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2018年12月30日 (日)

丹沢登山紀 12月 ラスト冨士  

12月は、7(金)、14(金)、19(水)、25(火)、29〈土〉と5回登ることができ、今年通算41回登ることができました。紅葉が枯葉となり、呼応するかのように富士山の冠雪が多くなり、25(金)のクリスマス登山では山頂に雪が降り、29(土)の納めの登山では日本晴れとなりました。

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12月初めての丹沢登山(12/7(金))は、今年37回目となりました。紅葉がだいぶ麓に降りてきました。どんよりとしたはっきりしない空模様でしたが、黄葉から紅葉までのグラデーションが目を楽しませてくれました。

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12月に入るとさすがに登山者も減ってきましたし、樹々は葉を落としてすっかり冬枯れの景色になりました。

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富士山の冠雪も頂上から少しずつ降りてきていました。

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122回目の登山(14〈金〉)は、快晴で登山日和でした。紅葉の廊下と名付けた場所もほとんど枯れ木となりましたが、その分陽射しが樹々の間から射し込んできて暖かく、晴れた日の小春日和の登山はとても気持ちがいいのです。

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この時期、朝起きるのは辛く、また始発バスを待っている間も寒いのですが、楽しみは旬を迎えた野菜が美味しくなることです。登山口近くの農家の庭先では野菜の直売をしています。白菜もカブもネギも各100円で、帰りに買って帰るとカミさんに喜ばれます。重いのですが好き勝手なことをしているせめてもの罪滅ぼしです。

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最近はあまり無理をしないで、体調や天候が悪いときや午後から用があるときは八合目の花立山荘から引き返しているのですが、123回目(19〈水〉)の登山では体調も天気もよく、久しぶりに登頂しました。

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今月4回目25(火)は、クリスマスを祝うかのように山頂近くでは枯れ枝に吹き付けられた雪が氷状になってホワイトツリーとなっていました。

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山頂への最後のステップ。小雪がチラホラ舞っていました。早起きも登山も決して楽ではないこの時期に黙々と山頂を目指す登山者たち、特に自分より一回りも年上の常連さんたちがどんなに時間がかかっても黙々とマイペースで登る姿は人生の歩みのも似ていて励みになります。 

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山頂近くの道標もうっすらと雪化粧していました。 

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山頂の気温はついに氷点下となりました。やがて山頂にも雪が積もるようになります。 

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小雪まじりの霧に包まれた山頂と山小屋。寒々しい景色です。

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今年も残すところ3日となった29日(土)、今年最後の丹沢登山に出かけました。年の瀬の何かと忙しい時期ですからあまり登山者はいないかと思って出かけたのですが、登山口(大倉)行きのバス停には大行列ができていて、臨時増発バスも出ました。

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空気は冷たかったのですが、青空に背中を押されるように順調なペースで最後のステップまで登りました。前回は小雪が舞っていたのですが、この日は雲一つありませんでした。 

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それでも山頂の気温は氷点下3度でした。

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登っているときは汗びっしょりとなり半袖になりたいくらいだったのですが、山頂ではじっとしているとあっという間に体は冷えてきました。

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富士山は堂々として端麗な姿を見せてくれ、有終の美を飾ることができました。

この日で41回目の登山となりました。よく続いたものです。決して楽ではない山ですが、コンディションが悪いときには無理をしなかったのが続いた理由かもしれません。

山岳情報によりますと、丹沢塔の岳(1491m)は、難易度レベル:40(中級) 歩行時間:6時間15分 歩行距離:15km 累積標高差:1218m消費カロリー:2230kcal 必要水分:2リットルといわれています。またトレーニングのための山としても知られています。この日は登り3時間5分、下り2時間5分、休憩10分で歩行時間は5時間20分でしたので、天気も体調も良く順調に登ることができました。 

数年前、ヒマラヤトレッキングでの健康診断で肺気腫(COPD:慢性閉塞性肺疾患)と診断され、完治はできないが適度な運動で悪化は防げるというアドバイスがありました。もともと山歩きは好きでしたし、たまたまの横浜からこの地への転居で地の利を得ることができました。定期的な健康診断では検査のたびに改善しているということも励みになっています。来年もこのペースで、一回り年上の常連さんたちについていきたいと思っています。

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2018年12月28日 (金)

京都散策 06京都御所2

11/25(日) 雲一つない青空の下の京都御所、紫宸殿や清涼殿など長い歴史を経てきている今日でも輝いていました。見学コースは限られていましたので、入手した資料などで補足してもう少し御所見学を続けます。 

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京都御所は、明治維新まで天皇のお住まい(古くは内裏(だいり)といわれました)で、桓武天皇が奈良の平城京より長岡京(京都府)を経て、延暦13年(794年)に平安京に都が移されたのが始まりです。手前の門は「建礼門」で、現在も天皇皇后及び外国元首級のみが通ることのできる、最も格式の高い門とされています。御所一般参観時にも開門されることはありませんが、間近で見学することはできます。

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現在の御所は、平安京にあった里内裏(内裏が火災に遭ったとき、貴族の邸宅などを一時的に仮の内裏とした)の一つです。元弘元年(1331年)に光厳(こうげん)天皇がここで即位されて以降、明治2年(1869年)に明治天皇が東京に移られるまでの500年間、天皇のお住まいとして使用されました。「建礼門」の大きな屋根の先の朱色の円柱に支えられているのが「承明門(しょうめいもん、あるいはじょうめいもん)です。

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「承明門」。「紫宸殿」の南正面にあり、天皇行幸や上皇即位後の出入りに用いられました。中央のこの門は天皇のみが通行しました。

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「承明門」の扉を開けると真っ正面に「紫宸殿」があります。

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かつて、先帝の崩御または譲位後の天皇即位を公に宣明する即位の礼では、このような衣装を身に纏った公卿や貴族たちが紫宸殿前庭に縦2列に整列したそうです。 

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即位礼の時にこの庭に旗などが並んで、殿上には皇族・諸大臣・外国使臣などが参列したそうです。さぞかし荘厳な景色だったろうと想像されます。

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この「紫宸殿」では、明治2年に東京に遷都されてからも大正天皇、昭和天皇の即位礼はここで行われました。

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「紫宸殿」の中央に天皇の御座「高御座(たかみくら)」、その東に皇后の御座「御帳台(みちょうだい)」が置かれています。現在の高御座と御帳台は、大正4年(1915年)の大正天皇の即位礼に際し、古制に則って造られたものです。

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高御座は高さ約6・5メートル、重さ約8トン。199011月に東京・皇居で行われた「即位礼正殿の儀」で天皇陛下が昇り、即位を宣言されました。代替わりの儀式を象徴する調度品ですので、京都から東京までヘリで運ばれました。201910月、新天皇の即位の際にも東京に運んで用いられました。

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天皇の生活の場であった「清涼殿」の中央には、天皇がご休息に使われた御帳台が置かれ、その手前の厚い畳が「昼御座(ひのおまし)」と呼ばれ、天皇が昼間お使いになった御座所です。

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京都三大祭りのうち「祇園祭」を除く「葵祭」と「時代祭」はともに京都御所を出発します。葵祭は京都御所建礼門を出発して下鴨神社、上賀茂神社を巡ります。時代祭は京都御所建礼門を出発して平安神宮へと向かいます。

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「小御所」や「御学問所」などに面した、池を中心にした回遊式庭園は「御池庭(おいけにわ)」。開放的で気分転換もできそうです。

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見学コースでは近づくことができなかった天皇の夏季の納涼所「御涼所」。渡り廊下の先には「聴雪」というお茶室もあるとか。

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京都御所にお茶室(聴雪)があったとは、茶道が公家社会で完全に受容されていたことを物語っています。茶室のことはよくわかりませんが、侘び茶とも武家茶とも違う公家の接待形式に合わせた構成になっているそうです。孝明天皇の好みで、明治天皇も使っていたとのこと。

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天皇が日常のお住まいとしていた「御常御殿(おつねごてん)」の目の前には「御内庭(ごないてい)」が配されていて、秋になると見事な紅葉を眺めることができます。 

