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2019年5月23日 (木)

本の旅 バッグをザックに持ち替えて 11淳子のてっぺん

著者(唯川恵)がこれからどんな小説を書いていこうか思い悩んでいるときに地方新聞連載の依頼が来ました。何を題材にすればいいか考えた末に、頭に浮かんだのがひとりの女性の人生、頭に浮かんだのは田部井淳子さんでした。

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1975年、女性登山家として世界で初めてエベレスト登頂を果たした田部井さん。男の世界だった登山界で素晴らしい功績を残していらっしゃる。その登山パーティが女性だけで構成されているのにも心惹かれた。女の世界、というだけでどんどん想像が膨らんでゆく。」

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田部井さんはエベレスト初登頂の後も、女性初七大陸最高峰登頂を含め、初登頂、初登攀の記録を数多く重ねました。その功績により、国内外の勲章、栄誉賞、功労賞などの受章(賞)歴も数知れないのです。

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活動は登山だけにはとどまらず、第二の故郷であるネパールでのゴミ焼却炉の建設や、リンゴの植樹などを始め、世界の山岳環境保護問題に深く関わられました。 

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また、東日本大震災に遭った東北の高校生たちを「日本一高い富士山の山頂に立たせてあげたい」との思いで、イベントを続けてこられました。 

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「まったくレベルは違うが、私も山に登り始め、その魅力を知るようになった。田部井さんの半生を書くことができたら――。しかし、そのような方に小説のモデルになって欲しいと申し出るのは失礼ではないか。ましてやノンフィクションではなくフィクションで書こうというのだ。小説となれば虚実とりまぜになる。自分の人生を他人に勝手にあれこれ脚色されるのはいい気分ではないはずだ。」  

著者は、夫の登山仲間を通じて田部井さんと直接会うことになりました。  

「初めてお会いした時はびっくりした。想像していた以上に小柄な方だったからだ。こんな小さな身体で、世界一高いエベレストに登られたのかと、俄かには信じられなかった。しかも『あらあら、いらっしゃい』と、笑顔で気さくに声をかけてくれる姿は、私の抱いていたタフで男勝りというイメージとはだいぶ違っていた。」 

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「世界記録を持つ登山家というよりも、故郷の気さくなおかあさんといった雰囲気だった。田部井さんをモデルに小説を書かせてもらえませんか。おずおず話を切り出すと、田部井さんは戸惑われたようにしばらく目を丸くされた。断られる覚悟はできていた。諦めていたので、後日『どんな淳子になるのか、私も楽しませてもらいます』と、連絡をいたただいた時はどんなに嬉しかったろう。 そして私は田部井淳子さんの半生を措く小説『淳子のてっぺん』を書くことになった。」 

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「驚くことに、今、エベレストには年間数百人もが登頂を果たしている。公募ツアーがあって、専門のガイドや手続きなどの準備も、旅行会社がすべてセッティングしてくれる。もちろん、8848メートルは、誰もが登れる山でないことはわかっている。高度障害と戦わなければならないし、登攀技術も必要だ。しかし、ほとんど情報がなかった田部井さんの時代と比べると、エベレストの山頂が格段に近い存在になったのは確かだ。」

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43年前、田部井さんたちの登山隊が登った時は、一シーズンに一組しか入山が許されなかった。何年もかけて計画を練り、登山の許可が下りるまで何年も待つ。許可が下りたら、メンバーを集め、遠征のための手続きを踏み、装備や食料を準備し、長いキャラバンを経て、足跡ひとつないルートを拓きながら頂上に立ったのである。」  

画像は、栗城史多(くりきのぶかず)氏が20185月に8回目のエベレスト登山の許可証を受けたときのもの。彼はその登山で、エベレストの7300m付近で登頂を諦め下山の際に、6600mあたりの崖の下で死体で発見されました。 

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「装備もまったく違っていた。軽量コンパクトで機能的な今とは較べ物にならないほど、重くて大きくて、頼りなく、使い勝手も悪かった。酸素ボンベひとつ取ってみても、重量は今の約二倍、一本7.5キロもあったという。それを二本ザックに入れて登るのだ。それが田部井さんの時代では当たり前だった。」   

画像は、2011428日にネパール・ポカラの国際山岳博物館を訪れたときのものです。館内の田部井さんのコーナーには、田部井さんが女性世界初のエベレスト登頂を果たしたときの衣服や道具が展示されていました。現在の登山道具に比べて、重そうで非機能的なのにビックリしました。

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「今のエベレストをどう思いますか、と尋ねた時、『頂上から見るあの素晴らしい風景を、多くの人が見られるのは喜ばしいこと』と、仰った。それから『でもね、あの時代に登れたのは幸運だったと思うのよ。何もないから、何もかも自分たちでやった。その充実感、達成感は、あの時代でしか味わえない。もう、したくてもできない山行だもの』と、続けられた。

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「田部井さんとは、その後も何度かお会いするチャンスに恵まれた。ご主人が同席してくださったこともあった。娘さん、息子さんともお会いした。2016年の7月、講演のために軽井沢にいらした田部井さんと、夕食をご一緒した時のことは貴重な思い出だ。病気のために少し痩せられてはいたが、いつもの穏やかな笑みに変わりなかった。」  

田部井さんは、闘病生活に入っていましたがそれでも登山はやめませんでした。 

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「すでに小説は後半に入っていて、エベレスト登攀に向かってキャラバンを続けるシーンを書いていた。実はその時、私はどうしても聞きたいことがあった。途中、隊長が突然帰国してしまう事件である。これは当時、大きなニュースになった。新聞にも週刊誌にも記事が載った。その理由が知りたくて、どうしても田部井さんに聞きたかった。その話を切り出すと、田部井さんは少し困ったように表情を曇らせた。」

「『ごめんなさいね、それは言えないの。お墓の中まで持ってゆくと隊長と約束したから』 落胆がなかったとは言わない。けれどもそれ以上に、田部井さんの筋の通し方に感動していた。40年以上たった今も、約束はたがえない。その姿勢に惚れ惚れした。 『では、そこは想像で書かせてもらっていいでしょうか』 『小説なんだから、そうしていいのよ』が、今も耳に残っている。」

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「亡くなられたのはそのひと月半後だ。77歳だった。最後まで笑顔を絶やさず、周りを慮り、力強く生きられた。今はもう、エベレストの頂上より高いところに行ってしまわれた田部井さん。そこから何が見えますか。ご冥福を心からお祈りいたします。」  

改めてすごい人だったんだなあと思います。ご冥福をお祈りいたします。

 

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