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2018年10月30日 (火)

本の旅 「世界しあわせ紀行」 06北欧編

どこの国が幸せかという本の2冊目は「限りなく完璧に近い人々~なぜ北欧の暮らしは世界一幸せなのか?」という本でした。

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「何故北欧の暮らしは世界一幸せなのか?」というサブタイトルがついた本の著者マイケル・ブースはイギリス人で夫人はデンマーク人で、夫婦でデンマークに住んでいます。著者はトラベラーズジャーナリストでありフードジャーナリストでもあります。「英国一家、日本を食べる」の著作もあり知日家でもあります。

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本書でとりあげられている5ヶ国のうち、私が実際に行った国、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、スウェーデンの4ヶ国の幸せ状況を見てみたいと思います。もともと高福祉高負担の北欧モデルは大学時代のゼミでの研究テーマの一つでしたので興味がありました。

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2015年の英国の日刊大衆紙で「デンマークは世界で一番幸せな場所」と報じられた。著者は思いました。「一番幸せ? 現在住んでいるこの暗くて雨が多くて退屈で平坦な国、冷静で分別あふれる、ごく少数の国民が住む、世界一税金の高い国が?」と首を傾げています。デンマークに住むようになって日が浅いが、スーパーマーケットの途方もなく高価で質の低い食品、不機嫌そうなレジ係。まわりのデンマーク人(だけではなくて北欧の人々も)は無愛想で面白みに欠けると散々です。

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2018.7.12の読売新聞に「日本は北欧に何を学ぶのか」という記事が掲載されました。 

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著者の不満にもかかわらず、国連の2018年度世界幸福度ランキングで1位はフィンランド、次いでノルウェー、デンマーク、アイスランドの順で上位5ヶ国中4ヶ国を北欧が占め、スウェーデンも9位だったというものです。ドイツ15位、米国18位、日本は54位とのこと。今や、北欧諸国が幸せの国であることは世界中が認めていることでもあります。

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著者は次のように認めています。「スカンジナビア諸国は、世界最高の教育システムを持つフィンランド、健全な政教分離が保たれ、多文化であり、近代的に工業化された、社会の鑑と呼べる国スウェーデン、石油による膨大な富を分別と倫理観を持って長期的な事業に投資している国ノルウェー等々。またデンマーク人の建築家は国際的に高評価を得ているし、北欧の家具や料理も評価は高い。」

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一方、著者は「天気は相変わらず最低。税率は50%を超えている。必要な時に店は必ず閉まっている」と疑問を投げかけ、さらに「北欧がそんなにいい国なら、何故多くの人々がスペインやフランスに移住したいというのだろう」と。

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2015.5.223110日間、「大自然に魅せられる北欧4ヵ国周遊10日間」というツアーに参加しました。成田~フィンランド~スウェーデン~ノルウェー~デンマークの4ヵ国を巡りました。次回から、実際に巡ったごくごく小さな見聞を交えながら、「限りなく完璧に近い人々~なぜ北欧の暮らしは世界一幸せなのか?」の本の旅に出ようと思います。

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2018年10月27日 (土)

本の旅 「世界しあわせ紀行」 05インド:幸せは矛盾する

著者が向かった先は人口122500万人の大国インドでした。0138
人口予測では2024年に中国を抜いて世界一になるとか。こんなに人口が多い国で、あなたは幸せなんて誰に聞くのでしょうか。

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著者にとってインドとは、「インドは大嫌いな国であり、大好きな国でもある。」とのこと。

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膨大な人口を抱えるインドで、著者が質問をぶつけたのは、「IT業界で働くインド人に世界で一番幸せな場所を探しているのだと話してみた。ところが彼らはけげんそうな表情をして、疑り深そうに私を見つめた。『幸せの量なんか測って、どうするんですか』と。拍子抜けするほど素直な疑問だった。でもうまい答えが見つからない。幸福の定量化は可能なのかという問題についてはずいぶん考えたが、そもそも定量化するべきかどうかは考えたことがない。」 

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著者は禅問答のような答えに窮しました。「『インドでは、すべてが正しくて、その逆も正しい。ここはインドだから』と言った。」

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IT産業に働くインド人は続けます。「インド人だって成功したいと考えていますが、願望がかなわないときの対処の仕方が異なります。我々インド人はこう考えます。『なすべきことはすべておこなった。あとは天にまかせるだけだ』、人々が偶然性と呼んでいることを、インドでは天命と呼びます。」と。

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著者が行き着いた先は、「人生はすべてマーヤー(幻)だというヒンドゥー教の教えが頭に浮かんだ。」 

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著者は、「インドでは幸せは矛盾する」と、何のことだかわからない結論を出しています。インド人が幸せかどうかはあまり意味がないようですし、インド人のことを考えていると私も頭がおかしくなりそうでした。

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そういえば “群盲像を撫でるあるいは評す” という言葉は「大勢の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う」というインド発祥の寓話でした。さすがお釈迦様を生んだ国で奥が深いです。

「世界しあわせ紀行」の著者は10ヶ国を訪ね歩いたのですが、そのうち自分が行ったことがある国、あるいは興味がある国などオランダ、スイス、ブータン、タイ、インドなどの5ヶ国を取りあげました。

一方、カタール、アイスランド、モルドバ、イギリスなどは行ったこともなく興味がないために触れませんでした。アメリカは多民族国家であり、インドとはまた違った点で大国でありつかみ所がないために触れませんでした。

次回からは行ったことがあり日頃から興味を持っている北欧を訪ねてみたいと思います。

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2018年10月24日 (水)

本の旅 「世界しあわせ紀行」 04タイ:幸せとは何も考えないこと

著者はほほ笑みの国タイを訪れました。

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ほほ笑みの国タイのほほ笑みについての著者の分析は、「タイのほほ笑みには意味がある。それは仮面だ。もっと正確に言えば、数多くの仮面を意味している。タイのほほ笑みは、幸せはもちろん、怒り、疑い、不安、そしてときには深い悲しみさえあらわすことがある。タイ人は葬式の時でも笑うので、それを見た外国人は面食らう。」・・・そんなもんでしょうか・・・。

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タイは正確には「タイ王国」といい、国土はマレーシア、カンボジア、ラオス、ミヤンマーなどと国境を接しています。ほほ笑みの国といわれていますが、2014年に軍事クーデターが起きて、現在まで軍事独裁政権が続いている不思議の国なのです。

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著者はこんな意地の悪い指摘もしています。「ある研究によると、少なくとも正常な人は、一人でいるときにはめったに笑わないという。ほほ笑みというのは、心理状態のあらわれというより、人と親交を深めるためのジェスチャーなのである。」と。

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タイのイメージは平和で穏やかな国というイメージがありますが、実は頻繁に政変が起きている血の気の多い国なのです。2014年の軍事クーデターによる軍事独裁政権が今でも続いていますが、政変の度に登場するのが国王(画像は前国王2016年崩御)で、特に前国王は国民からの信頼と人気が高かったのです。日本の天皇と同様平時は象徴的な存在なのですが、日本と大きく異なるのは政治や国軍に直接介入することです。

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タイは仏教国で、僧侶は非常に尊敬される存在です。タイ人の多くの親は男の子なら子どもを僧侶にさせたいと思っているのです。

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ヒマラヤには4回通い、ネパールへは大抵タイのバンコクでトランジットのために1泊しました。初めてヒマラヤに行った2011.4バンコクの国際飛行場でお坊さんの姿を見たときは、そうだタイは仏教の国でお坊さんの地位が高く、兵隊よりもお坊さんの方が多い国ということを思い出しました。

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「タイ人は自己啓発本を買ったり、精神療法に通ったり、問題についてとことん議論したりすることがない。」と著者はいいますが、そういえばタイに限らず周辺国のベトナムやネパールでもあまり本を読んだり議論している姿はあまり見かけませんでした。一部の富豪を除けば概して所得が低い人々ですが、比較的ニコニコして幸せそうに見えたものです。

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(画像は2011.4撮影) 著者はバンコクについて、「現代の西洋の都市は何の匂いもしない。ところがバンコクはあらゆる匂いが漂っている熱気ある都市だ。バンコクという町の境界線が何処にあるか、誰に聞いても答えられない。正確な人口を誰も知らない。バンコクは一つの都市というよりも、村の寄せ集めである。村とほぼ同じような生活が営まれている。」と言っていますが、確かにバンコクは村の寄せ集めのようでもあり、それはベトナムやネパールでも同じようなものではないでしょうか。