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修復工事中で今回の見学では見ることができなかった「春興殿」。

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かつての「春興殿」は、かつては武具などが置かれていましたが、大正4年(1915年)、大正天皇の即位礼に際して建てられた現在の「春興殿」は、「三種の神器」の一つ「御鏡(神鏡・しんきょうとも)」が置かれています。

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皇位とともに継承される「三種の神器」の一つ「御鏡(神鏡・しんきょうとも)」はこの扉の奥に奉安されています。 

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「御鏡(神鏡・しんきょうとも)」は、昭和天皇の即位礼でも使用されたそうです。三種の神器は天孫降臨のときに天照大神から授けられたという神話にも登場した宝物で、天皇の正統な継承権を持つ人のみ保有できる神物です。天皇や皇族でさえ実物ご覧になったことがないともいわれていますが、それが今日まで続いているのは神秘的なロマンです。東京・皇居で行われた平成天皇の即位礼の際にはどうだったのでしょうか。

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延暦13年(794年)の平安京遷都を源流とする京都御所は、元弘元年(1331年)に光厳(こうげん)天皇がここで即位されて以降、500年間、天皇のお住まいとしての歴史を積み重ねてきました。戦乱・動乱の時期もありましたが、宮廷文化の積み重ねの歴史でもあります。

平成天皇の即位礼からその舞台は東京・皇居に移されました。来年の即位式については秋篠宮の発言もあり、何かと注目されています。御所見学をしながら、京都御所での即位礼も古式ゆかしくて良さそうだなと思ったりもしましたが、警固の問題などたくさんの問題があって無理そうです。新しい年と、新しい天皇と元号はどんな年と時代になるのでしょうか。この京都御所ではどんな儀式が行われるのでしょうか。興味はつきません。

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2018年12月26日 (水)

京都散策 05京都御所

11/25(日) 京都御所は初めてでした。来年は今上天皇の生前退位があり改元されます。平成の時代に是非一度訪れてみたいと思っていました。御所日和というのでしょうか、空は青く日本晴れでした。

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現在の御所は江戸末期の安政2年(1855年)に再建されました。御所を取り囲む築地には6つの門があります。見学の入口になっている「清所門」から見学順路に沿って歩くと最初にあるのが「宜秋門(ぎしゅうもん)」。宜秋門(ぎしゅうもん)は別名「唐門」とも「公卿門」とも言われていて、檜皮葺(ひわだぶき)、切妻造りで、柱間1間の堂々たる四脚門です。かつては摂政関白、親王、公家、殿上人や将軍の御使及び諸大名が参内する際の表参内門でした。

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「諸大夫(しょだいぶ)の間」は、正式な用向きで参内した公家や将軍家の使者の控えの間です。身分に応じて部屋が決まっていて、襖の絵にちなんで格の高い順に「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」と呼ばれています。畳縁の色の違いや部屋への入り方にも身分の違いが反映されていいます。そのような説明書きを読んでいるとまるで歌舞伎のシナリオを読んでいるようで面白かったのです。

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公卿をはじめとする高位の貴族などが、儀式や天皇との対面のために使用した玄関「御車寄(おくるまよせ)」は、ドンーんとした威圧的な屋根をもっています。「諸大夫の間」などと廊下でつながっていて、「虎の間」や「鶴の間」を使用する者は正式な玄関であるこの「御車寄」から参入しますが、「桜の間」の使用する者は、左側にある「沓脱石(くつぬぎいし)」から参入したそうです。しきたりを覚えるだけで大変そうでした。

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「御車寄」の他にもう一つ「新御車寄(しんみくるまよせ)」があります。大正4年(1915年)、大正天皇の即位礼が「紫宸殿」で行われるのに際して、馬車による行事に対応する玄関として新設されたものです。大正時代以降の天皇皇后両陛下の玄関となっています。堂々とした構えが青空の下で映えていました。

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白壁と柱や縁取りの朱色の対比が美しい「承明門(しょうめいもん・じょうめいもん)」。最も格式の高い「紫宸殿(ししんでん)」と南正面に位置していて、外郭の「建礼門」と相対しています。瓦葺、切妻屋根で朱色の円柱は12脚。天皇行幸や上皇御即位後の出入りに用いられます。

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京都御所の正門で、天皇陛下のご通行のほか外国元首などの国賓来訪のときに開かれます。御所の門は身分で入る門が異なり、皇后様が単独の場合には別の門からお入りになるとのこと。

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即位式などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿で、入母屋桧皮葺の高床式宮殿建築です。慶応4年(1868年)には「五箇条のご誓文」の舞台ともなりました。明治、大正、昭和三代の天皇の即位の礼はこの「紫宸殿」で行われましたので、その儀式は「即位礼紫宸殿の儀」と称されましたが、今上天皇の即位礼からは東京の皇居・正殿(せいでん)で行われるようになりましたので「即位礼正殿の儀」といわれるようになりました。皇居もいいのですが、この紫宸殿もいかにも日本的でいいような気もしました。 

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「春興殿」は、大正4年(1915年)、大正天皇の即位礼に際して、皇位とともに継承される「三種の神器」の一つ「御鏡(神鏡・しんきょうとも)」を一時的に奉安するために建てられたもので、昭和天皇の即位礼でも使用されました。この日は修復工事中でした。 

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入母屋桧皮葺の寝殿造りの凜とした建物は「清涼殿(せいりょうでん)です。平安時代中期(10世紀中頃)以降、天皇の日常生活の場であったときの様式を復元(安政2年・1855年造営)して建てられています。 天正18年(1590年)に、別の「御常御殿(おつねごてん)」にお住まいが移ってからは主に儀式の際に使用されました。

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「小御所(こごしょ)」は、寝殿造りと書院造りの両方の様式が混合した建物で、さまざまな儀式が行われ、将軍・大名など武家との対面にも使用されました。慶応3年(1867年)129日の王政復古の大号令が発せられた日の夜、将軍に対する処置を定めた「小御所会議」がここで行われ、歴史の転換の舞台ともなりました。昭和29年(1954年)に焼失、昭和33年(1958年)に復元されました。

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「御学問所(おがくもんしょ)」は、入母屋桧皮葺の書院造りの建物です。慶長18年(1613年)に「清涼殿」から独立した御殿で、御読書始(おどくしょはじめ)や和歌の会など学芸に関する行事に用いられました。慶応3年(1867年)、ここで明治天皇が親王・諸臣に引見され、「王政復古の大号令」を発せられました。

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「小御所」と「御学問所」の間のスペースは「蹴鞠の庭」で、ここで蹴鞠が行われていました。鞠は鹿の革で作られていてかなりのテクニックが必要だそうです。運動不足の解消でしょうか、それともサッカーのルーツか。

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他にもいくつかの建物や池などがありました。御所見物を終えて京都駅に戻ると、秋晴れの日曜日でしたし相変わらずの賑やかさでした。

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行きと同じように、帰りも頂上付近が白くなった富士山を眺めながら帰路につきました。

1時間たらずの御所見学でした。古式ゆかしいそれぞれの建物は扉が閉じられていたり、遠くから眺めたり、ひっそりとしていましたが、京都御所は、桓武天皇が延暦13年(794年)に平安京に遷都されたのが始まりで、以来幾多の動乱・戦乱の時代を経てきました。時には大きな歴史転換の舞台であったこともあります。来年、新天皇が誕生し、京都御所ではどのような儀式が行われるのでしょうか。

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2018年12月24日 (月)

京都散策 04街歩き

11/25(日) 京都散策2日目はお昼過ぎの新幹線で戻る予定でしたので京都御所に行ってみようと思いました。

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旅館紫の朝食。シンプルなのですが、なぜかご飯が進むのです。

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京都御所までは地下鉄やバスで行けるのですが、早朝の静かな京の街を歩くことにしました。さすがに花見小路もひっそりとしていました。

