日といわれています。その足跡は日光街道を平泉中尊寺まで北上し、秋田県の日本海側に出て日本海を南下し、北陸を経由して琵琶湖湖畔を通り、岐阜県大垣市に至るというものです。

02
 2007年の12月から20089月にかけて奥の細道を歩きました。最も印象が深かったのが栃木県大田原市黒羽町でした。芭蕉も最も気に入っていたという町で、芭蕉の里ともいわれています。(2008.3.19撮影)

03
 2008.9.24 pm4:29 「奥の細道むすびの地 大垣市」に着きました。2007.12.19東京深川を出発し、途中交通機関などを使いながら延べ30日くらいの行程でした。芭蕉は2400kmを歩いた(馬にも乗りましたが)わけで、凄いことです。私は1/4600kmくらいは歩きたかったのですが、思うようには歩けませんでした。あまりにも歩ける道が少なかったことは残念でしたが、その分寄り道などして楽しい旅でした。おそら東海道五十三次と同じ500km以上は歩けたと思います。残念だったのは、旅の途中から携帯で撮影し現地からブログをアップしたためにひどい画像が残ってしまったことでした。

0469
 奥の細道の後は中山道へ。中山道は、日本橋から京都まで六十九次526km(東海道は五十三次503km)です。東海道が太平洋岸に沿ったルートであるのに対して、中山道は日本列島の中央部を貫いていることです。

05
 2009.3.28 am7:17日本橋を出発しました。天気は晴れですが、気温は低く、冷たい北風が吹いていました。中山道は東海道と同じく日本橋を起点として京都がゴールですが、進路方向は東海道に背を向けて北上しますので、歩くたびにゴールの京都が遠くなるような錯覚を覚えました。(以下の画像は全てインターネットより転載)

06
 木曽路は全て山の中といわれるように、中山道は木曽路をはじめとする山間部を走っています。

07
 中山道のもう一つの特徴は、奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿など昔の姿そのものの風情のある宿場が残っていることで、東海道に比べると見所がたくさんありました。

08
 中山道を歩いていて目についたのが皇女和宮の足跡でした。幕末、公武合体の象徴として皇女和宮は降嫁することとなり、東海道での混雑と過激派の妨害を避けるために中山道を下りました。和田宿では和宮一行30,000人が宿泊したという記述があり、大変な行列であったことは確かなようです。皇女和宮降嫁は中山道最大のイベントともいえます。いたるところで、都を懐かしんでの嘆き悲しむ歌が残されていたり、和宮が使用した浴槽なども残されていました。

09
 中山道と東海道が分岐・合流する常夜灯で、東海道五十三次以来2回目です。二つのルートは日本橋で合流するのですが、かなり様相が異なる街道であることがわかりました。2009.5.31ここから26km先の京都三条大橋にゴールしました。この中山道もきちんとした写真を撮っていなかったことを悔やんでいます。

10
 「陸前浜街道」という街道があることを知り、面白そうだと思って歩き始めました。陸前浜街道は水戸から宮城県岩沼市までの230kmの街道で、ほぼ国道6号線と一体となったり並行しています。水戸駅からほど近くに、「江戸街道起点の碑」がありました。江戸と水戸との間の水戸街道の起点と同時に陸前浜街道の起点でもあります。2009.10.19 am9:00 にスタートしました。

11
 浜街道歩き2日目。五浦という地域は風光明媚な岬で、茨城県の名勝地として有名な場所です。この地域には岡倉天心美術館や岡倉天心が設計した六角堂という建物や天心のお墓がありました。この名勝の地は、2011.3.11の東日本大震災により壊滅的な打撃を受け、六角堂も海に流されたのですが、その後再建されました。

12
 このあたり北茨城地域には27軒の民宿があり、うち平潟地域には16軒の民宿があります。どの民宿にしようかと選択に迷ったのですが、最も漁師っぽい「民宿大和丸」を選びました。食べきれないほどの料理を出していただきました。この民宿も大震災では大変な被害を受けたそうですが、再建なり、ご夫婦もお元気とのこと。

13
 「民宿大和丸」の店先にはワンちゃんが留守番していました。このワンちゃんは無事だったのかどうか。無事を祈るばかりです。

14
 この日の最終的目的地のいわき駅に向かう途中、「さはこの湯」という変わった名前で、松山市の道後温泉のような造りの温泉がありました。いわき湯本温泉は「三函の湯」と呼ばれ、1900年の歴史があるそうです。愛媛の道後、兵庫の有馬温泉と共に日本三古泉ともいわれたそうです。更に、戦国時代には秋保温泉、別府温泉と共に三大名湯ともいわれ、江戸時代には浜街道で唯一の温泉のある宿場として栄えたそうです。

15
 年が変わって2010.4.24 。浜街道歩きを開始しました。通算して6日目でした。「夜ノ森桜トンネル」という魅惑的な名前の公園の桜が見所だというので早起きをして寄り道しました。富岡町は桜の里といわれていて、なるほど見事な桜並木でした。よもやの東日本大震災の原発炎上で、立ち入り禁止地域になろうとは思いもよりませんでした。誰に見られることもなく咲いている桜を想像すると悲しくなります。

16
 2010.4.24 富岡町から双葉町、浪江町などの「原発銀座」を急ぎ足で通過して南相馬市に入りました。

17
 南相馬市小高区の大悲山という地域には、国指定文化財の薬師堂石仏、阿弥陀堂石仏、観音堂石仏などからなる平安時代の磨崖仏群があるとのことでしたので寄りました。観音堂の石仏は十一面千手観音座像で高さは5.5m、台座の高さは約2mです。かなりの部分が剥落していましたので判別はできませんでした。観音座像の両側にも多数の化仏(けぶつ)座像が多数彫られているそうです。今にして思えば、ここでもっとたくさん手を合わせておけばよかったのに。

18
 2010.4.24 浜街道7日目、南相馬市小高町に入りました。東日本大震災の1年前でした。小高市を流れる小高川の堤には見事な桜が咲いていました。

19
 予約してあった「小松屋」という旅館にチェックインしました。素敵な女将さんがいらっしゃったのですが、立ち入り禁止地域となり廃業されたそうです。

20
 浜街道7日目、相馬馬追祭場地と隣り合わせに陸上競技場があり、福島県高校陸上競技大会が行われていました。ちょうど100m競争のスタートが切られていて、高校生とはいえ11秒台で走る選手もいてスピード感あふれる走りにしばらく見とれていました。1年後、ここに集って桜の下で思い切り走った若者達にどんな運命が待っていたのか。この後、2010.4.25 浜街道8日目に宮城県岩沼市にゴールインしました。

 

旧東海道、四国巡礼、奥の細道、中山道、浜街道と歩いた街道歩きでした。悔やまれるのは、メモ代わりにして携帯で写真を撮り、そのままブログにアップした結果、見るに堪えない画像ばかりだったこと。中山道の趣のある街道や皇女和宮の悲嘆が伝わってくるような足跡が画像として残せなかったことでした。

 

さらに、東日本大震災の1年前に歩いた浜街道は、失ったものがあまりに大きかったことに気づかされました。失って初めてわかった日本の美しい風景、民宿のご夫婦、旅館の女将さん、町の食堂のおじちゃんたちの美しい人情、桜の下で躍動していた若者達の姿。思い出すのも辛いのですが、唯一の救いは浜街道の風景と人々の姿はきちんとした画像で残せたことです。

|

« 街道歩き 旧東海道から四国巡礼へ | トップページ | 街道歩き エベレスト街道 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 街道歩き 旧東海道から四国巡礼へ | トップページ | 街道歩き エベレスト街道 »