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タイ人は(トルコ人と同じように)親日的で、私たち日本人もタイという国やタイ人に親しみを覚えています。

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日本人の海外移住は年々増加しています。移住先は1位アメリカ、2位中国、3位オーストラリア、4位タイとなっています。自分で仕事を探し移住する若い人が増えているそうです。ひと昔前は物価が安く女性が優しいタイで老後暮らそうという人たちが多かったのですが、そういう人たちはタイで幸せな老後を迎えているのでしょうか・・・。 

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著者は「タイ人はなぜこれほど幸せに見えるのかと尋ねてみる。『タイ人は何事も深刻に考えることはありません。物事を深刻に考えることはありません。クーデターが起きてもあまり心配するタイ人はいません。』」と記し、タイについては「幸せとは何も考えないこと」と結ぶのです。

本を読もうが読むまいが、議論をしようがしまいが、何も考えなくてもほほ笑みを浮かべることができれば・・・私には幸せそうに見えるのです。

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2018年10月21日 (日)

本の旅 「世界しあわせ紀行」 再びのブータン

この記事は20132月にブログに掲載したものに多少加筆して再掲するものです。

ネパールとブータン、共にヒマラヤに位置していて、対比するとリーダーのあり方について考えさせられました。ネパールには4回行きましたが、いつかブータンにも行く機会があるかもしれないと思っていたのですが、その機会は訪れませんでした。

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「ブータン 百寺巡礼」(五木寛之2011年)で作家の五木寛之氏は次のような印象を記しています。 「新しい世界仏教の波を感じつつ、インドからはじまった旅のなかで、もっとも不思議な思いを抱いたのがブータンの日々だった。ごく短い滞在だったが、帰国する時に、立ち去りがたい感じをこれほど強く受けたことはなかったような気がする。」  

「ブータンを訪れたのは、もちろんはじめてである。しかし、ブータンの地をふんで最初に感じたのは、ある懐かしさのような気配だった。「この風景は、いちど前に見たことがある。」 

ブータンは世界で唯一チベット仏教を国教としている国ですので、中国で弾圧を受けているチベット仏教徒がブータンに学びに来ていて、チベットとブータンの間にはチベット仏教をベースにした人的ネットワークがあります。

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かつては入国者の数は5千人に制限され準鎖国といわれていたのですが、現在は年間2~4万人の観光客が訪れています。ツアー会社によるブータンへの企画も増えてきていますが、しかし自由旅行は不可で、旅行会社を通さなければなりませんし、かなり情報統制も行われているようです。実際にブータンにツアーで出かけたことのある添乗員の話では、ブータンは隔靴掻痒的に“もどかしい” と言っていて、うわべだけを撫でているような感じがするとも言っています。おそらく観光客の増大による悪影響を必至になって防ごうとしているのではないかと思われます。中国とインドに挟まれた弱小国が、独立性を保つためにやむを得ないのではないかとも思います。

同じヒマラヤに位置していて同じように小国のネパールとブータンを比べてみますと。ブータンは国のリーダーがしっかりしていて、きちんとした国づくりが行われているのに対して、ネパールは政治的に混沌としていて、年中ゼネスト(自分も滞在中に何回か遭遇しました)が行われています。 

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(画像は2011.4 カトマンズ市内) ブータン最大の収入源は水力発電の電力で、インドへ売っていて歳入の4割を占めているのに対して、ブータンと同じように豊かな水脈をいくつも持つネパールでは水力発電は微々たるもので、首都カトマンズでは現在でも計画停電が行われています。電力不足のため信号機も停止していて、交通整理のお巡りさんが頑張っていました。 

ブータンは、アジアの他の国の首都のように、急速な近代化に走ったあげく環境破壊の街になるようなこともなく、また観光客の受け入れも制限してきました。一方ネパールは、70年代、ブータンに先んじて観光客をどんどん受け入れ、環境破壊だけでなく、文化や社会、経済にまでかなりの変化がもたらされました。

ブータンはチベット仏教の国であり、人々は穏やかといわれていて、何よりしあわせの国といわれていて環境は保護され、街は清潔だそうです。ネパールは、騒音や排気ガスによる喧騒の街であり、かなり本能とホンネむき出しの人間くさい国です。しかし混沌としているネパールの街は好きですし、心やさしいガイドさんやポーターさん達に親しみも感じています。 

 ネパールとブータン、共に中国とインドの大国に挟まれていますが、国のリーダーによりこれほど異なった国体となっていることに、改めて国のリーダーの大切さを考えされられます。

30年前まで準鎖国状態にあったブータン、今でも情報統制が行われている一方で、グローバルゼーションやモータリゼーションの進展、インターネットや大型テレビ、携帯電話など情報化の波及、観光客の増加などによる国民の意識や環境への影響に対して、小国の国王がどのように舵取りを行うのか、世界の先進国や大国が注目しています。

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ブータンは、正式にはブータン王国といい、国境は接していませんがネパールの東側に位置していて、中国とインドの両大国に挟まれています。面積は日本の九州と同じくらいで、人口は67万人の小国です。就労人口の90%が農林業ですが、主食の米はインドから輸入していて、製造業はまったくありませんので、学校で使うゴムボール一つさえ輸入しなければなりません。また国の歳入の1/3が海外からの援助で賄われています。

中国とは国交は樹立していませんが領事館が香港にあります。2000年代に入り中国がブータン領内で道路建設を行い、越境行為が行われたためブータン政府が抗議を行っています。

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第五代の国王夫妻が201111月に来日(画像は東日本大震災の被災地福島県相馬市を訪問した時のもの)しましたので、 “幸せの国ブータン”ブームが起こっています。第三代国王が名君といわれ、1952年に中国がチベットに侵攻し呑み込まれ、同じ隣国のシッキムはインドに併合されたのを見て、ブータンにも及びそうな国際的危機を外交で乗り切りました。文化的、宗教的にも遠かったインドと関係を深め、1971年国際連合に加盟して中国、インドの大国のはざまで小国の独立を保ちました。国内の改革も行い、国会や教育などの制度を整え、経済計画をつくりました。

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「ブータンしあわせ旅ノート」(岸本葉子)は、著者が1998年に11日間個人旅行した紀行文です。内容は、学校見学、薬草病院、野菜市場、農家に滞在、ブータン料理の体験や見学など多岐にわたっていて、著者はブータンのやさしさや居心地の良さを体験しました。しかし “日本に比べてブータンの方が豊だ” というのはナンセンスだろうとも言っています。“GNPよりしあわせ指数”といったのは第四代国王で、“しあわせとは何なのか”と、人々に足を止めて考えさせる象徴として、地球上で機能しているともいえると、鋭い指摘も行っています。

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「幸福立国ブータン 小さな国際国家の大きな挑戦」(大橋照枝2010年)は、第四代国王が21歳の時、1976の国際会議の記者会見でブータンのGDPについて聞かれた時、ブータンはGDPより心の満足を重視していると答え、GNHGross National Happiness)いわば「国民総幸福量」という言葉が発信されました。GNH4本柱として、①経済的自立(歳入の3割は海外援助) ②環境保護 ③文化の推進 ④良き統治があげられています。 

2008年に行われた世論調査(950サンプル)では、“国民の97%が幸福”と答え、国家の将来像を模索する先進国の注目を浴びました。世論調査の専門家の中には、選択肢がおかしいという指摘もありますが、ブータンという小国が、一つの国が目指す目標を明らかにしていることは評価されるべきだと思います。 

「ブータンしあわせ旅ノート」の追補版では、“現国王夫妻が好印象を残して去った日本では、急にわき起こったブータン礼賛への違和感か、疑問の声も出てきている。ブータンの人は、本当にしあわせなのかと。” といった意見にも触れています。ブータン礼賛はマスコミとツアー会社がもたらしたものであり、国王も人々もブータンを理想化することは望んでいないとも言っています。

GDPよりGNHとはいえ貧困撲滅は大きな課題であり、製造業を持たない国ですので、環境汚染などは他の国に比べれば深刻ではないとはいえ、ゴミ問題が一番の問題になっていて、ゴミ処理の資金や技術が不足しているのも現実です。

ブータンの1人あたりGDP2017年)は190ヶ国の中で129位(日本は25位、韓国29位、台湾35位、中国74位)です。順位がブータンに近い国は、119位モンゴル、126位モロッコ、128位フィリピン、135位ベトナムなどです。尚、パキスタンは150位、ネパールは165位となっています。