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高瀬川沿いの木屋町も静かで昨日の喧噪が嘘のようでした。このあたりは、春には高瀬川に乗りだすように枝を伸ばした桜の花が川面に葉を散らす姿が美しいのですが、晩秋とも初冬ともいえるこの時期様相を一変しています。四季の移ろいをはっきりと感じさせてくれます。

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京都市役所近くの通りに出るとコーヒーとパンが焼けるいい香りが漂ってきました。京都市内で10店舗展開している進々堂の店舗がありました。人気店ですのでさすがにちょっとした行列もできていました。

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コーヒー党ののんちゃんは素早く行列に並んでいました。進々堂は、フランスの食文化を発信していて、ベーカリーレストランやベーカリーカフェなどの業態を展開していて、高島屋や京都駅伊勢丹にもショップを持っています。

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前日はおばんざいでこの日の朝食は和食でしたので、パンが焼ける香りは新鮮でした。朝食を食べたばかりなのに小腹が空きましたが、ぐっと我慢しました。 

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日曜日でしたので、京都市役所あたりのビジネス街も森閑としていて、ヒヤリとした空気がとても気持ちよかったのです。旅館紫からここまでの道筋には、桂小五郎や佐久間象山の寓居跡、加賀藩邸跡や長州屋敷跡があり、また近くには本能寺信長公廟(「信長はなぜ葬られたか」(安部龍太郎)によると信長の墓は上京区寺町通にある阿弥陀寺にあり、信長の首塚は静岡富士宮市西山にある日蓮宗西山本門寺にあるとか)があります。

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ひっそりとした静かな街を、かつての歴史に思いを馳せながら歩きました。真っ直ぐ進めば京都御苑・京都御所に突き当たるこの道にはかの有名なクッキーの「村上開新堂」(東京店は紹介者がいないと買えませんが、京都店はフリーで買えます)があります。開店時間までには随分時間がありました。

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歩き始めて1時間で京都御苑に着きました。散り始めた紅葉が散歩道も樹々の足元も深い秋色で覆っていました。

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紅葉が。

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京都御苑は、江戸時代140以上の宮家や公家の邸宅が立ち並ぶ町でした。明治になって東京に遷都されると同時にこれら邸宅は取り除かれ、公園として整備されました。御所と一体となった景観が維持されています。

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御所は、東西約250m、南北約450mの築地(ついじ)塀に囲まれて、面積は11m2あります。広い敷地には御所と並んで皇太后(大宮)の御所や譲位した天皇(上皇・法皇)の御所である仙洞御所なども並んでいます。

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幕末「禁門の変」の舞台となった蛤御門(蛤御門の変とも)。今まで何回となく車窓から眺めていたこの地に是非来たいと思っていました。元治元年(1864年)長州藩と朝廷を警護していた会津藩・薩摩藩との武力衝突がきっかけとなり、その後の明治維新への大きな歯車が回り始めました。司馬遼太郎の「龍馬がゆく」をはじめとする幕末・明治維新ものの小説には必ず登場する舞台です。

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09:18と早い時間ですが、京都御所の長い塀沿いに御所見学の人たちが歩いていました。以前は見学には事前予約が必要で面倒だなと思っていたのですが、2016726日から予約の必要がなくなりました。

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京都御所の入口の清所門。京都御所には門をくぐるとセキュリティチェック(リュックの中味検査など)がありましたが、守衛さんの対応がとてもフレンドリーでした。

京都御所も是非一度は来たいと思っていた場所でした。現在の天皇陛下のお住まいである皇居はかつての江戸城です。先日BSプレミアム(磯田道史さんの番組)で江戸城の攻略は可能かどうかとい番組が放映されていましたが、江戸城(皇居)はそれほど堅固な城壁で守られています。一方、京都御所は室町時代から明治時代に至る数々の戦乱の時代に天皇がお住まいになっていた場所で、それにしては警固が難しくいかにも危なげな場所です。多分それは、天皇は絶対に襲撃されるはずがないという暗黙の了解があったのだろうと思われます。

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2018年12月22日 (土)

京都散策 03おばんざい

11/24(土) 近場を散策してのんびりしたあと、再び散策がてら夕食を食べに出かけました。

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錦市場で夕食の食材を仕入れて「旅館紫」に戻って一休みしたあと再び出かけました。陽は少しずつ傾いているのですが、空は十分明るく鴨川の流れも青空を映していました。

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鴨川を渡って寺町あたりを散策しました。柳小路には人波は押し寄せてきていなくてひっそりとしていました。

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先斗町の路地に入ると料理屋や飲み屋の灯りがポツリポツリと灯り始めました。

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今晩の夕食は先斗町の真ん中あたりにある「たばこや」(鳥取県の方言で一休みという意味)で、のんちゃんごひいきの店です。

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小さなおばんざいの店ですので開店と同時に予約客で席は埋まっていました。

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カウンターの前に並べられたおばんざいは、例えば有名な予約が取りにくい「めなみ」(何回か行ったことがあります)に比べると品数は少ないのですが、一つ一つが丁寧に調理されていて出汁のきいた料理が味わえます。

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お酒は冷酒もあるのですが、この店お勧めの樽酒の燗酒。燗がさめないようにと工夫された容器や独特のとっくりが気に入っています。

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京都の小さな料理屋のカウンターで、適当な肴をつまんで燗酒をチビチビやっているだけで満足でした。

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のんちゃんはお気に入りのおばんざいをオーダーしていました。私のシメは鯖の棒寿司で。

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先斗町と並行している高瀬川沿いの木屋町を結ぶ細い路地が何本もあります。その細い路地の一つ(三条から十五本目)に小さな社があります。千社札がびっしりと貼られています。昼は気がつきにくいのですが、夜になると灯りが灯ります。小さな扉の中には狸がいて昭和50年の先斗町で大火事が起こった時に、ここで狸が火をくい止めたとか。 

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高瀬川沿いの木屋町を三条方向へと向かい、ケーキ屋を目指しました。

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お目当てのケーキをゲット。 

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私は、ケーキ屋の隣の隣にある青提灯の居酒屋「よしみ」がごひいきなのですが、ここも開店と同時にほぼ満席になり、この日は諦めました。

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宿へと戻ることにしました。四条大橋を渡ると南座にも灯が灯りライトアップされているようでした。

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南座の「まねき替え」は、年末の風物詩になっています。「吉例顔見世興行」(11/12512/126)の出演者の名前を書いた看板「まねき」を入れ替える「まねき替え」が行われると、今年も年の瀬が近づいたなと思うのです。

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旅館紫にも提灯が灯っていました。

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錦市場で仕入れた食材(旅館の冷蔵庫で一時預かり)とゲットしたケーキで二次会になりました。せっかくのケーキが崩れて可哀想でしたが。

京都には春と秋何回か来ていて、(寺院などが多いのですべて廻るとすると拝観料も含めて大変です)主な観光地はほとんど巡りました。なんで京都に行きたくなるのだろうと考えると、やはり華やかで賑やかな古都の雰囲気を味わいたいからだろうと思いますと、観光地巡りをしなくても旅館紫をベースにプチ町屋暮らしの雰囲気を味わうのもいいかもしれないと思うようになりました。 

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2018年12月20日 (木)

京都散策 02町屋暮らし

11/24(土) 鞍馬山から京都市内の宿泊先「旅館紫」へと向かいました。

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出町柳から京阪電鉄に乗って祇園四条駅で降り、花見小路へと出ました。花見小路には都踊りが行われる歌舞練場があり、たくさんの観光客が最も京都らしい風情の花見小路を散策していました。

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花見小路には多くの観光客が歩いていても直角に交叉する細い路地は比較的静かです。軒を並べている料理屋などさまざまな店の二階には簾がかかっていて、旧街道の町並みを思わせるような落ち着いた雰囲気になっています。

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花見小路から入った細い路地にある旅館紫は京都での定宿にさせていただいています。女将さんとのんちゃんは女性同士の気安さですっかり仲良しになりました。下宿先に帰ってきたような気分でした。