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2018年10月18日 (木)

本の旅 世界しあわせ紀行 03ブータン:幸せは国是

著者がスイスに次いでブータンに向かいました。ブータンは「国民総幸福量(GHN)で知られた国です。

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著者はいいます。「ブータンという国について、『失われた地平線』のシャングリラ(理想郷)を思い浮かべた。ブータンには理想郷に欠かせない特別な要素が数多く見られる。慈愛あふれる国王、ラマ僧、秘術の使い手。そして国家としての政策の要が「国民総幸福量(GHN)である。『国民総幸福量』とは、国家の発展をバランスシート(財務諸表)ではなく、国民の幸福度で測ろうというもので、お金や満足感、国民に対する政府の責務をどのようにとらえるのか、その根本的な転換を迫る考え方だといえる。」

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ブータンは、中国とインドという大国に挟まれた小さな国です。隣接するネパールも小国ですが、ネパールがよくも悪しくも中国から大きな影響を受けていますが、一方ブータンは巧みな外交術で中立的な立場を貫いています。

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2011年にブータンのワンチュク国王(31)とジェツン・ペマ王妃(21)が国賓として来日しました。両国の外交関係樹立25周年という節目で、国王と王妃は1カ月前に結婚したばかり。1115日から20日まで日本に滞在し、ブータン旋風を巻き起こしました。近年、来日した国賓最も注目されたカップルといえます。

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201764日には秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまがブータンを公式訪問しました。首都ティンプーで「花の博覧会」のオープニングセレモニーに出席されました。眞子さまは国王夫妻をはじめ勢ぞろいした多くの王族に迎えられ、日本人造園家を中心にブータン人スタッフが整備した日本庭園などを鑑賞されたとのこと。日本とブータンは親密な関係にあります。 

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また基本的にブータンの国教はチベット仏教定められています。 チベット仏教は、日本の仏教と同じ「大乗仏教」で、インドで始まった仏教の教えを幅広く取り入れた宗教です。「大乗仏教」という共通項を持ち、親密な関係にあるブータンですが、私も含めて日本人の多くはブータンがどういう国か知らないのではないでしょうか。

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「世界しあわせ紀行」では次のようにも書かれています。「ブータンに入国する旅行者にはすべてガイドが付く。ダイドの報酬はブータンの旅行会社に支払う1200ドルの滞在費の中に含まれている。近隣のネパールでよく見かけるような髪の長いバックパッカーが流れ込んでくるのを防ごうという国の方針もあるようだ。」 

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私もネパール、パキスタンフンザ、チベットに行った勢いでブータンにもと思ったのですが、ガイド料も高そうでしたし、高い山があるわけではなく、インフラ特に道がほとんど整備されていないなど、あまりモチベーションが上がりませんでした。

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著者が実際見た現実は、「ガイドは穏やかで、何事にも心を込めているように見えるし、山々の眺めは素晴らしい。しかし一方で道路などのインフラは整備されていない。しかも町はそれ程きれいではない。安ホテルや薄暗いインターネットカフェ、おびただしい数の野良犬。ブータンの犯罪発生率の低さは、国全体の幸福度を高めることに貢献しているが、しかし薬物や武器の密輸販売が増えつつある。」 

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ブータン人に聞いてみると、「ここ数十年の間にブータン人の平均寿命は42歳から64歳に延びた。教育と健康診断は無料で提供されている。ブータンは世界初の禁煙国であり、タバコの販売は法律で禁止されている。兵士の数より僧侶の数の方が多い。ブータン人に幸せですかと聞くと、『幸せです。現実的でない望みを抱かないようにしていますから』という思いもよらない答えが返ってきた。いつも傍にくっついているガイドは温厚だが、『私には登り詰めるべき頂上はありません。生きることそのものが試練だと考えています。1日の終わりに充足感があればそれでよい』と考えている。」 

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国民総幸福量について、「国民総幸福量の担当大臣、家庭大臣にブータン人は幸福ですかと聞くと『ブータンは、自分たちが幸せな国だと言ったことはありません。われわれが明言しているのは、国民総幸福量という政策実現を目指しているということです』と答えた。あるブータン人ガイドは言った。『この国の人間は自分では幸せだと言っていますが、実は幸せではありません。みんな問題を抱えています。みんな本当のことの半分しか話しません』 と」。 そして著者は思うのです「ブータンはシャングリラではないが不思議な国だ。」と。

幸せ大国を目指すブータンでブータン人は幸せかどうか難しい問題のようです。私も興味を持った国で行くことも考えたのですが、実際にブータンに行ったことのあるツアー会社の添乗員さんたちによると、ガイドさんが付いていて自分が行きたいところに勝手に行くことができない、都合の悪いところは見せないようにしているような印象でもどかしいというものでした。ブータンは中国とインドに挟まれた小国で日本とは友好国です。そっと見守りたいものです。

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2018年10月15日 (月)

本の旅 「世界しあわせ紀行」 02スイス:幸せは退屈だ

著者がスイスに行ったのは、「ルート・フェーンホーヴェン教授の手になる幸福のピラミッドの頂点に近い位置をスイス人が占めているとわかったからだ。」 

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スイス人は優秀で時間にも正確だ。裕福だし失業者もほとんどいない。市街地は空気もきれいだしごみ一つ落ちていない。チョコレートも美味しい。ではスイス人は幸せだろうか。幸福度の調査結果で、スイス人がイタリア人やフランス人より上位にいるのはなぜだろうか。イタリアとフランスは生きる喜びにあふれているのに。しかも生きる喜びを創案したのはフランス人だというのに。著者は「ジュネーブ在住の友人(アメリカ人)は、スイス人は他人行儀で、文化的に活気がなく、情報を出し惜しみする」と手厳しい。

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「ジュネーブは住むには最高の場所だと言われている。ところが、実際に訪れてみたいと考える人はあまりいない。それはもっともなことで、スイス人はジュネーブを退屈な都市だと考えている。」と著者は指摘しています。なんとなくわかるような気がします。

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「スイス人に、幸福について調べるためにスイスに来たと話すと、誰もが驚いた表情をみせる。スイス人が幸せだって? 何かの間違いじゃないかい? にもかかわらず10段階評価をきくと、987などの答えが返ってきた。それではスイス人が幸せな理由は? に対しては「清潔さかな」という答えが返ってきた。」

スイスではトイレが清潔なだけではなく、あらゆるものが清潔ということはなるほどと思うのですが、「スイス人はお金について話すのをひどく嫌う。スイスの経済は金融業で成り立っているのに」という指摘は意外でした。 スイスではトイレが清潔なだけではなく、あらゆるものが清潔ということはなるほどと思うのですが、「スイス人はお金について話すのをひどく嫌う。スイスの経済は金融業で成り立っているのに」という指摘は意外でした。 

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ある友人が「アルプス山脈に行かずにスイス人を理解することはできない」というので著者はアルプスに行きました。その友人とアルプスの登山基地になっているツェルマットに到着し、ロープウェイに乗って有名なマッターホルンに隣接する山頂まで行きました。そして素晴らしい景色に感動するのですが、山頂に着くと標高は3,883m、案内板には「ロープウェイで到達できるヨーロッパ最高地点」と書かれていて、この一文を読んで、著者はガッカリするのです。

私も、フランス・シャモニーで、エレベーターで富士山より高い3842メートルのエギーユ・デュ・ミディの山頂に立ったときには唖然とし、自然が冒涜されているような気がしたものです。

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知り合いのスイス人は「スイス人が幸せなのはいつでも自殺できると知っているからさ」ともいう。これは半分は冗談にしても、スイスは世界中でどこよりも進歩的な安楽死法を持つ国として知られていて、わざわざ死ぬために、ヨーロッパ中からこの国に人が集まってくるともいわれています。スイスはまた自殺率が高い。しかしなぜ幸せな国で自殺率が高いのか。著者は「一つ考えられるのは幸せそうな人に囲まれると、ときに非常に惨めな気分になり得るということだろう」と推測するのですが、どうなんでしょうか。

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「ジュネーブからチューリッヒへと移動した。天気は素晴らしく、空は青く、空気は澄みわたっていた。大勢の人がお弁当を持参して即席のピクニックに興じている。スイス人に幸福についての意見を聞いてみた。一人の人の意見に注目した。『幸福というのは、他の場所に居たいとか、他のことをしたいとか、他の誰かになりたいとか思わないこと。スイス人は今の自分で満足しているから幸せと思っているのではないか』と。スイス人は幸せというよりも満足しているのではないかと思った。」 

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(画像はローレックス本社) 30代の頃フランス、ドイツ、イタリアとともにスイスにも訪れたことがありました。若気の至りでローレックス本社でローレックスを購入しました。長年の使用に耐え、さすがにスイスの時計は凄いと思ったのですが、数年毎のメンテはスイスに転送するために時間と費用がかかりリタイアと共に手放しました。それでもかなりの額で下取りしてもらいました。 

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その後何回かヨーロッパに行きましたが、一番最近で20117月にフランスシャモニーを起点として、モンブランを中心にイタリア、スイスの山岳地帯をトレッキングしました。

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スイスの山岳地帯のトレッキングはアルプスのハイジの雰囲気そのままでとても快適でした。 

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スイスの山小屋滞在も素晴らしく、今でも夕暮れ時のアルプスの山々や教会の景色が懐かしく思い出されます。

ほんの僅かなスイス体験しかありませんが、過去紛争が絶えなかった欧州で中立国として認められ、ジュネーブには国連事務局もあり、町はきれいですし、アルプスも美しく、チョコレートも美味しく、いうことがない国です。普通に暮らして普通に働くことができれば、幸せと感じることができるインフラは充分といえます。スイス人であれば誰でもが幸せかどうかはわかりませんが、多くの人が幸せと思い満足しているというのは肯けます。しかし、どういうわけかイタリアには住んでもいいなあと思うのですが、スイス(フランスも)には住んでみたいとは思わないのです。

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2018年10月13日 (土)

本の旅 「世界しあわせ紀行」 01オランダ:幸せは数値

どこの国が幸せかという本を2冊手にしました。1冊は「世界幸せ紀行」というずばりのタイトルで、もう1冊は「限りなく完璧に近い人々~なぜ北欧の暮らしは世界一幸せなのか?」

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1冊目の著者エリック・ワイナーはアメリカのジャーナリスト。ニューヨーク・タイムズの記者を経て、NPR(全米公共ラジオ)の特派員として、ニューデリー、エルサレム、日本などに暮らし、30ヶ国以上で取材した経験を持つ。世界で最も幸せな国を探す旅を綴った本書(2008年)は全米ベストセラーとなり、18ヶ国語以上に翻訳されました。 

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「はじめに:誰でも知っている不幸な国ではなく、あまり知られていない幸福な国を探しながら・・・幸せになるために欠かせないものが1つ以上存在する国。それはたとえば、お金や、娯楽や、精神的満足感や、家族だったり・・・」 というファージーな基準で選ばれた10ヶ国でした。幸せといわれる北欧圏からは唯一アイスランドが選ばれています。

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著者が「幸せは数値」と題したオランダに行った第一の目的は、「幸福学研究の権威として知られるルート・フェーンホーヴェン教授に会うことだった。教授のいる大学には「世界幸福データベース」がある。教授は「幸福度」を数値化できないかと考えた。」 

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(画像はフィージー) 熱帯の楽園でのんびりと暮らせたら幸せそうですがそうでもないようです。 著者はこう言います「独裁政権の国よりも民主制の国のほうが幸せなのかというと、必ずしもそうとはいえない。太陽光が燦々と降りそそぐ熱帯の楽園に行けば幸せを感じられるとしている人は多い。ところが、そうした国々は幸福度があまり高くないことが明らかになっている。フィージー、タヒチ、バハマといった国は、幸福度で言うと中レベルに位置する。幸せな国は気候が温和な場合が多い。そして最も幸せだとされている国は、気温が非常に低い場所に位置している場合がある(例えば北欧)。」 

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「驚くことに、地球上で暮らす人の大部分は自分が幸せだと考えている。ほとんどの国が、10段階評価で58ぐらいの幸福度を示している。」

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著者は教授の話を聞いて、「幸福度」の数値化は大変そうと感じたようです。オランダについて「ロッテルダムに何日か滞在して、この町はあまり記憶に残りそうもなかった。」という感想も漏らしています。ちなみにオランダでは大麻も売春も合法となっています。

まあ、あたりまえのことだとは思うのですが、幸せは「感じ方であり、気分であり、人生観」で、なかなか数値化できないだろうなあと思います。とはいえ、幸せ数値化の試みは、各国の幸せを感じるためのインフラのレベルを知る一つの基準にはなるのではないかと思ったりもしました。「世界しあわせ紀行」の旅は続き、次はスイスへと向かいます。

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2018年10月11日 (木)

本の旅 「火山のふもとで」 Ⅳ(終章と書評)

主人公は所長の恋人の藤沢衣子の別荘の保守・管理を任され、尊敬する所長のプライベートな生活にも関わっていき、村井麻里子とはあるところまで親密になるのですが、それ以上はつかず離れずの距離感は変わりません。そして季節は移り、仕事場は「夏の家」から東京に移されました。

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「夏の家を引きあげた九月の半ばには、鬱蒼とした森はそれがひとつの大きな緑のかたまりであるかのようだったのに、いまは黄色になるもの、赤くなるもの、緑のままのものに分かれて、一本一本のかたちや大きさがくっきりと浮かびあがっている。すでにほとんどの菓を落とし、冬にそなえている木もあった。」 

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「コンペまであと一か月あまり、図面の最終版を河原崎さんが引き終えて、設計室の大テーブルに広げたとき、集まった所員たちのあいだを新たな驚きと感嘆が音もなくわたっていくのがわかった。目を楽しませる印象の鮮やかさと、雨風が長い時間をかけて彫刻したような、なめらかで自然な美しさが同時にそこにあった。七十歳を過ぎて、先生はなぜ、これまでにない新しいかたちを送りだそうとしたのだろう。」 

翌日ぼくは先生に命じられて、先生を乗せて青栗村に行くことになった。 『月曜日まで山小屋で図書館の仕上げに集中したい。東京にいると終わらないからね』  先生は土曜日から月曜日いっぱいの三日間で、基本設計案を煮詰めたいと考えているようだった。 そして、追分にさしかかったときに、車の中で先生は意識を失った。」

浅間山の山頂が冠雪している頃、主人公は先生を車に乗せて先生の別荘に向かう途中先生は意識を失い、そのまま近くの病院の集中治療室に入りました。ここから物語は、終結に向かいます。

先生が倒れる直前にコンペ出展作品の基本設計は完成していましたので「参考出品」という扱いで設計競技への参加が認められることになったのですが、11月に国立現代図書館の設計競技が行なわれ、一等になったのは、船山圭一建築研究所のプランで、コンペに負けました。

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「船山案は、どこか大きな病院のシンプルで機能的なロビーフロアを連想させた。あたりを脾睨するような表情の外観から、少しでも建築に関心があれば、ひと目で船山圭一の設計とわかるはずだ。国立図書館にもし威厳のようなものが求められるとしたら、このプランが選ばれることに誰も異存はないだろう。」 

「自分の立場や好みをすべて差し引いても、依然として先生のプランが船山圭一のプランをあらゆる意味で凌いでいるとぼくには思われた。しかし先生の不在は、熱湯を注いだばかりのティーポットのふたが突然消えてしまったようなものだった。先生が倒れた痛手があまりに大きいままだったので、コンぺに敗れたことへの落胆はそのなかに溶けて沈んでいった。」

1980年代の高度成長期がピークを迎えさらに成長が持続されていく時代の流れに乗る設計事務所と時代に埋もれながらも個性を発揮してゆく設計事務所と二極化が進み、大黒柱の先生は車椅子生活が続き、事務所の閉鎖が決まりました。

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「助手席に雪子が座り、うしろに麻里子と藤沢さんが座ったクルマは、そこから一時間ほどかけて、冬景色の北浅間をめざした。この顔ぶれで先生のクルマに乗り、『夏の家』に向かうところを見たら、先生はどう思うだろう。そう考えながら、ぼくはハンドルを握っていた。」 

「左前方に見える浅間山は、すっかり雪に覆われていた。グローブボックスからカセットテープを取りだしてかける。先生がクルマのなかでよく聴いていた曲だ。カセットには万年筆で「ハイドン 『四季』」と書いてある。先生の凡帳面な字だった。」 

「『四季』は沈鬱な曲調を抜けでると、女性をつつみこむヴェールを編むための「糸紡ぎの歌」になった。それは励ましの歌であり、人びとをよろこびへ導こうとする歌だった。それがやがて、どこかつややかな響きのある恋の歌へと手渡される。われわれ人間の営みと、それを支え、ときにおびやかす自然をそのまま肯定しょうとした、ハイドンの晩年の意志があふれていた。先生はクルマを運転するとき、飽きることなくこの音楽を聴いていたのだ。」 