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かつてはお茶屋でしたので部屋は2階に4部屋しかないこじんまりとした片泊まり(宿泊+朝食のみ)の宿です。小さな路地に面したこの部屋が気に入っています。女将さんは、夜間路地を通る人の声などが聞こえてうるさいでしょうと気を遣ってくれるのですが、その静かな賑わいがいいのです。

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四国巡礼の宿坊のようなシンプルな部屋で、いつも生けられている気持ちのこもった季節の花(今ではどこの旅館でもあたりまえですが)が嬉しく感じられます。

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部屋で買ってきた昼食を食べたあと、毎月21日に行われる「弘法さん」といわれる東寺の縁日で買ってきたという柿をいただきました。食べ頃に冷えていて甘く、とても美味しくいただきました。たった1泊ですが、普通に京都で暮らしているような町屋暮らしの雰囲気を味合うのもいいものです。この雰囲気は京都のどんな高級な旅館やホテル(予算もありませんし予約も取れませんが)でも味わえません。

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旅館紫に荷物を置いて一休みして、ブラブラと近場の八坂神社から円山公園へと散策しました。まるで初詣のような雰囲気で賑わっていました。

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八坂神社の「舞殿」といわれる能舞台のような小さな舞台では巫女さんが登場して何かの儀式やお祓いが行われるようでした。巫女さんの姿は清々しくていいものです。 

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この日は日がいいようで、婚礼が始まりました。秋晴れの空の下、こんな晴れ晴れしく婚礼を挙げられる夫婦は幸せ者です。一生お幸せに。 

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半分冬枯れのような円山公園でしたが、八坂神社からあるいは清水寺から続く人の流がありました。

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円山公園は「祇園しだれ」という桜が有名で、春の花見のイメージですが、秋は枯山水のようなそれなりの雰囲気がありました。

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円山公園の奥にある坂本龍馬と中岡慎太郎像のまわりは燃えているようでした。

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夕食は、おばんざいの店に行ったあと旅館紫で食べようと錦小路へと買い出しに行きました。人の洪水どころか人の津波のようで身動きできませんでした。これは漬け物屋さんが展示していた漬け物懐石。たかが漬け物されど漬け物。

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もう一つ、京都を代表する食材のハモ。 

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津波に押し出されるように錦天満宮に出ました。錦天満宮は平安時代に創建されて歴史は古いのです。繁華街唯一の鎮守社で、境内の地中からは良質な名水・錦の水が湧き出ていて、この湧き水が錦市場発展の源となったといわれています。

鞍馬山へは京都から直行しましたので、旅館紫でリュックを下ろすとほっとします。京都の主な観光地は巡りましたので、一泊二日と短いのですが旅館紫をベースにして近場をブラブラする町屋暮らしのようなスタイルもいいかなと思いました。

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2018年12月18日 (火)

京都散策 01鞍馬山

11/24(土)、25(日)の2日間、京都へ紅葉狩りに出かけました。ここ数年、春はお花見に、秋は紅葉狩りに出かけるのが恒例になりました。

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早朝、新横浜を出発。いつものように同行者はのんちゃん。最近は、仕事がハードなのんちゃんの慰労という要素が強くなっています。

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今まで何回となく登った富士山を眺めながらビールを片手に駅弁を食べる瞬間が、旅立ちの気分となって気持ちは高揚します。

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紅葉シーズンで3連休でしたので、京都駅はいつにも増して混んでいました。しかしこの混雑も観光気分を高めてくれます。

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最初の目的地鞍馬寺へは電車がバスで出町柳まで行くルートがあります。バスは行列ができていましたし、道路も混み合いそうでしたのでバスはパスしました。 

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JRと私鉄を乗り継いで叡山電車出町柳駅から鞍馬線に乗り換えました。出町柳駅では鞍馬山や比叡山に向かう人で行列ができていましたが、なんとか乗り込むことができました。鞍馬山が近づくにつれて車窓から紅葉を楽しむことができました。

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鞍馬駅名物の天狗は台風で破損したと聞いていたのですが、修復されたようです。

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鞍馬山に以前2回来たときは比較的ひっそりとしていましたので、京都の観光名所の中では鞍馬山はマイナーなのかなと勝手に思っていたのですが、やはり紅葉シーズンは賑やかでした。

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鞍馬寺は鑑真和上の高弟鑑禎によって開山され1200年の歴史をもっています。源義経(幼名牛若丸)は、7歳頃に鞍馬山に入山し、16歳の頃鞍馬寺を出て奥州平泉に下ったといわれています。義経と天狗をめぐるパワースポットの連山としても注目を浴びています。

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鞍馬寺は鞍馬山への登山口になっていて、登っていけば奥の院から義経堂に着きます。結構急な登りもあり、観光気分でいるとひどい目に遭います。

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鞍馬寺から少し歩いたところに由岐神社があります。祭神は宮中に祀られていたのですが、朱雀天皇の勅によって940年に鞍馬に遷宮をし、北方鎮護の役割を担いました。「鞍馬の火祭」として有名で、その火祭は遷宮の際に里人がかがり火をもって神霊を迎えたことによるそうです。参道に立つ樹齢800年、樹高53mのご神木「大杉さん」がみごとです。

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鞍馬山に登る人の多くは、奥の院や義経堂を経由して山を越えて貴船神社にお詣りするのですが、なんと台風の影響(嵐山の渡月橋も壊れました)で登山道が崩れて山越えができないということでした。早く言ってよ!と言いたくなりましたが、鞍馬駅に戻り叡山電車で貴船口に戻ることにしました。

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貴船口駅のプラットホームは、面白いことに上りも下りも同じホームです。たくさんの人が待っていました。

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貴船口で下車して貴船神社にお詣りしました。全国に450社ある貴船神社の総本社であり、ここのパワースポットは日本最強クラスともいわれています。 

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貴船神社から貴船川沿いに川床料理の店が軒を連ねています。

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貴船口駅に戻り、再び叡山電鉄に乗って出町柳方向へ戻りました。

京都と台風というのがどうにもイメージが結びつかないのですが、かなりひどかったようであちこちで爪痕を残しています。このあと向かった宿泊先の「」旅館紫も屋根が破損するという被害を受けたとか。

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2018年12月16日 (日)

遠くへ行きたい 08博多・ほろ酔い通り

11/14(水) 中津市の居酒屋巡りのあと駅前のビジネスホテルに宿泊して、翌日博多へと向かいました。

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日豊本線で博多へと向かいました。二年半前の20165月に福澤諭吉の故郷中津へ行こうと博多からこの日豊本線に乗ろうとしたのですが台風の影響で不通になり、やむなくレンタカーで高千穂峡から鹿児島、枕崎へと方向転換したことがありました。

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九州の鉄道は、昔から車体やシートなどデザインに力を入れていて、九州の鉄道に乗るのはそれだけで楽しみでした。 

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鉄道の旅は、のみ鉄 も楽しみの一つです。列車に揺られながら流れてゆく景色を眺めながら一杯やるのは最高です。しかも朝から。

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博多駅に着いて、福岡空港発のフライトまで時間がありましたので太宰府天満宮に行こうとバスセンターに行ったのですが、長蛇の列でバスに乗りきれないということで諦めました。並んでいる人たちから聞こえてくるのは中国語ばかりでした。中国人はそんなに太宰府天満宮がいいのでしょうか。

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時間がありましたので中州をブラブラしたあと博多駅に戻り、早めの昼食に ほろ酔い通り へと足を向けました。

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ほろ酔い通りというように何軒かの居酒屋などが並んでいたのですが、イキのよさそうな「礼文番屋」という店に入ることにしました。すでにたくさんの人が昼食をとっていて席は一杯でした。

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店の奥にも酒飲み向けの席がありましたので、なんとか落ち着くことができました。

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最初に飲んだのはひやおろしの赤蜻蛉(あかとんぼ)。価格も手ごろで旨かったです。

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酒のツマミに食べたかったのがふぐ皮ポン酢でしたが、残念ながら売り切れとか。他にも食欲をそそる食材が一杯でした。