先生は長野の病院で集中治療室を出られないまま新しい年を迎え、東京に転院して車椅子の生活を送っていました。

麻里子の運転で事務所に現れた車椅子の先生は、生前に書いておいた遺書をスタッフに預け、スタッフ全員は遺書に従ってそれぞれの道を歩き始めます。村井設計事務所は、その日から二年あまりのちに事実上閉じることになり、先生の意向にほぼ沿うかたちで、それぞれの所員が身の振りかたを選びました。 

麻里子は1984年の春、小学校から高校まで同窓だったおない年の男と結婚することになったと知らせてきました。主人公は三年後に独立し、自分の設計事務所をスタートしました。そして少し意外な、あるいは半分予想された人生を歩むことになりました。 

・・・というようなストーリーで、特に大きな出来事があるわけでもないのですが、377頁の大作を一気に、残り少なくなる頁を惜しみつつ読み終えてしまいました。

インターネットの「読書メーター」というHPで読者の感想・レビューをみると同じような意見が多く見られました。いくつかの感想、前半は批判的な意見、後半は肯定的な意見をご紹介します。

あーさん:話がたんたんと進んで行く。まるで日記のような。はっきり言って好きじゃない。

もちもちかめさん:こういう現在生きてる人間の小説で、ナアナアのお約束で目をつぶる感じの予定調和、子供の頃から苦手だったな。それはさておき、こういうところを読まねば!!みたいなの、困る。小説書くんだったら、仲間内のお約束ではなくて、ガチのマジで完璧にディテールまで矛盾なくうっとりさせて欲しいのに。なんか知らんけど運良く就職できたとか、彼女が出来たとか、実は美人だったとか、根拠なくモテモテとか。脳内だけでやってほしい。

ユメさん:この本は、是非とも夏に再読したいと思っていた。初めて読んだときは、静謐で美しい文章に何より感銘を受けた気がする。今回最も惹きつけられたのは、ひそやかな声で語られ、繊細なバランスを保っていた物語が、ゆっくりと破綻して終わりへと向かってゆく姿だ。もちろん、寂しさを覚えないと言えば嘘になる。しかし、この崩壊は、例えば一本の木が寿命を迎えて朽ちてゆき、やがて土へと還ってゆくような、ごく自然な在り方であるように思えた。生命体として真っ当で、そして村井俊輔という建築家の哲学にいちばん相応しい終わり方なのだと。 

黒とかげさん:なるようにしなならない。そんな話だが、それがとにかく美しく感じる。この作者の文章力には目を見張るものがある。大人のための物語、そんな形容が相応しい物語。

以上の他にもたくさんの読者から賛否両論の意見が寄せられています。それだけ関心が高い作品といえるようです。この本にはとても豊かな時間をいただき感謝しています。この作家の他の作品も読んでみたいと思いました。 

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2018年10月 9日 (火)

本の旅 「火山のふもとで」 Ⅲ

主な登場人物と浅間山の麓の「夏の家」でも仕事の雰囲気についてのイメージがはっきりしてきました。主要なテーマである「国立現代図書館」設計コンペへの取り組み、そして主人公と村井麻里子の微妙な空気を中心に物語は進みます。

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「夏のあいだだけ営業している紀ノ国屋は、別荘の住人や観光客で混みあっていた。ぼくが大きなカートを押し、麻里子がメモにときどき目を落としながら食材を選んでゆく。頭のなかで料理を組み立てながら買い物をしているのがわかる。その感じを見ているのが面白かった。」 

「夏の家の九人分の朝食も、どういう順番で準備すれば効率よく温かいうちに出すことができるか、麻里子や内田さんのやりかたを真似ているうちに、少しずつわかってきたような気がしていた。」 

所長の姪、村井真理子車の運転で主人公は度々軽井沢の街へ買い出しに行くことになり、二人の距離も少しずつ近づいていきました。何でそうなるの!と、このあたりが他の読者にはやっかまれていました。

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「じゃがいもを包んでいたやわらかな土は、夏の午前の日差しを浴びてみるみる白く乾いてゆく。長い時間ひなたぼっこしていた熊の仔の背中に顔を近づけたら、こんなこうばしい匂いがしそうだった。」

「浅間山は、この畑からがいちばんよく見えた。わずかに白い煙をたなびかせているあの山が、何千メートルという高さまで噴火したのだ。二万年前にさかのぼるその歴史を頭のなかでたどることはできても、実際に噴火する姿を見なければ、眠っている浅間山しか知らないことになる。」

翌年(19834月)、浅間山は噴火しました。

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「先生は青栗村の別荘の管理も引き受けている。ぼくはその手伝いもするようになった。 『あなたにおまかせしますよ』 山口さん(別荘のオーナー)は先生の考え方や気質をよくわかっている。信頼もしているはずだ。だからあえて気楽そうな顔でそう言っているようにも見えた。よかったら家のなかを見てくださいと山口さんが声をかけてくれたので、ひとりで他の部屋を見学させてもらうことにした。」 お互いの好みをよく承知したうえで、遠慮なくのびのびと設計したあとが山口山荘にはうかがえた。大邸宅ではないのに、部屋の印象がさまざまに変化する。そしてどこもかしこもすみずみまで住みこなされて、山口さんの家になっているのがわかる。先生の設計にはクライアントの暮らしにあわせて馴染んでゆくのりしろのようなものがあるのだ。」 

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「『先生がいつも週末に会ってる人って、どんなかたなんですか』  『藤沢さん、藤沢衣子さん。キヌは衣っていう字。追分の少し先だから、ここから浅間を越えた反対側に藤沢さんの農園がある』  『藤沢さんという名前は記憶にないですね。どうしてだろう』  『そんなこともわからないの? 先生の恋人だったからじゃない』  先生にそんな人がいたなんて、想像したこともなかった。」 

村井麻里子との会話で先生に恋人がいることがわかりました。この会話から、主人公のよくいえばおっとりとした性格、悪くいえば鈍さが浮き彫りにされていて、二人の運命に反映されていきます。

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「先生の低い声はよく通る。北青山の事務所がお盆休みに入ると同時に、夏の家では設計競技に向けての仕事がいよいよ本格的になってきた。大テーブルで河原崎さんや小林さんと相談を重ねる先生の声が、しじゆう聞こえてくる。それは理念や構想ではなく、あくまで具体的な話だった。長さであり、高さであり、幅であり、厚みであり、角度だった。」 

コンペに出品する設計や模型を前に話はより専門的に進んでいくのですが、建築にはほとんど素人であろう読者(私も)にも飽きさせず理解させ納得させる筆力は見事なものです。

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「設計競技の審査対象には、椅子のデザインなど家具工事の詳細までは含まれない。おそらく船山圭一なら、機能的な既製品の椅子を迷わず選択するはずだった。」 

「しかし先生は、家具工事こそ最初のプランの段階で大筋を整えておくぺきものと考えていた。図書館にとって机や椅子、書棚は心臓部ともいえるもので、そのディテールの出来しだいで、利用者の経験の質が大きく変わってくる。現代図書館にわざわざ足を運び本とともに過ごした時間を特別な記憶として残すにはどうすればいいのか。」 

コンペでの大きなライバル(船山圭一)とのスタンスの違いが明らかになります。先生の、コンペにとってはあまり得策ではない愚直な設計思想に沿ってスタッフの努力が結集されていきます。

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2018年10月 7日 (日)

本の旅 「火山のふもとで」 Ⅱ

もう一人の雪子という女性(スタッフ)が登場します。 

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「ようやくここまでたどりつき、実施設計にも模型にも担当者の説明にも遺漏がなかったとする。それでもなお物事はやすやすと進まない。クライアントの口から、いくたびも相談を重ねてきた事柄とはまったく違う、突拍子もない注文が飛びだしてくることがあるからだ。」

「あらたな注文が全体の計画と矛盾していたり、はるかに予算をオーバーしてしまうような場合には、要素をひとつひとつ腑分けして、プランを修正してゆく。自分から矛盾に気づいてもらえるよう、上手に外堀を埋めていくにほ辛抱がいる。スケジュールを横目でにらみながら、ときにクライアントとの我慢くらべになる。」

「雪子にかなわないと思うのは、その我慢くらべに負けないところだった。受け身に見えても、最後には自分のプランをふわりと通してしまう。まだ二十代なかばの女性担当者となれば、先入観からクライアントが不安を抱きがちなものだが、雪子は、一度じっくり話をするだけで、やすやすと信頼を得てしまう。気難しいクライアントと電話で話しているときの雪子の声を聞いたことがある。説得しょうとする声ではない。けれども相手は雪子と話すうち、自分から答えを見いだしたような気持ちになるらしい。小さいのによく通る声で話す雪子は、相手の言葉に領きながら軽やかな笑い声さえ立てていた。」

企画提案の仕事をしていた時のクライアントとのやりとりそのものがリアルに再現されていますし、雪子という女性スタッフの仕事ぶりが丁寧に描かれていて、そんなスタッフが傍にいたらいいなあと思ってしまいました。 

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「声はふしぎなものだ。目的も気持ちもあらわになる。雪子のあらゆるものが声にやどっているようで、そのあらゆるものが何でできているのかがわからない。しかしその声が、人を上手に説得している。言葉の意味そのものよりも、音としての声が人を動かすのではないかと、ぼくはそう思うようになった。そしていつからか、雪子の声が聞こえると、その声に耳を澄まし、雪子の声を集めてしまっておきたいような気持ちになっていた。」

「先生にも、それぞれの世代の所員たちにも、雪子は信頼されていた。おだやかで確かな仕事ぶりが、その声にあらわれていた。だからぼくは雪子を目で追うようなことはしなかった。ただ耳だけが、雪子の声のするほうへ向かっていた。」 

著者の透き通るような文章が続きました。それにしても主人公の気持ちは雪子にも傾いているのかなと思ってしまいました。

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そして、鉛筆を削ることについて先輩スタッフから注意が入るのです。

「『あのね、鉛筆削ってるけど』 『はい』 手をとめて内田さんを見た。苦笑いしている。 『まだ言ってなかったかな。鉛筆は朝と午後に削ることになってるんだ。夕暮れどきには削らない。』  そう言ってニコリとすると、質問は受けつけないとでもいうように内田さんはさっさと自分の作業にもどっていった。」 

「内田さんの鉛筆の削りかたは、家具職人の手の動きにも似ていた。どこにも余分な力の入っていない指がフォールディングナイフを軽やかに動かし、サリサリと手早く削ってゆく。刃先の角度が浅いから、削りかすも薄い。削られる鉛筆が気持ちよさそうにみえる。」

先輩スタッフの注意に首を傾げている主人公に女性スタッフの雪子が丁寧にその理由を説明します。たんに鉛筆を削るという作業一つとっても、丁寧に筆が進められていて、それが著者の真骨頂のように感じました。

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「意外なことに、飛鳥山教会は先生がはじめて取り組んだ教会建築だった。建築雑誌に発表されたこの教会の設計図を、ぼくは一枚ずつ記憶するほどくり返し見ていた。平面図、断面図、立面図を頭のなかで組み立てて、教会を立体的に再現できるほどだった。都内にあるのだからいつでも行けると思ううち、土地勘のない北区まで足を運んだときには、竣工して半年が過ぎていた。」

「そのとき午後いっぱいかけて実測した飛鳥山教会が、漠然としたものでしかなかった自分の気持ちを、先生のもとで働きたいというはっきりした希望に変えたのだ。あの経験がなければ、ぼくはいまでも迷いつづけていたかもしれない。」

ここにきて初めて、なぜ主人公は村井設計事務所で働きたいと思ったのか、その主人公の想いが所長に伝わって採用されたことが明らかにされました。 

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2018年10月 5日 (金)

本の旅 「火山のふもとで」 Ⅰ

「火山のふもとで」松家仁之(新潮社:377頁)を読んだきっかけははっきりしないのですが、知らない作家でしたから多分新聞か何かの書評を読んでのことだと思います。久しぶりに小説の醍醐味を味合うことができました。

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手にした本の裏表紙に印刷された出版社の推薦(PR)の言葉は次のようにありました。

「夏の家」では、先生がいちばんの早起きだった。物語は、1982年、およそ10年ぶりに噴火した浅間山のふもとの山荘で始まる。「ぼく」が入所した村井設計事務所は、夏になると、軽井沢の別荘地に事務所機能を移転するのが慣わしだった。」 

所長は、大戦前のアメリカでフランク・ロイド・ライトに師事し、時代に左右されない質実でうつくしい建物を生み出してきた寡黙な老建築家。

秋に控えた「国立現代図書館」設計コンペに向けて、所員たちの仕事は佳境を迎え、その一方、先生の姪と「ぼく」とのひそやかな恋が、ただいちどの夏に刻まれてゆく。

最後に 小説を読むよろこびがひとつひとつのディティールに満ちあふれた、類いまれなデビュー長編。 と書いてあった言葉は過大表現でもなくまさにそのとおりでした。

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「『夏の家』では、先生が一番早起きだった。日の出のしばらく前から空は不思議な青みをおび、すべてをのみこんでいた深い闇から森の輪郭がみるみるうちに浮かびあがってくる。日の出の時刻を待たずに、朝はあっけなく明けてゆく。」 

「ベッドを抜けだして中庭に面した小さな窓のブラインドをあげる。いつの間に、どこから湧きだしたのか、白いかたまりが桂の枝や葉をゆっくり撫でながら動いている。静かだった。窓をあけて鼻をつきだすように顔を出し、霧の匂いをかぐ。霧の匂いに色があるとすれば、それは白ではなく緑だ。あと一時間もすればほかのスタッフも起きだしてくるはずだ。」

本を開いて最初に書かれた文章を読んで、静かに明ける高原のシーンが丁寧に描かれ、まるで自分が別荘地に行って夜明けを迎えたようでした。

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「彼岸を過ぎてしばらくした頃だった、村井設計事務所で働かせてもらえないだろうかとたずねる手紙を、ていねいに、なるべく手短かに書いた。村井先生に面接の後、仮採用が決まった。」

主人公が設計事務所に苦労することなく就職(最初は仮採用)するのですが、これについて他の読者(多数の投書)によると都合がよすぎるという批判もあり、同じような印象を私ももちましたが、就職できなければ話が進みませんし本質的なことではなくまあいいんじゃないかと思いました。主人公は所長の素敵な姪と密かな恋に陥るのですが、それも多くの読者が都合がよすぎると批判しています。

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80年代早々の、どこか騒がしい、風を切るような勢いの建築の世界で、先生の作品は日本的な伝統の流れをくむ懐かしいものとして評価されがちだったが、ぼくはそうは思わなかった。事務所の運営にも先生の建築にも、日本的とはいいがたい合理性が貫かれていたからだ。」 

「先生のつくる空間がしみじみと落ちついたものに感じられるとしたら、そのしみじみには理由があった。それはたとえば天井高が、床置きの照明が、南向きの窓にはめこまれた障子が視覚的にもたらすものであり、なにか秘術のようなものがあるわけではなかった。先生はそれを外に向けてはほとんど語ろうとしなかったが、ぼくたち所員に向かっては、図面を指さすばかりでなく、設計室の壁や天井を見上げ、壁に竹尺をあてがい、ときには障子やドアを開け閉めしてみせながら、情緒的にではなく理屈の通ったかたちとして具体的に伝えようとした。」 

建築については門外漢の私(分読者の多くも)ですが、著者は丁寧に建築や設計の話を進めていきます。頁をめくるにつれてより詳しく専門的にもなるのですが、自分が設計図や模型を前にして説明を受けているような気分になりました。

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「そして7月最終週の木曜日。浅間山へのふもとへと事務所が移された。」

「北浅間青栗村は千メートルを超える海抜にある。山道をのぼるあいだに、気圧の変化で耳がつまることもある。人はまばらで、夜空には星がぎっしりとひしめく。八十種類近くの野鳥が生息し、ニホンカモシカ、ニホンザル、ムササビ、野ウサギ、キツネ、ツキノワグマもいる。」

夏になると北青山から浅間山の麓に事務所を移転して仕事ができるなんてとても羨ましく思いました。なんて恵まれている主人公だろうと思いました。今でこそ、I.Tの進化によって、北海道でも沖縄でも自宅でも仕事ができるのですが、それでもそれができる仕事とできない仕事があります。

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「村井麻里子は、音大を卒業してから職につかず、ふだんは代々木の実家で暮らしていた。歯並びのいい白い歯をみせてよく笑う麻里子は、明るく屈託がなかった。長い髪とお揃いで手足もひょろひょろと長く、虫にさされるのも木や葉っぱでひっかけたりするのもたいして気にせず、平気で肌を出す格好をしていた。」