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結局無難な刺身盛り合わせにしました。北海道礼文島のイキのいい刺身を福岡でいただくのも、まあいいか。 

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二杯目は博多一本〆。これもいけました。

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ほろ酔い通りでほろ酔いになりました。単なる放浪の酒飲みオヤジになりました。

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最期に獺祭にしました。評判の酒で確かに爽やかですが上品すぎて、自分にとっては一杯目の赤蜻蛉や二杯目の博多一本〆の方がコクがあって旨いと感じました。 

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最期に、白い御飯が食べたくなりました。

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博多駅から地下鉄空港線で福岡空港へと向かいました。九州はJRだけではなくて地下鉄もデザインがとてもいいのです。つり革が半円形のパイプにぶら下がっていて、機能的ですし見た目にもとてもオシャレです。シートや床のデザインも。

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優先席のデザインも暖かみと優しさを感じました。かつてイタリアを旅したとき、地下鉄やバスの駅や車体や車内デザインに目を見張ったものですが、九州の鉄道もなかなかのものです。

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博多でよく行ったことがある居酒屋「しらすくじら」(名前の由来はしらすのような小さな魚からクジラのような大きなものまでありますということだそうです)が福岡空港ターミナルに出店していました。1年前にテナントになったとか。空港で時間がつぶせる場所ができました。

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空港トイレにあったアヒルをモチーフにした男の子用の便器。下を見ると あひる と書いてありました。デザインの良さは電車や地下鉄だけではないようです。

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乗り込んだ機内は満席でした。

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夕陽が沈みかかる頃羽田空港に着陸しました。

羽田から大分空港、大分空港からレンタカーで国東半島、耶馬溪、中津へと走り、中津からJRで博多へ、地下鉄で福岡空港へ、そして羽田へと乗り物乗り継いだ慌ただしい12日の楽しい旅でした。 

念願だった国東半島(六郷満山)、耶馬溪(特に青洞門)、福澤諭吉の故郷を尋ねることができ、駆け足でしたが印象に残る旅でした。小学生時代に聞かされた青洞門の堀跡やその道具を見て感慨に耽りました。青洞門がある耶馬溪・競秀峰が競売にかけられようとしたとき福澤諭吉が買い取ったことも印象的でした。諭吉が幼少青年期を過ごした地で、諭吉の足跡を辿ることもできました。福澤諭吉旧宅の庭に植林されていた昭和天皇行幸記念の松を目にして、改めて福澤諭吉という人の業績の大きさを再認識しました。

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2018年12月14日 (金)

遠くへ行きたい 07中津市・居酒屋巡り

11/13(火) 長い一日のシメは居酒屋で。福澤諭吉の出身地(生まれは大阪市)中津市は、耶馬溪などの観光名所はありますが、町には塵一つ落ちていないほど清潔で、走る車も道行く人も静かな地方の文教都市です。こういつ町にはどんな居酒屋があるのだろうか興味津々でした。

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宿泊は中津駅前のビジネスホテルに宿泊しました。ホテルの窓から駅舎が見えて行き来する列車が見えると最高なのですが、残念ながら駅とは反対側の部屋でした。しかし、暮れつつある空を覆っている雲の下の遠くに耶馬溪などが連なる山々が見えました。

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翌日は、中津駅から博多へと移動します。最近の駅は観光客誘導の思惑もあって、駅ナカに店舗が入っていたり地元の物産などが紹介されていて面白いのですが、中津駅はさっぱりとしたものでした。うどん屋があり、居酒屋巡りのシメはうどんと思っていたのですが。

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駅前には福澤諭吉が立っていました。諭吉は中津の若い人びとに大きな期待を寄せていました。洋学の必要性を感じ、のちの慶應義塾の基礎を固めようと考えたときも、郷里の中津にその担い手を求めていました。耶馬溪随一の景観を誇る耶馬溪・競秀峰が競売にかけられようとしたとき、諭吉が買い取って現在の観光資源として環境も保護しました。日本の将来は見つめていても、一方では幼少青年期を過ごした中津への郷土愛もありました。

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諭吉の郷土愛はさておき、私は夜の商店街へ。

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商店街を行ったり戻ったりしながら、最初に「二十万石」という居酒屋に目をつけました。店名は、中津藩が最も興隆したときの石高に由来するのかなと勝手に推測しながら暖簾をくぐりました。

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店に入ると、ところどころ木目がすれて光っているいかにも歴史を感じさせるカウンターがドーンとありました。時間は5時半ですから飲み始めるには早い時間ですが、すでに何人か先客がいました。

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壁に掛かったお品書きの札にも年期が入っていて、レンガの壁には焼き鳥の炭火の煤がこびりついていて、落ち着いてじっくりと飲めそうな雰囲気でした。

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温泉付きホテルで汗を流したあとビールを飲みましたので、ここでは冷酒からスタート。特にこだわった日本酒を置いてあるわけではないのですが、とりあえずお勧めの地酒をいただきました。名前は忘れましたが旨かった。

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刺身も地魚中心のお任せをいただきました。なんでこんなに美味いのだろうと思うほど美味しかったのです。

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二杯目は樽酒を升で。鶏皮ポン酢があまりにも美味しく、お代わりしてしまいました。大分県は鳥天国で、特に唐揚げの消費量は日本有数です。かつて湯布院や黒川温泉に行ったとき、唐揚げの店の多さにビックリしたものです。鶏皮も美味しくないわけありません。

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旅に出たとき、居酒屋は一軒だけではもったいなく少なくとも二軒くらいは巡りたいものです。二軒目は、派手派手しいお品書きが店先に出ていた「地魚屋台ぜんちゃん」にしました。

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店を覗いてみれば、まあまあ流行っていそうでしたのでガラス戸を開けました。

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ここでも冷酒で。

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小腹を満たすために一本穴子の天ぷらをオーダーしました。そのでかいこと、これが280円。

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やはり中津名物唐揚げを食べないことには。唐揚げは普通一皿とか一盛りとかで出てくるのですが、ここでは一個単位(120円)でオーダーでした。一個では寂しいので二個オーダーしましたら、でかい塊がでてきました。これで240円。

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何杯かお酒をお代わりし、シメに鶏関連でだし巻き卵をオーダーしたのですが、またこれがまた卵何個分だろうと思うほどジャンボで、480円。まいりました。ここでの勘定はツマミ1000円プラスアルコール代でした。

すっかりお腹が一杯になり、シメのうどんはパスしました。再び駅の反対側のホテルに戻る途中、夕闇に中に福澤先生が立っていらっしゃいました。今回の居酒屋巡りの地元還元経済効果は1万円でかなりおつりがきてしまいました。スミマセン。

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2018年12月11日 (火)

遠くへ行きたい 06中津市・福澤諭吉

11/13(火) この日は、大分空港を出発して国東半島の端を走り、耶馬溪を訪れた後、中津市中心部へと向かいました。母校の創始者福澤諭吉が幼少青年期を過ごした地を訪れました。

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福澤諭吉の父親は中津藩の藩士で、諭吉も家督を継いで中津藩士となりました。中津藩は小倉藩が藩庁になったと同時に支城となり城代が置かれました。中津藩が成立した時(1600年頃)には40万石近くだったのですが、100年後には10万石となっています。諭吉が出仕した頃はいわば地方の小さな藩でした。

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諭吉は中津藩の下級武士の家に生まれ、少年時代から19歳で長崎に遊学するまでの幼少青年期をこの地で過ごしました。思索に耽る諭吉が路地からふと現れてくるような、息づかいが聞こえてくるようなひっそりとした閑静な町です。

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諭吉は天保5年(1835年)の110日に大阪堂島の中津藩蔵屋敷で生まれましたが1歳の時に父親が死亡したために、母子6人で中津のこの地に戻りました。諭吉は母子家庭に育ちました。 

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福澤諭吉旧居の隣には「福澤記念館」が建てられています。記念館には諭吉の一生と業績についての資料が展示されています。

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この建物は諭吉の母お順さんの実家です。幼少青年期過ごした旧居跡は道を隔てた場所にあり現在は石組みで復元されています。