「麻里子は夏の家の期間だけのアルバイトで、東京に残っている経理担当の吉永さんのかわりに会計事務や雑事全般を引き受けていた。旧軽井沢には村井家の古い別荘があったから、週末は自分のクルマを運転してそこに帰っていく。」 

「夏の家で過ごすうち、建てつけの悪い雨戸のようだった自分のふるまいも、少しずつがたつきがおさまって、桟のうえをすべりだしたように感じていた。」 

アルバイトで「夏の家」に訪れる所長の姪の麻里子は爽やかな高原のオフィスにさらに爽やかな風を吹き込みます。主人公の他に数人いる男性スタッフの間に波風がおこる気配はあるのですが、ストーリーは淡々と進んで行きます。最初は戸惑っていた「夏の家」での仕事と生活に主人公は少しずつ馴染んでいきました。

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「先生が朝の散歩に出る音を目覚ましがわりに、朝食の準備にとりかかる。夏の家の中心部にあるダイニングルームの、そのまた中央にある大テーブルをよく拭いて、お湯をわかし、テーブルクロスを広げ、カップとソーサー、取り皿を並べ、その横にフォークとナイフを置き、サラダを準備しミルクをピッチャーに移し、冷蔵庫から卵とベーコンとソーセージをとりだし、カウンターテーブルに並べるころ、起きだしてきた麻里子も手伝いに加わる。ぼくと麻里子は四つあるコンロと、二台ある大型のトースターを使って、ハッシュドポテトを焼き、ベーコンとソーセージを焼き、サニーサイドアップを焼き、トーストを焼く。そのころには先生も散歩からもどってきて、ほどなく全員が顔を揃える。」 

最初はぎこちなかった麻里子と主人公との距離は少しずつ近くなっていきます。

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2018年10月 3日 (水)

本の旅 自ら機会を創り出し

時々、寿命を考えたり、余生を考えたり、人生を振り返るような年代になりました。今日まで、たくさんの人と出会い多くのものをいただきました。社会人になりリタイアするまでの数十年間、ビジネスの師として決して忘れてはならない人、足を向けて寝ることができない人、江副浩正さん(当時リクルート社長:19362013)はそんな大恩人でした。

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2017年の暮れもおしつまった頃、「江副浩正」(以下「本書」と表記)という本が出版されました。そのままズバリ江副さんの半生を描いたもので、著者(馬場マコト・土屋洋)は、元リクルート社員ですので身びいきな部分はあるものの、今まで出版された江副さんやリクルート関連本の中では最も真実に近い内容となっていると思いました。 自ら機会を創り出し、機会によって自ら変えよ というスローガンは江副さんが考え出したもので、その理念は徹底的に叩き込まれました。

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画像は東大生時代の江副さん。以下「本書」より、「江副浩正は生涯を通して起業家だった。1960年、江副は東大卒業と同時に大学新聞広告社(現リクルートホールディングスの前身)を起こす。その2年後にはわが国最初の情報誌となる「企業への招待」を創刊した。」 

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「本書」より。「採用広告だけでつくられたこの就職情報誌は、多くの学生と企業の支持を得て採用・就職活動のスタンダード・メディアとなっていった。その後、さまざまな分野でわが国初の情報誌を刊行し、そのいずれも成功させ、それぞれの業界の流通革新をリードした。」

学生時代に初めて「企業への招待」(現在はリクルートブック)を手にしたときは、就職先を検討するときには随分便利な本だなあと思いましたし、それ以上にこの本を出版している日本リクルートセンター(その後リクルートとなり、現在はリクルートホールディングス)という会社が不思議でした。まさかこの会社の社員になることになるとは思ってもみませんでした。あるきっかけで江副さんと面談することになり、即決で採用ということになりました。

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入社した本社は神田の雑居ビルを間借りしていて社員総数は50人くらい。誰も江副さんのことを社長と呼ぶ人はいなくて、全員「江副さん」と呼んでいましたし、江副さんも社員のことは「○○さん」とさんづけで呼んでいました。少人数の会社でしたから入社早々課長の辞令をいただきびっくりしました。

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社内は活気があり仕事は楽しいものでしたが、江副さんとは仕事以上に部活での接点が多く、まるで学生時代に戻ったような気分でした。私は学生時代に葉山でヨットをしていたのですが、当時の江副さんの新居は葉山とはほど近い逗子にありました。そして江副さんは葉山マリーナに古い小型のヨットを所有していましたのでヨット部を作ろうということになり、リクルートヨット部初代部長に任命されました。

週末になると葉山マリーナでよく江副さんと一緒にヨットに乗りました。江副さんの命令で、葉山の道は混むからと魚市場まで魚を仕入れに行ったこともありました。ちょっと年の離れた遊び仲間のようでした。

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ヨット部の部員も増え週末に合宿などもしたのですが、合宿後は新婚間もない江副さん宅に招待され、私たちが麻雀などをしている間に江副さんは私たちのために仕入れた魚を料理して振る舞ってくれたりもしました。とても面倒見が良く、まわりからは江副一家ともいわれましたし、私たちもそんな気分でした。

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次から次へと新しい仕事に挑戦し、私も新しい事業に取り組みました。そんな会社の勢いを象徴するかのように会社のロゴマーク「かもめ」が決定されたのもその頃です。ロゴマークの制作は東京オリンピックのマークを考えたわが国トップのデザイナー亀倉雄策さんであったことは驚きでした。「かもめ」マークはリクルートヨット部のヨットにも描かれました。

また社員はすべて経営者でもあるということで「社員持ち株制度」も取り入れられ、実績を上げたとき、ボーナスの時期など、折に触れて株を分けてもらいました。当時はどうせボロ株と思っていたのですが。

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在籍2年で起業と結婚(カミさんは江副さんの秘書)することになり、江副さんに退社と結婚の挨拶に行きますと応援するよといわれ餞別までいただき、結婚についても祝福していただきました。同時に結婚式場は葉山マリーナがいいよとか、式場の手配などアドバイスをいただきました。結婚式に際しては、恩師の加藤寛教授(当時)ご夫妻に媒酌をお願いし、葉山マリーナまで遠路足を運んでいただきました。何のおもてなしもできず、思い出すと今でも冷や汗が流れます。

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リクルートを退社して数年後、世間を騒がせた「リクルート事件」が起きました。()リクルートコスモスの店頭株の幹事証券会社が大和証券ではなく野村證券だったら起きなかっただろうと思いますし、江副さんの事業欲が多少強引だったかもしれませんが、出る杭は打たれるという日本的風土によるところも大きいかなとも思っています。同じようなことは後年の「ホリエモン」叩きにも繋がっているように思えます。

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リクルート事件(2003年:懲役3年執行猶予5年)は、江副さんの “光と影” の影の部分大きく映し出しているのですが、事件が発生後でも、今や世界でも傑出した起業家の一人となった孫正義は、江副さんを「日本のベンチャー起業家のトップランナー」と評し畏敬しているのはうれしいことです。 

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冷徹なコンサルタント大前研一は、リクルートを 「日本で最も注目される人材育成所」とみなし、江副が残した最後の著書『リクルートのDNA起業家精神とは何か』 は累積発行部数十万部を超え、なお売れ続けているといいます。

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私はたった2年しか在籍しませんでしたが、その2年間に得たものは独立起業に繋がり今日まで続いています。当時の仲間のほとんどは私と同じように独立しました。その後のリクルートはリクルートホールディングスと名前を変え、201410月東証一部上場を果たしました。その上場後わずか3年で、売上高は54パーセント増、売上高に占める海外比率は4割を超え、時価総額は上場時の2.5倍に達しています。

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「本書」より、「こうした急成長ぶりは、低迷が長く続く日本経済のなかでひときわ光彩を放つといわれている。その原動力は国内外での積極果敢な企業活動といわれ、「日経ビジネス」171016日号で、峰岸真澄社長は、それを支えるのは旺盛な起業家精神であり、この企業文化そのものがリクルートの競争力だとする。そして、その企業文化の原型をつくったのは、創業者の江副浩正であると彼は語る。」 

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第二森ビルのただ同然の屋上の掘っ立て小屋からスタートし、神田の雑居ビル(私の在籍時)から西新橋、銀座へと居を移し、現在は東京駅近くに本社を構えています。2013.1.31 江副さんの夢の実現だった安比高原リゾートで午前中スキー(セミプロ級)を楽しみ、新幹線に乗って東京駅に着いた16:28、江副さんはホームで倒れました。昏睡が続いた一週間後の2/8、還らぬ人となりました。享年76歳。東京駅のすぐ近くには大きく育ったリクルートの本社が聳えています。まるで倒れた江副さんを眺めてでもいるように。

江副さんは、日本で初めて“情報”をビジネスに結びつけた人であり、私にとってはビジネスの師でもありました。独立に当たっては大きな勇気をいただき、その後のリクルートの躍進にはどれほど元気づけられたことか。

リクルートホールディングスが上場されたことによりボロ株かと思って放っておいた株は大化けし、江副さんからビジネスの考え方だけではなく経済的にも大きな遺産を受け継ぎました。「江副浩正」をカミさん共々、感慨をもって読み終えました。

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2018年10月 1日 (月)

本の旅 「生きているうちに、さよならを」

「生きているうちに、さよならを」(吉村達也)というタイトルに惹かれて手に取りました。人生教訓めいた内容かなと思ったのですが、主人公は東証第一部上場企業の創業者である55歳のバリバリ現役の社長です。生きている・・・という文句にはまだまだという現役でもあり、この主人公と妻と愛人の葛藤ドラマでした。

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人生相談の師という社会評論家の公演で物語は始まりました。「生きているうちに、さよならを」と聞けば「生前葬」が連想されます。「生前葬とは、文字どおり生きている間に行うお葬式のことで、その多くは、人生のリセットを目的としたものです。つまり、これまでの自分は死んだものとして、第二の生き方をアピールするセレモニーですね。このリセット型の生前葬に較べればぐんと数は減りますが、重い病に倒れ、余命いくばくもなしとの宣告を受けたご本人が、まだしっかりしているうちに行われるタイプの生前葬もあります。これはお別れパーティの前倒しという性質のものですね。これが生前葬の第二のタイプです。こうした生前葬とも違う、第三のセレモニーがあります。」

第三のセレモニーがこの本のテーマなのですが簡単にいえば。「今度一杯やりましょうよとかお茶しましょうとか」言ってもその約束が果たされることはなく、もう一生その機会はなく、一生会えない人もいます。そこでどうしても会っておきたい人と会っておきましょうということで、この小説の中では件の社会評論家が会いたい人に呼びかけてパーティを開くということになっています。

小説の展開はご想像にお任せすることとして、自分のこととして振り返ってみると、「今度一杯・・・」といいながらきっと一生会えない人がたくさんいるんだろうなと思ってしまいました。最近、生活をコンパクトにしたく断捨離を心がけていますので、余計そう思います。 

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古代インドの思想から作家の五木寛之は次のように説いています。「『林住期』こそ人生のピークであるという考えは無謀だろうか。私はそうは思わない。前半の五十年は、世のため人のために働いた。五十歳から七十五歳までの二十五年間、後半生こそ人間が真に人間らしく、みずからの生き甲斐を求めて生きる季節ではないのか。林住期こそジャンプの季節、人生のクライマックスである。

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古代インドでは人生の過ごし方にれっきとした法則がありました。さすがにお釈迦様を生んだ国でもあります。「学生期(がくしょうき)」0歳~25歳:誕生して人間として生きる知恵をつけるための学びの時期。 「家住期(かじゅうき)」25歳~50歳:社会人として伴侶を得て家庭を作り、仕事に励む時期。 「林住期(りんじゅうき)」50歳~75歳:仕事や家庭科から卒業し林に庵を構えて、自らの来し方行く末を深く瞑想する時期。 「遊行期(ゆぎょうき)」75歳~100歳:林(庵)から出て思うままに遊行して人に道を説き、耳を傾け、人生の知恵を人々に授ける時期。

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貝原益軒(1630.12.171714.10.5)は、人間の寿命は百歳と考え、少なくとも7080歳代まで健康でいることが養生と考えていたようで、豊かさを無限に追い求めることは,人間のおごりであり、決して真の幸福にはつながらない、心を楽にし、からだは使い、休め過ぎないこと、と説きました。江戸時代に人間の寿命を100歳と予見していたのは凄いことです。

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まあ難しいことはさておき、美味しい酒と好きな本があって、支え合える家族と支え合える人がいてくれればそれでいいとも思うのです。それと時々の旅ができればいいなあと思っています。

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(画像は開高健の書斎:開高健記念館(茅ヶ崎市)) これからの人生にとって酒や家族や支え合える人は不可欠なものですが、好きな本との出会いも大事だと思っています。私にとって、開高健は最も敬愛する作家です。

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(画像は開高健記念館) 旅人としても釣り人としても酒飲みとしても、あるいは食通としても少しでも後を追いたいと思っていながら1インチも追いつけなかった人です。今まで、弘法大師空海、西行、松尾芭蕉(芭蕉は西行の追っかけ)の追っかけで四国巡礼や奥の細道を歩きましたが、開高健は少なくともある時期同じ時代(一回り以上年上ですが)の空気を吸った人でした。

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「生きているうちに、さようならを」から話がそれましたが、作者の吉村達也氏は2012.5.14に進行性胃癌のために60歳で亡くなりました。「生きているうちに」が書かれたのが2007年(主人公と同じ55歳の時の作品)でしたので5年後に亡くなりました。

亡くなった日に自らのオフィシャルサイトで「長らくごぶさたしておりました。 突然ですが、私はこの度、死んでしまいました。」と発表したそうで、若くしての死でしたが派手好きな作者らしい派手なパフォーマンスで人生を終えたようです。そして吉村達也氏の著作2冊目に手にしたのが「ヒマラヤの風にのって」でした。余命3ヶ月といわれた著者はこの本を3ヶ月で書きあげ、余命通り亡くなりました。

手にした本には次のように書かれていました。「進行がん、余命3週間の作家が伝えたかったこと。吉村達也が最期の日の直前まで書き続けた「ヒマラヤノート」。そこには人生を閉じようとする者へ、そして愛すべき家族への力強いメッセージが記されていた。本書は、末期の進行がんと向き合った記録と、彼が伝えたかった思いが込められた1冊である。「人生の終わらせ方を決めておけば、死ぬことは怖くない!」 

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本のタイトルからして推して、余命いくばくかの時期にヒマラヤに行きたいかあるいは自分の遺骨はヒマラヤに散骨してほしいというストーリーかと思ったのですが、半分は外れていて、半分は当たっていました。作者は死ぬ間際に次のように書き残していました。

「ヒマラヤン(猫の一種)であるショコラン(著者の愛猫)が死んで、遺髪と遺骨は家にとってある。ぼくがヒマラヤに連れて行きたいと思っていたからだ。最初は、本にしようということではなかった。自分自身の体調が急速に悪化していく中で、この「ヒマラヤの風にのって」を目標にして、ぼく自身生き延びようと思ったのだ。そして、もし生き延びられなかった場合は、遺作のタイトルになるな、と考えていた。」 

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「『ヒマラヤ! 絶対に行かねば!』 そのために、ヒマラヤ登山計画を立てていた。だが、これは叶うことはなくなった。でも、可能であるなら、ヒマラヤのふもとに連れていって、ショコラの遺髪をヒマラヤの風にのせたいと思っていた。ところが、急転直下、自分も風にのることになった・・・。ヒマラヤのベースキャンプに行かなくてもいいから、せめてネパールのカトマンズでやってくれたら嬉しい。残された人たちにお願いする。ショコランとぼくの遺骨をヒマラヤの風にのせて、と。」 

「ヒマラヤの風にのって」は著者の死ぬ間際の3週間の入院生活におけるガンの痛みとの苦闘記でした。登山家でもない著者がヒマラヤを思い浮かべた気持ちはわかるような気がします。ヒマラヤは世界中の山脈の中でも独特のイメージ、カリスマ性といっていいかもしれません、を持っていて、宗教的であろうと非宗教的であろうとネパールとチベットに挟まれた霊的なエリアでもあります。神々しい白い峰をもう一度見てみたい、一歩でも近づいてみたいという気持ちはとてもよくわかります。

2年前栗駒山の遭難で九死に一生を得ていまだにリハビリ生活を続けているヒマラヤ仲間のSさんとは、生きいているうちにもう一度ヒマラヤに行きたいねといいながら、Sさんの体調は戻らず、ヒマラヤが遠くなるねと嘆いている日々です。

「生きているうちに、さよならを」から始まった本の旅はヒマラヤで終わりました。

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