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諭吉は青年期になると母親のこの実家で過ごしました。諭吉の父は下級武士でどちらかという貧困家庭でしたが、母親のお順さんの実家は比較的豊かでした。

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諭吉が少年の頃、自分で手直しをし、兄三之助のすすめで長崎へ遊学する19歳(1854年)まで、この土蔵で米をついたり2階の窓辺で学問を続けたそうです。1415歳の頃勉学に目覚め、のちに儒学者白石照山の塾で学んだそうです。今でいえば、高校受験で勉強に目覚め塾にも通うということなのであたりまえことですが、地方の小藩の母子家庭という厳しい環境の当時ではどうだったのでしょうか。母親の実家が豊かであったことが幸いしたように思えます。最も多感な時期、諭吉は九州の小さな藩にあって何を考えていたのでしょうか。

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諭吉は、19歳(1854年)の時に兄のすすめで蘭学を学びに長崎へ、20歳の時に大阪の緒方洪庵(医師で蘭学者)の適塾に入りました。翌年兄の病死により中津に戻って福澤家を継ぎましたが、22歳になって適塾の塾長になりました。23歳になって藩命によって江戸で藩主の中屋敷で蘭学塾を開き、これが慶應義塾の起源(創立1858年)といわれています。諭吉が33歳の時(慶応4年:1868年)に、年号にちなんで塾名を慶應義塾と定めましたが、この年の9月に明治に改元され時代が変わりました。今でいえば大学生活の4年間に長崎から大阪へ、大阪から江戸へと目まぐるしく、時流に乗るように転身しています。

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「福澤記念館」にも足を運びました。諭吉は25歳(1860年)で幕府の軍艦咸臨丸で渡米しています。艦長の勝海舟は船酔いで艦長室から一歩も出られなかったという話は司馬遼太郎の「龍馬がゆく」でも描かれている有名な話です。それにしても九州の小藩の下級武士が25歳で渡米してしまうとは、時代の流れと諭吉の才能なのでしょうか。

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この写真は、1回目の洋行のおりにサンフランシスコで写真屋のお嬢さん(15歳)と撮したツーショットです。諭吉の自伝『福翁自伝』では、この写真を同行の士官たちに見せると真似をするといけないので、船がサンフランシスコの港を出港したあとで、自慢げに見せたと書かれていて、目立ちたがりやで茶目っ気のある一面がうかがわれます。また黒船が襲来し徳川幕府もいよいよ危うくなって江戸城内では幕臣が慌てふためいている傍らで平然としていたともいわれています。諭吉は、知恵と度胸とが必要とされる激動の時代に巡り合わせました。

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諭吉直筆のメモ帳。書かれている文字、ほとんどが横文字で全く解読できませんでした。情けないです。15
諭吉が慶應義塾を創立し、また『学問のすゝめ』(明治5年、1872年、諭吉37歳)などの執筆活動を通じて多くの人が諭吉のもとで学び、実業界、政界、教育界で活躍し、その人材は「福澤山脈」といわれ新しい時代を支えました。

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一方、諭吉は私生活でも頑張りました。9人の子ども(45女)に恵まれました。「世間では女の子を軽視する傾向があるが、こんなばかげたことはない、自分は子どもを男女でわけへだてをしたことがなく、9人の子がみな娘だってかまわない」と『福翁自伝』で述べています。

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明治34年(1901年)23日、脳溢血で倒れ永眠。享年66歳。 

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どこの国でもお札 (紙幣) にはその国の偉人や聖人が選ばれています。日本でも、長い間1万円札5000円札には聖徳太子が印刷され、1000円札には伊藤博文が印刷されていました。 1984年からは1万円札に福沢諭吉が印刷されました。

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旧居の庭にある胸像。諭吉は学問の人というイメージですが、『福翁自伝』や後世の歴史家が書いた書物などを読むと剣術もかなりの腕前だったとか。また当時ではあたりまえだったそうですが、1日に10里(40km)くらいはかなりの速度で平気で歩いたそうです。文武両道の人でした。

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昭和24年(1949年)69日、昭和天皇が福澤諭吉旧居に行幸され、この松を植林されています。昭和天皇はどのような思いでここに行幸されたのでしょうか。もし福澤諭吉という存在がなかったら300年続いた徳川幕府が倒れたあとの新しい時代はどうなっていたのだろうか、日本の姿はどうなっていたのだろうかと思われたのではないかと、畏れ多くも拝察するのですがいかがでしょうか。

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諭吉が幼少青年期を過ごした地で、諭吉が何を思って勉学に励んだのか、思いを馳せました。「福澤記念館」では19歳での長崎での遊学に始まり3回の洋行、大政奉還から明治維新へと激動の時代を生き抜いた諭吉の姿を前にして、諭吉の息づかいを感じ、今まで何回となく読んだ『福翁自伝』をもう一度読みたくなりました。

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2018年12月 9日 (日)

遠くへ行きたい 05耶馬溪・青洞門

11/13(火) 耶馬溪(中津市)にエリアに入り、羅漢寺で参拝した後、本耶馬溪の中心地にある青洞門へと向かいました。

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羅漢寺から耶馬溪まではすぐ近くの距離でした。天気は青空が広がっていて気持ちよかったのですが、雲が激しく動いていて時々日が陰ったりもしていました。

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青空に向かって突きだしている本耶馬溪の「競秀峰(きょうしゅうほう)」。目の前に流れる山国川に沿って巨峰や奇岩群が1キロにわたって連なっています。耶馬溪は紅葉の名所ともいわれるのですが、奇岩に貼りついている緑はほとんどが常緑樹のようでした。この競秀峰は売却されそうになったのですが、中津出身の福澤諭吉が買収して自然保護のさきがけとなったそうです。

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競秀峰を背にして「禅海和尚の像」がありました。競秀峰の足元には青洞門が残されていて、青洞門に向かう入口に洞門を掘った禅海和尚の像がありました。ほぼたった一人(村人が協力したり石工が雇われた時期もありました)で30年間岩に立ち向かった曹洞宗の僧。小学校の時に習った伝説の人で、とても感動したことを覚えています。

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競秀峰の岩壁は山国川に突き刺さるようにしてあり、これが通行の邪魔になっていました。ちょうど(糸魚川市)の難所親不知のようです。かつてここを通る人は、競秀峰の高い岩壁に作られ鉄の鎖を命綱にした大変危険な道を通っていました。諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚は、この危険な道で人馬が命を落とすのを見て心を痛め、享保20年(1735年)から自力で岩壁を掘り始めました。

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川沿いに歩いて行くと手彫り洞門への案内板がありました。

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現在の洞門は、当時からは大きく変化しており、明治40年にほぼ現在の洞門に近い形に改修が行われ、現在は手彫り洞門のごく一部が残されているのみとのことです。

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禅海和尚は、1735年からノミとツチで岩壁を掘り始め、後年禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともに掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)、全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させました。

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禅海和尚の手彫りの洞門は、寛延3(1750)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路ともいわれています。

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山国川に面して「明かりとり」として掘られた部分も残されています。

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禅海和尚は、江戸時代中期の曹洞宗の僧で越後国高田藩士の子です。江戸浅草に住んでいたことがあり、両親が亡くなった事から世の無常を感じて出家し、諸国を行脚、正徳5年(1715年)に得度して禅海と称しました。生年についてははっきりとはしていないのですが、1691年生まれで1774年没といわれていますので83歳で亡くなりました。これだけの大事業を成し遂げて苦労もしたでしょうが、当時としては大変な長寿といえます。

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(インターネットより転載) 先に訪れた羅漢寺の麓に禅海堂があり、そこには禅海和尚が使ったとされるノミやツチの道具が展示されていて、管理しているおばちゃんが写真を撮ってもいいよといってくれたのですが、どういうわけか撮り損ねてしまったのが残念です。

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青洞門は、菊池寛によって「恩讐の彼方に」が小説化されたことは有名です。この小説では、禅海和尚(小説では了海和尚)は罪を犯し、罪の贖罪のために洞門を掘ることになったというストーリーですが。禅海堂を管理しているおばちゃんは、小説では極悪人のように書かれているが、実際には禅宗のお坊さんで立派な人だと力説していました。小説によって青洞門が世に知られ、またドラマチックなその結末はさらに禅海和尚の事業を感動的なものに仕上げている側面も否定できません。

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かつての手掘りの洞門の上部は車道となっています。それでも道が狭いために交互通行で車が走っていて、私もレンタカーで走ってみました。

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青洞門の上の車道はトンネルになっていて、トンネルを抜けた出口には見事に黄葉したイチョウの葉が陽を浴びてキラキラ輝きながらハラハラと落ちていました。地下の手彫りの青洞門への入口は黄金色の落ち葉で敷き詰められていました。

是非訪れてみたかった場所を訪れ、実際に使われたノミとツチを目にし、ノミ跡が残る洞門を歩いて大満足でした。青洞門は日本最初の有料道路ともいわれ、いわば公共事業ともいえるのですが、一方では、有料化によるあがりで禅海和尚はいい生活をしたのではないかという話もあります。しかし、後年石工を雇ったことがあったとしても、一人で難事業を始めたことは間違いないことで、もし晩年が幸せであったならそれに越したことはないと思います。それに大きな観光資源という遺産も残したわけですし。

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2018年12月 8日 (土)

遠くへ行きたい 04耶馬溪・羅漢寺

11/13(火) 大分空港をレンタカーで出発し、熊野磨崖仏を訪れた後中津市に入り耶馬溪へと向かいました。 

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耶馬溪は日本三大奇景(奇勝とも:他に香川県小豆島の寒霞渓、群馬県妙義山)は一つで、奇岩や紅葉で有名です。ひとくちに耶馬溪といっても本耶馬溪、裏耶馬溪、深耶馬溪、奥耶馬溪と広域にあります。全域巡ると時間がいくら合っても足りませんので、今回は本耶馬溪を中心に羅漢寺と青洞門を訪れることにしました。(画像をマウスで左クリックすると拡大できます。左上のをクリックすると元に戻ります) 

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羅漢寺へは、歩いて15分くらいの山の中腹にありますがリフト(3分)もありました。時間がもったいないのでリフトに乗って羅漢寺駅まで行って、岩壁に沿って削られた緩やかな石段を上って行きました。

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崖に沿って上って行くと岩壁を削った空間に石碑や墓石、羅漢像が所狭しと並んでいて、結界へと足を踏み入れてゆくような不思議な感じでした。

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さらに歩いて行くと前方に山門が見えてきて、その山門も崖っぷちの狭いスペースに危うく置かれていて、結界門のようでした。

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羅漢寺には三千体以上の五百羅漢や石仏が安置されているといわれています。

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岩壁に貼りついたような山門は高い場所にあり、まるで展望台のようで耶馬溪の山々を眺めることができました。高所恐怖症の人は足がすくむだろうと思われました。この山門は室町幕府の三代将軍足利義満により建立されたといわれています。

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岩壁を穿って参道が続いていました。日本には岩壁と共生というか、利用した建造物があちこちにあります。今まで行ったことがある場所では、鳥取県の投入堂や四国巡礼45番霊場岩屋寺(愛媛県)、山形県の山寺・立石寺などがあります。この日見物した磨崖仏も岩壁に彫られていて、日本人は岩壁を目の前にすると何かしたくなるのでしょうか。 

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江ノ島岩屋洞窟のように道が続いていて柵で仕切られた場所に出ました。ここは「無漏窟(むろうくつ)」といわれる聖域です。

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無漏窟には祭壇(あるいは須弥壇でしょうか)が設けられて、参拝する人の姿が見られました。私も見習ってお参りしました。

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無漏窟の中央には釈迦如来が安置され、両側には約650年前に作られたさまざまな表情やしぐさをした五百羅漢がびっしりと安置されていました。両側には後で知ったことですが、羅漢寺全体が聖域であるため山門の手前から撮影禁止だったとか。何となくそんな感じはしていましたのであまりおおっぴらには撮影しなかったのですが。 

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ここ羅漢寺は大化元年(645年)に法道仙人がこの岩山の洞窟で修行したことが始まりとされています。日本三大五百羅漢(他は鎌倉市建長寺、足利市徳蔵寺or川越市喜多院)の一つとされています。この本堂は、四国霊場の岩屋寺とまったく同じような立地です。

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本堂から来た道を戻ると、ミニミニ清水の舞台のような舞台の上に建てられた古い倉庫のような建物が見えました。舞台は万延元年元年(1860年)に設置されたとのこと。

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舞台の上の建物の中には千体地蔵が安置されています。室町期時代に普覚禅師という高僧が千体地蔵と十王尊を刻み安置したそうです。舞台は千体地蔵が安置されてから500年後に設置されました。

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洞や柵などあちこちにしゃもじが打ちつけられていました。しゃもじに願いを書いて奉納するしゃもじ奉納寺院としても有名だそうです。

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羅漢寺の境内から振り返ると山門は二層のしっかりした建物で、室町幕府三代将軍足利義満が建立しただけのことはあります。 

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山門をくぐり来た道を戻ると山頂へと向かうリフト乗り場に戻りました。

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リフトで山頂まで上がり、山頂の展望台からはまわりの景色を眺めることができました。

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再びリフトで麓へ下ると青洞門をくり抜いた禅海和尚を祀る禅海堂がありました。禅海和尚は一時期この羅漢寺の麓に寝泊まりしていたとも伝えられています。

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禅海堂には禅海和尚のお墓があり、洞門掘削に用いたツチとノミも祀られていました。

青洞門も訪れてみたいと思っていましたので、青洞門を掘った禅海和尚ゆかりのお堂が羅漢寺の麓にあるとは思いませんでしたので、ビックリしましたしありがたい気分にもなりました。

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2018年12月 5日 (水)

遠くへ行きたい 03国東半島・熊野磨崖仏

11/13(火) 国東半島をドライブし、真木大堂で早々と六郷満山の雰囲気を味わった後、熊野磨崖仏へと向かいました。 

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国東半島をドライブなどと大見得を切ったものの、実際には空港から海沿いにぐるりと半島を廻ることなく真っ直ぐに真木大堂や熊野磨崖仏に向かいました。十分な日程がとれなかったためで、六郷満山の拠点でもある両子寺(ふたごじ)や富貴寺をパスし、最も残念だったのは神仏習合の発祥地ともいわれる宇佐神宮にも寄れなかったことでした。 

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(画像はパンフレットから転載) パスしてしまった富貴寺の大堂は、現存する九州最古の木造建築物で、国宝に指定されています。この大堂は宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三大阿弥陀堂の一つということで、行きたかったところですが日程の都合でパスしました。

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真木大堂から熊野磨崖仏までの距離は3kmと近く、他に車も人も見かけない道を走るとあっという間でした。

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駐車場に車を入れて数分のところに磨崖仏への入口がありました。ここもひっそりとしていました。

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入口から階段が続いていて、少しずつ傾斜が増していきました。両側に立つ真っ直ぐに天に伸びた古木が長い歴史の積み重ねを感じさせました。

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目の前に現れたゴロゴロとした石が敷き詰められた道は長く続いていてまるでジェットコースターのようでした。鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積み石段です。駐車場脇の入口で、おばちゃんが杖を持って行くようにと言っていた意味がわかりました。前夜の雨で湿り気をおびた岩肌はとても滑りやすかったのです。

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鬼の築いた石段をほぼ登り切ると木立と岩肌に囲まれた空間に岩壁に彫られた二体の大きな磨崖仏が現れました。日本一雄大といわれる石仏といわれる熊野磨崖仏です。よく見ると足元にも小さな石像がいくつか彫られています。造立の時期については、伝説では養老2年(718年)に宇佐八幡の化身の仁聞菩薩が造ったといわれているのですがあまりはっきりしないようで、1000年頃には造られていたと考えられています。

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向かって左側に彫られた大きな石仏は不動明王像。高さは8メートルの半立像で、下部にはあまり手が加えられていません。

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離れているとわかりにくいのですが、近くで見ると右手に剣を持っています。左側の弁髪はねじれて胸のあたり垂れていて、二つの眼球は突出し鼻は広く、かみしめた唇からは牙がチラリと見えています。よく見る不動明王のような忿怒相ではなく、人間味のある優しい不動様に見えました。

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右手に立っているのは大日如来で、高さは6.8メートルです。脚部を掘ると石畳が敷かれ、地下に脚部が埋没しているのではなく半立像だそうです。大日如来といわれているのですが、頭に宝冠もなく印も結んでいませんので薬師如来ではないかともいわれているそうです。

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しばらく大きな石仏と向かい合っていたのですが誰も現れず、磨崖仏を背景に写真を撮ってもらうこともできず、磨崖仏の巨大さを確認するために画像をインターネットから転載しました。目のまで見ている巨大さを感じなかったのですが、やはり大きいです。

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鬼が一夜で築いたといわれる自然石の石段を滑らないように、借りた杖をつきながら手摺りにつかまりながらこわごわと下りました。写真は、この石段の落ち葉を掃いていた地元のボランティアのおばちゃんに撮ってもらいました。

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おばちゃんの写真を撮らせてもらおうと思ってカメラを向けるとくるりと後ろを向いてお尻を向けられてしまいました。大分の人はとても恥ずかしがり屋のようです。ここの落ち葉掃除はとても大変そうでした。

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石段で滑ることも転ぶこともなく入口に戻りました。受付小屋にお借りした杖を返却して念願の磨崖仏参拝を終えました。

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熊野磨崖仏がある豊後高田市から次の目的地中津市の羅漢寺へは、今は無料となっている高速道路を使って約60kmの道のりでした。空模様は青空が顔を出したり雲が流れたりしていてはっきりしませんでした。 

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羅漢寺の駐車場に着くと、「福澤諭吉 羅漢寺参拝記念碑」の石碑がありました。

今まで何回となくTVや雑誌などで見たことのある熊野磨崖仏、実際に目の前にして肉眼で見てみると大きいような大きくないような、日本一雄大な石仏という実感がわきませんでした。しかし実物を目の前にして実際に岩を削っていく様を想像すると大変な労力であったことが実感されました。記録が残されておらず、今から1000年以上も前に誰がどういう目的で彫ったのかわからないというのも不思議でもあります。岩壁を削った人(一人なのか複数なのか)は、後世に名を轟かせようとも思っていなかったということであり、ところが実際には名が轟いているわけで、面白くもありロマンでもあります。 

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2018年12月 2日 (日)

丹沢登山紀 11月 紅葉探し

11月は紅葉探しの登山でした。11日(日)、18日(日)、25日(日)、30日(金)の4回登りました。今年通算36回となりました。

11/11(日) 今年33回目となる丹沢登山は、10/28(日)に行って以来ほぼ2週間ぶりでした。できれば週一のペースで行きたいのですが、用事があったり天気が良くなかったりなかなか思うようにはなりません。紅葉がどのくらい見られるかが楽しみでした。

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この日は日曜日でしたし天気もよく、登山日和を待ちかねた登山愛好家がたくさん集まりました。ある程度の行列ができると始発バス(06:48)より10分くらい早く臨時バスが出ます。この日も早速臨時バスが来ました。

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登山口から見上げた空は青空が広がっていました。この日の天気予報は地上は晴れ、山の上は霧と曇となっていました。2週間ぶりの山歩きでしたので雨さえ降らなければルンルンでした。

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登り始めて1時間くらいで最初の急な登りとなります。これから延々と登りが続きます。少しブランクがありましたので足に負担がこないようにゆっくりと登りました。

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最盛期には紅葉で覆われる「紅葉の廊下」と名付けたこのあたりは、標高が高くないためか紅葉にはまだ早いようでした。

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登山口から2時間くらいの細い山道になると足に疲労がたまり、登山者の列ができます。ここをいかにうまく乗りきるかがその先の登りに影響します。

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ちょっとした岩場の登りでは、木立の葉がすっかり落ちてしまって、冬枯れのような雰囲気でした。丹沢登山が初めてという女性の二人組は登山道が分からないようでキョロキョロしていました。

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登る人の姿が絶えません。頑張って足を持ち上げて一歩一歩登ってゆく姿を見ると「鯉の滝登り」を思い出してしまいました。

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胸突き八丁の登りでは、ゼイゼイハーハーいいながら昇っている登山者を尻目にトレイルランの人たちが駆け上がっていきました。大柄な男性より小柄の女性の方が元気で先行していました。花立山荘の「おしるこ」の旗がおいでおいでしていました。登るときに青空は広がっていたのですが、すっかり曇り空になってしまいました。

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この日は、午後から用事があるために花立山荘から下山しました。小さな子供が元気よく登ってきました。

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かなり下に下山したあたりでも続々と登ってくる人がいました。山頂に着く時間や下山の時間は遅くならないのだろうか、これからの時期日暮れが早くなりますので大丈夫なんだろうか心配になりました。山頂にも途中にも山小屋はありますので心配はないのですが。

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真昼の陽射しを浴びて赤と黄と緑の葉が輝いていました。

2週間ぶりで、登り始めたときは身体が重かったのですが、ゆっくりと登っているうちに次第に慣れていつものペースを取り戻しました。ところが下山ではゆっくり足を下ろさないと膝や足を痛めそうな気がしましたし、足に力が入らないとバランスが悪くなってハッとすることもありました。まあ歳のせいもあるかもしれませんが。これからは気をつけないと自覚しました。

18日(日)、25日(日)は曇り空でしたが、30日(金)今年36回目となる丹沢登山は天気に恵まれました。

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登山口から樹林帯に囲まれた山道になり、晴れていれば樹々の隙間からこぼれる陽射しが気持ちよく感じられ、少しずつ身体も汗ばんできました。 

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登り始めて1時間くらいの紅葉の廊下は見事に色づいていました。今年は異常気象でどうなるかと思っていたのですが、四季は巡るというリズムは変わらないようです。

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別ルートから同じ山頂(塔の岳)へと至る表尾根の稜線もくっきりと見えていました。

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登り始めて2時間の地点から見えた富士山。積雪はだいぶ進んだようです。雲一つないのですが、左手の静岡県側の宝永山あたりに少し雲が流れていました。この雲は1時間もすれば大きくなり、場合によってはお昼頃になると富士山を包んでしまうこともあります。葉をすっかり落とした細枝の先には蕾予備軍が来春の開花に備えて蕾といえないような命を蓄えています。

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バカ尾根といわれる長い尾根の最後の登り。この登りを登りきって2時間半くらいを目標にしているのですが、大体2時間40分くらいで、2時間45分以上かかった場合は体調がよくないと判断して下山することにしています。 

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山頂への最後のステップ。真っ青な空で、風もなく小春日和で今年最高の登山日和かもしれません。 

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今月初めての山頂でした。この日は、どんなことがあっても登頂したいと思っていましたのでほっとしました。 

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塔の岳山頂(1491m)、標高差1200m。一説によると標高差1300m1000mとも)を3時間以内で登れれば北アルプスに挑戦できるといわれています。この日は標高差1200m3時間ちょっとで登りましたのでまだ北アルプスには挑戦できそうです。

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空には雲一つないのですが、気流によるものでしょうか富士山の中腹に巻き付くように雲が流れてきていてもう少しすると山頂にも手が届くかもしれません。ゆっくりとお昼頃に登頂する人は、せっかく頑張って登頂しても富士山を見ることができないケースも多々あります。

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下山する頃、陽が高くなり紅葉を黄葉に染めていました。 

ピークの紅葉を見ることができましたが、あっという間に枯れ葉となり落ち葉になります。山は寒々しい冬木立のシーズンに突入します。早起きが辛い時期になりますが、フワフワの枯葉を踏みしめながら登山者が少なくなった静かな冬登山を楽しみたいと思っています。

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